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ズデーテン地方

チェコ北部一帯で、ドイツ人居住者が多かったことから、ヒトラーが併合を要求、1938年、ミュンヘン会談で英仏が容認したため、ドイツに割譲された。

 ズデーテン Sudeten 地方とは現在のチェコの北部、ドイツ・ポーランドとの国境を接する一帯を言う。本来スラヴ系のチェック人の居住地域であるが、中世以来ドイツ人の入植が進み、たびたび民族紛争が起こっていた。第一次世界大戦後に成立したチェコスロヴァキア共和国に編入されたが、1930年代にドイツにヒトラーが登場し、ナチ党が活動するようになると、それに呼応するズデーテン=ドイツ人党が「民族自決」を口実に、ドイツとの統合を主張するようになった。

ナチス=ドイツによる割譲

ズデーテン地方

ドイツに割譲されたズデーテン地方

 ナチス=ドイツは、東方への生存圏の拡張と、ドイツ人の統合を掲げ、ズデーテンの併合をチェコスロヴァキアに強く迫るようになった。特に、1938年3月のオーストリア併合以後、その要求が強まり、ヒトラーも併合を主張するようになった。ヒトラーは、「これが最後の領土要求である」と演説した。
 ミュンヘン会議は同年9月から、イギリス(ネヴィル=チェンバレン)・フランス(ダラディエ)・ドイツ(ヒトラー)・イタリア(ムッソリーニ)の4国代表によって開催された。当事者であるチェコスロヴァキアの代表は召集されなかった。その結果、ナチス=ドイツの主張が認められ、ドイツのズデーテン併合が実行された。会議はヒトラーの要求をのむことによって、これ以上の侵略行為をやめさせ、戦争を回避しようという宥和政策をとるネヴィル=チェンバレンの妥協により、ズデーテン割譲を承認したのだった。
 1938年10月1日、ヒトラーはドイツ軍をズデーテンに進駐させ、併合を実行した。結局、ヒトラーの領土的野心は収まらず、翌39年にはチェコをドイツの保護領として直説支配、スロヴァキアは独立国とした上で事実上のを保護国として分割し、チェコスロヴァキア解体という結果となった。こうしてドイツ周辺を固めたヒトラーは、一方でミュンヘン会議の英仏の宥和政策に不信感を強めたソ連のスターリンと独ソ不可侵条約を締結して備えを万全にした上で、1939年9月、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。
 なお、ズデーテン地方は大戦後にチェコスロヴァキア領に復帰し、多数のドイツ系住民は追放された。
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