印刷 | 通常画面に戻る |

宥和政策

イギリスのネヴィル=チェンバレン首相の、ナチス=ドイツの勢力拡大を一定程度認めて平和を維持しようとした外交基本姿勢。

 宥和政策(Appeasement Policy)は、外交上の譲歩によって戦争を極力避けて平和を維持しようという面では評価されてもよいことであるが、イギリスの宥和政策はナチス=ドイツの領土拡張要求を、小国の犠牲において認め、それと妥協することによって自国の安全を図ったもの、という否定的な評価が一般的である。特に1938年のミュンヘン会談で、当事者であるチェコスロヴァキアの不参加の下でズデーテン割譲を認めたことは、ヒトラーの野心を見抜けなかったこととあわせてチェンバレンの失策と言わざるを得ない。しかし、そう言えるのは「後知恵」であり、当時はチェンバレンは戦争の危機からヨーロッパを救ったヒーローとみられており、ミュンヘン会談から帰国したチェンバレンは平和を実現したとしてロンドンで大歓迎を受けたことを忘れてはならない。それでは、彼はなぜ、「宥和」を前面に押し出したのだろうか。

宥和政策の始まり

 1935年に成立したボールドウィン(保守党党首)内閣から、イギリスはヨーロッパにおけるナチス=ドイツの反ヴェルサイユ体制の動きや、アジアにおける日本の中国侵略などに対して、積極的に非難せず、むしろそれを黙認するという姿勢をとった。当時イギリスにとって脅威はソ連=コミンテルンと考えられていたので、ドイツや日本はソ連を抑えるためには利用できると判断していた。
 このような外交政策としての宥和政策が、明確になるのは、ヒトラーのナチスドイツがヴェルサイユ条約に違約して再軍備に踏み切ったことに対し、ストレーザ戦線で抗議しながら、一方で単独でドイツと交渉して英独海軍協定を締結し、ドイツの一定の軍備拡張を認めることによって、それ以上の要求は抑えられると判断したことに始まる。

Episode 大英帝国の「日の名残り」

 第一次世界大戦後のイギリスで、ヴェルサイユ条約がドイツに対して過酷すぎると考え、ドイツの戦後復興を助けて軍備も対等なものなら認めてもよいと考える知識人がかなりいた。カズオ=イシグロの小説『日の名残り』は、そう考えるイギリス貴族ダーリントン卿という人物に仕える執事の目を通して、見事に描いている。執事というイギリス特有の職業に誇りを持っている主人公と、同僚の女中頭の微妙な関係を軸に、ダーリントン卿の私邸で繰り広げられた、30年代のイギリス、フランス、アメリカとドイツの駆け引きが展開される。正義感と善意からドイツに肩入れしたダーリントン卿は、ドイツの再軍備は平等の観点から認めていいと思えたし、チェコスロヴァキアなどの「見知らぬ国」のためにイギリスの青年を戦場に送ることはできない、と考える。いつしかナチスの思想をも受け入れ、ユダヤ人のメイドを解雇する。主人の命令に従おうとしかしない執事に対し、女中頭は抗議するが・・・・。結果的にダーリントン卿は戦後、ナチス協力者としてその名誉を奪われる。けして政治ドラマでは無く、淡々と執事と女中頭の二人を姿を追うだけの内容だが、ぜひ一読を勧める。なお、1993年にA=ホプキンスとE=トンプソンが主演で映画化されており、そちらもイギリスの30年代をよく再現していて一見の価値がある。

チェンバレンの宥和政策

 それがより鮮明になったのはネヴィル=チェンバレン(保守党)内閣からであった。その宥和政策が典型的に現れたのが、1938年9月のミュンヘン会議であった。
 すでに前年の11月、ヒトラーは「生存圏」の拡張のためオーストリアとチェコスロヴァキアへの侵略を決意しており、その直後、チェンバレンは特使としてハリファックス卿をドイツに非公式に派遣しヒトラーと会見させた時、ナチス=ドイツが共産主義の西進を阻止していると賞賛し、ドイツのダンツィヒ、オーストリア、チェコスロバキアの併合を「平和的方法で行われるかぎり」支持すると表明している。<斎藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波全書 p.248>  ミュンヘン会談ではナチス=ドイツのチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を認めるというチェンバレンの策にフランスが追従し、チェコスロヴァキアの犠牲においてヨーロッパの平和を実現させた形となった。ドイツ国内でも多くがズデーテン割譲要求は拒否されると予想していたが、予想外の展開にヒトラーの強気な外交姿勢が功を奏したものとして「ヒトラー神話」はますます確固としたものになった。しかし、ズデーテン併合にとどまらず、ポーランドへの領土的野心が露わにされ、イギリス・フランスの宥和政策はナチス=ドイツを増長させる結果となった。

参考 「『宥和政策』への反省」への反省

 イギリスのチャーチルはチェンバレンの宥和政策を厳しく非難し、ヒトラーとの対決を主張した。いよいよヒトラーとの戦争が始まると、チェンバレンの宥和政策が結果としてヒトラーを「増長」させ、戦争を防げなかったという「反省」が一般にもひろく言われるようになった。第二次大戦後も、特に西側の指導者には、「宥和政策」の失敗が戦争をもたらしたという強いトラウマが残ったようだ。米ソの戦力が均衡していた冷戦時代には両国が直接衝突することはなかったが、たとえば朝鮮戦争では、北朝鮮軍の国境侵犯に対して、アメリカがすぐに動いた理由には、ヒトラーのチェコスロヴァキア分割や日本の満州進出に対して「宥和政策」を採ってすぐに対決しなかったことが、ドイツ・日本の暴走を許してしまったという反省にたっての行動だったと言われている。冷戦時代が終わってさらに「宥和政策」否定の風潮は強まり、アメリカのブッシュ大統領の湾岸戦争におけるフセインに対する行動は、まさにそのような論理によるものであった。「宥和政策」否定はさらに進めば、「自衛のための先制攻撃容認論」となりかねない危険性をはらんでいる。「宥和政策」を反省して先に相手を叩く、ということへも反省が必要だ。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第15章1節 ア.ナチス=ドイツの侵略と開戦
書籍案内

カズオ・イシグロ
/土屋政雄訳
1989 ハヤカワepi文庫
DVD案内

A=ホプキンス・E=トンプソン主演
1994 J.アイヴォリー監督