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ミュンヘン会談/ミュンヘン協定

1938年9月、ドイツのズデーテン併合問題で英仏独伊四国首脳が会談。イギリスの宥和政策によってドイツの要求を容認した。

ミュンヘン会談

ミュンヘン会談 左からチェンバレン、ダラディエ(仏首相)、ヒトラー、ムッソリーニ

 ヒトラーのナチス=ドイツは、1933年に国際連盟を脱退し、35年には再軍備を宣言、さらに36年にはヴェルサイユ条約ロカルノ条約を無視してラインラント進駐を実行した。
 37年頃から、明確にドイツ民族の「生活圏」の拡張を主張し、38年3月にはオーストリア併合を実現、さらにチェコスロヴァキアに対してドイツ人居住者が多いことを理由にズデーテン地方の割譲を迫った。
 このような事態に対応するため、イギリス首相ネヴィル=チェンバレンは、ヒトラーとの対話を呼びかけた。1938年9月15日、チェンバレンとヒトラーはドイツのベルヒテスガーデンで会見したがヒトラーがズデーテン併合要求について戦争も辞さずと言う強硬姿勢を示し、ついで同月中にゴーデスベルクで2度目の首脳会談が行われたが決裂した。事態は緊迫したが、9月26日、ヒトラーはズデーテン割譲は自分の最後の要求であると声明、それをうけて29日のミュンヘン会談開催となった。

チェンバレンの融和政策

 ミュンヘン(ミュンヒェン)は南ドイツ・バイエルン州の中心都市。1938年9月、ズデーテン問題の解決のために開かれた国際会議がミュンヘン会議で、イギリス(チェンバレン)・フランス(ダラディエ)・ドイツ(ヒトラー)・イタリア(ムッソリーニ)の4国代表が集まった。当事者のチェコスロヴァキアの代表は召集されなかった。会議はイギリス首相ネヴィル=チェンバレンの対独宥和政策によって枠が作られ、ヒトラー=ドイツの要求通り、ズデーテン併合を認めた。フランス外相ダラディエもそれに追随した。

ヒトラーのミュンヘン協定無視

 ミュンヘン協定では、チェコスロバキアの周辺地域がドイツに譲渡されただけでなく、今後重要なすべての外政的行動の際、ドイツは、イギリスと話し合って取り決めるとの内容があった。イギリスの立場からすれば、この点が最も重要な成果だった。ヒトラーにとっては、これこそが敗北と感じた点だった。彼は、東方での自由の手を欲した。ヒトラーがミュンヘンを自分の敗北、イギリスの勝利と感じていたので、それに対する復讐として、1939年3月、イギリスを無視し、予告なしにチェコスロバキア本体を軍事占領したのである。
 チェンバレンのイギリス政府は驚愕したが、宥和政策を変えることはしなかった。しかし宥和政策の方法を変化させた。これまでの約束と譲歩でおびき寄せるやりかたではなく、威嚇を用いることにした。それがポーランドに対するイギリスの保証だった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.267>
ソ連の反発 ヒトラーのナチス=ドイツが東方に領土を広げることを警戒していたソ連のスターリンは、ドイツを抑えるためにイギリス・フランスと提携することを考えていたが、ミュンヘン会談には招聘されず、イギリス・フランスがヒトラーのズデーテン併合を要したことに強い不信感をもった。スターリンはアジアでの日本との軍事衝突であるノモンハン事件(1939年5月)があったので、ドイツと戦端を開くことは不利と考えヒトラーと急接近し、1939年8月、独ソ不可侵条約を締結、世界を驚かせた。それはヒトラーに行動の自由を与えることとなり、同年9月、ドイツ・ソ連は東西からポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発することとなる。
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ノートの参照
第15章5節 ア.ナチス=ドイツの侵略と開戦
書籍案内

斉藤孝
『戦間期国際政治史』
2015 岩波現代文庫
初版1978 岩波全書

セバスティアン・ハフナー/山田義顕訳
『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』
1989 平凡社