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武器貸与法

1941年3月、F=ローズヴェルト大統領のとき、アメリカ議会が第二次世界大戦中のイギリスなど連合国への武器貸与を認めた。

 1941年3月、第二次世界大戦が進行する中、フランクリン=ローズヴェルト大統領の提案によって、アメリカ議会はイギリスなど枢軸国側と戦う国に対して、武器・軍需物資を貸与することを定めた。この武器貸与法 Lend,Lease Act (レンド・リース法)は、利子付きで返済する必要がある借款ではなく、貸与= Lend 、または賃貸= Lease するものであり、使用後に返還するか、賃貸料を支払えばよいので、イギリスにとって負担は少なかった。また、同年6月に独ソ戦が始まると、ソ連に対しても戦車・飛行機などを提供して支援した。アメリカは同年12月8日、日本の真珠湾攻撃によって日本と開戦、ドイツ・イタリアも宣戦布告したのでここで正式に参戦し、ヨーロッパ戦線・太平洋戦線に莫大な兵力を投入することになるが、同時にこの武器貸与法はイギリス、フランスのみならず、ソ連や中国(蒋介石政権)も対象として連合国を幅広く支援したものなので、物資面でも連合国を支えたと言うことができる。
・POINT ①  貸与または賃貸が可能であったこと。これは、第一次世界大戦でのアメリカの支援が借款であり、戦後にその返済でイギリスが苦しみ(さらにイギリスに支払う賠償でドイツが苦しみ)、戦争の再発に繋がったことを反省したものであった。基本的には貸与なので使った武器は戦後返還するか、損傷したものは賃貸料を払えば良かった。
・POINT ②  対象がソ連や中国へひろがったこと。特にソ連に対する支援は国内でも反対が強かったが、F=ローズヴェルトは「敵の敵は味方」とわりきり、ソ連を支援した。武器貸与法はイギリスが対象という印象が強いので注意しよう。山川出版世界史用語集では「イギリスを支援するため」とあり、「大戦中を通じてほとんどの連合国に適用された」とだけ説明されていてソ連の名はない。しかし教科書本文には「武器貸与法によってイギリス・ソ連などに武器や軍需品を送り」とはっきり書いている。用語集丸暗記ではなく、教科書本文を大事にしよう。<センターテスト 2018年世界史B第3問の問6 参照>

武器貸与法の経緯

 ヨーロッパで戦争の危機が迫ってもアメリカ合衆国は、伝統的な孤立主義(ヨーロッパ諸国間の争いには介入しないという外交原則)を維持しており、議会は1935年に中立法を制定、交戦国への武器支援、経済援助などは行わないことが定められていた。
 第二次世界大戦が1939年9月に勃発し、ドイツ軍の進撃が止まらず、フランスが降伏すると、イギリスは武器購入資金が枯渇して独力で戦うことが困難になった。イギリスのチャーチル首相の要請を受けたフランクリン=ローズヴェルト大統領は、アメリカにとってもイギリスの敗北はドイツ=ファシズムの決定的な勝利を意味することとして危機感を強め、支援の具体化を探った。国内世論も、イギリス支援の声が強まっていった。
 早くからドイツとの戦争は避けられないと考えていたF=ローズヴェルトは、まず1939年中に現金取引、自国船輸送を条件に中立法を緩和し、1940年6月、シャーロッツヴィルで「民主主義の擁護」のため戦うことを避けられないと演説した。9月には日独伊三国同盟が結成され、枢軸国の体制が整うと、11月に大統領選挙で三選を果たし、12月の炉辺談話でアメリカが「民主主義の兵器廠」となるべきだと訴えた。翌41年正月の年頭教書では「言論の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」の「四つの自由」を擁護する重要性を示した(これは後の大西洋憲章に盛り込まれる)。こうして孤立主義からの脱却をめざしたF=ローズヴェルトは、41年3月、議会に武器貸与法を提出した。

武器貸与法の成立

 武器貸与法は「大統領が合衆国の安全保障上必要と認めた国に対して武器・軍事物資を売却、貸与、賃貸などを行うことができる」というものであった。上・下両院で激しい議論が交わされ、戦争への介入の不安(武器を貸与してもイギリスが負けてしまうのではないか)、大統領の権限の強化への憂慮などが反対論としてあがったが、結局2年間の時限立法とする、大統領は90日ごとに議会に運営について報告するなどを条件に、41年3月11日、議会を通過した。

Episode 大統領のアイディア

 武器購入資金の不足しているイギリスにどのような援助を与えるか、問題があった。1934年に第一次世界大戦の戦債未払国に借款を与えることは禁止されていた。F=ローズヴェルトは駆逐艦で大西洋を遊弋中に思いついたのが貸与という新しい援助形式であった。大統領が西半球の防衛に必要と認めた場合に、必要な武器を他の国々に貸与(lend)、あるいは賃貸(lease)することができるようにすることだった。貸与した武器は戦後返還を受け、損傷した場合には賃貸料の支払いをうけるもので、決して借款でもなければ贈与でもない。従って武器を貸与された国は戦後に損傷した分だけ賃料を払えば良い、つまり事実上無償で資金援助できることになる。<岩波講座『世界歴史』29 現代6 1971 p.326>

武器貸与法の意義

(引用)これは、第一次世界大戦時には軍事物資の提供が民間の融資にによって行われたため、戦後に巨額の戦債・賠償問題を発生させた反省から、国家資金を使用して軍事物資を「貸与」する形で戦後の返済負担を軽減しようとしたもので、第二次世界大戦後に一般化する「対外援助」の先駆的形態となった。そして、この「武器貸与法」は成立後、ただちにイギリスや中国に適用され、連合国側の戦争遂行を軍事物資面で支える大きな役割を果たした。この法律の可決をチャーチルは後にフランスの陥落そして「バトル・オブ・ブリテン」に続く、第二次世界大戦における「第三の頂点」とまで呼んで、高く評価した。<油井大三郎『世界の歴史』28 1998 中央公論新社 p.34>

ソ連への貸与

 武器貸与法が議会を通過したので、イギリスおよび中国にはただちに武器貸与がはじめられた。1941年6月に独ソ戦が始まると、F=ローズヴェルトはドイツが宣戦布告せずに対ソ侵略を開始したことから中立法の適用を除外し、ソ連がアメリカの武器を購入することを認めた。しかし武器貸与法の適用に対してはソ連軍がすぐに負けるのではないかという観測もあり、軍が消極的であった。しかしF=ローズヴェルトはソ連の敗北は、直接イギリス・アメリカの敗北に繋がるとして、10月、三国間の武器貸与協定を締結してソ連軍にも武器貸与を開始した。これによって戦車や航空機が、北海ルートや中央アジアルートでソ連に送られた。

武器貸与の実際

 武器貸与法によって、1945年までに、全体で金額に換算すると約500億ドルの供与が行われた。その内容は、武器、戦車、航空機、車両、船舶から軍靴にいたるまでのあらゆる軍需品が含まれていた。大戦中に武器貸与法で供与された総額約500億ドルの内訳は、イギリスに314億ドル、ソ連に113億ドル、フランスに32億ドル、中国に16億ドルという数字が残っている。戦後の1945年に、米英金融協定が成立し、アメリカは武器貸与法によってイギリスに供与した約200億ドルの賃貸料を免除した。これによって、第一次世界大戦後のような賠償問題は発生することがなかった。 → アメリカの外交政策
アメリカにとっての武器貸与法 武器貸与法が成立し、連合国諸国に大規模な軍需品の提供が始まったことは、軍需産業を中心とするアメリカ経済にとっても重大な意味を持っていた。世界恐慌以来、アメリカの失業者の増大はなおも続いており、1940年には800万人を数えていた。ところが1941年の武器貸与法の成立による軍需産業の本格化、さらに同年末の参戦によって、1942年には失業者は266万に減少(失業率4.7%)した。1943~44年は失業率1.9~1.2%という超完全雇用を達成した。ニューディールが理想とした完全雇用は、戦争景気で達成されたのだった。<岩波講座『世界歴史』29 現代6 1971 p.328>
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ノートの参照
第15章5節 イ.ヨーロッパの戦争
書籍案内

油井大二郎他
『世界の歴史 28』
第二次世界大戦から
米ソ対立へ
1998 中公文庫