印刷 | 通常画面に戻る |

独ソ戦

1941年6月、独ソ不可侵条約を破棄したドイツが突如、ソ連に侵攻。第二次世界大戦が拡大し、ドイツ軍は北部ではモスクワやレニングラード、南部ではコーカサスに迫りった。1942年8月に始まったスターリングラード攻防戦は、翌年2月2日、ドイツ軍の敗北となり、その後はソ連軍が西進、東欧諸国を解放しながらドイツに迫り、1945年4月にベルリンを占領、ドイツ軍が降伏して終わらせた。

 1941年6月22日未明、ナチス=ドイツ軍は突如大兵力をソ連領に侵攻させた。これは独ソ不可侵条約に違反する行為であり、ヒトラーがどのような戦略的意図から行ったことかわからないことが多い。イギリスと交戦中であり、非交戦国とはいえイギリスを支援しているアメリカが控えているにもかかわらず、、その一方でソ連と事を構えて二方面作戦を開始することは不利であると考えられるが、そのような常識的な戦況判断を越えたヒトラーの信念であったらしい。もともとヒトラーは共産主義とは相容れない思想を持ち、またロシア人を劣等民族として軽蔑していた。いずれにせよこの決断は、第二次世界大戦の行方を決する方向転換であった。以後約4年間、ドイツとソ連は熾烈な戦闘を展開する。

独ソ対立の背景

 さらに東欧とバルカンをドイツ人の楽園とする構想を持っていたヒトラーは41年4月、バルカン侵攻を行った。さらにヒトラーにとってロシア領土を獲得しドイツ人の生存圏を拡張することと、ソ連共産主義を絶滅させることが本来の戦争目的であった。フランス降伏後間もない1940年8月、ヒトラーは対ソ作戦計画の準備を命じ、12月には、41年5月15日までに準備を完了させることを命令した。その準備行動としてバルカン侵攻を実行した。バルカンを制圧した4月末、ヒトラーは対ソ作戦の開始を6月22日と決定し、一方でイギリスとの休戦を打診するため副総統ヘスをロンドンに派遣している。ヒトラーの計画によれば、ソ連内部の反共産党民衆蜂起を誘発させ、2ヶ月以内に占領を完了する予定であった。
 一方、ソ連はドイツのバルカン侵攻に対応して、4月13日、日ソ中立条約を締結して、戦力の東部への集中を可能にした。しかしスターリンはイギリス・アメリカからドイツ軍のソ連侵攻計画の情報を得ながら、最終的にはその日付を信じず、ドイツの侵攻は奇襲となり、ソ連軍は受け身に回らざるを得なかった。

Episode チャーチルのスターリンへの警告

 チャーチルの『第二次世界大戦回顧録』によれば、ドイツのソ連侵攻の動きを察知したイギリス首相チャーチルは、スターリンに警告したという。しかしスターリンは耳をかさなかったため、奇襲を受けて緒戦の大敗を招いた。このことは後のフルシチョフの「スターリン批判」でもその材料の一つに加えられている。<『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』講談社学術文庫>

バルバロッサ作戦

 ヒトラーはソ連侵攻作戦を「バルバロッサ」と命名した。バルバロッサとは12世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤ひげ王)のこと。イタリア侵攻や第3回十字軍に参加した勇猛な皇帝だが、川でおぼれて死ぬという末路だった。その名を冠したヒトラーの「バルバロッサ」作戦は、おそらく覚悟はしていたであろうが警戒はしていなかったスターリンのソ連軍を蹴散らして進撃し、ミンスク、スモレンスク、キエフなどでソ連軍に大損害を与えながら、レニングラード、モスクワ、スターリングラードの目的地に迫った。レニングラードでは900日に及ぶドイツ軍の包囲が続いたが、ついに開城することはなかった。モスクワへの41年12月に到達したが、戦線は延びきり、兵力不足からドイツ軍はモスクワ入城ができなかった。かのナポレオンのモスクワ遠征と同じようにドイツ軍も「冬将軍」に阻まれたのだった。スターリン指導部は、戦線と工業生産地域を東方に後退させながら、この戦争を「大祖国戦争」と称してスラブ民族の危機であると国民に訴えて抵抗を続けた。

Episode くりかえされた1812年

 1941年冬を迎え、ドイツ軍の侵攻はソ連領深く入り込んでいたが、かつてのナポレオンのモスクワ遠征と同じ状況となってきた。
(引用)冬は猛烈な勢いでやってきていた。雪、身を切る風、気温はマイナス20度以下に落ち、ドイツ軍戦車のエンジンは凍りついた。前線では、敵の進撃のみならず寒さを避けるために、疲れはてた歩兵が掩蔽壕を掘る。地面が固く凍りついているので、最初に焚き火をしてから掘りはじめなければならない。司令部の幕僚と後衛部隊は、住んでいるロシア人を雪の中に放り出して農家を占領した。
 ヒトラーが冬季の軍事行動を再考しなかったがために、兵士たちは恐るべき辛酸をなめるにいたった。「多くの兵は紙で足を包んで動き回る始末、手袋はまったく不足しております」とある装甲軍団の団長はパウルス将軍に書き送った。石炭入れの形によく似た鉄兜を除けば、とうていドイツ国防軍の兵士とは思えない兵士が大勢いた。ぴったりした鋲底の長靴では凍傷にかかりやすいだけなので、彼らは捕虜や民間人の服やブーツをたびたび盗みに行った。・・・
 ヒトラーも同じように1812年に心を奪われ、いかなる場合にも退却してはならぬという命令を矢継ぎ早にはしていた。この冬さえ乗り切れば、ロシアへの侵入者に降りかかった歴史的呪いはとける。ヒトラーはそう確信していた。<アントニー・ビーヴァー『スターリングラード』2005 朝日文庫 p.63,67>

第二次世界大戦の転換

 独ソ戦の開始によって、ドイツを共通の敵とすることになったイギリスとソ連は、早くも7月22日、英ソ軍事同盟を締結した。ボリシェヴィキ=スターリン政権を敵視していたイギリスにとって、大きな転換であった。同年8月に発表された米英首脳による大西洋憲章に対しただちに支持を表明、それを受けてアメリカもソ連への武器援助を開始した。42年1月にはソ連も参加して連合国共同宣言が作成され、連合国の態勢が成立した。またソ連はそれまで資本主義国のソ連敵視の原因となっていたコミンテルンの解散を43年6月に実行する。こうして資本主義国と共産主義国が枢軸国に対して一致して戦う連合国を形成するという事態となった。
 独ソ戦開始の半年後の1941年12月8日(ヨーロッパ時間では7日)、日本は、同じく現在から見れば物量的に勝ち目のない戦いであったと思われる対米戦争(太平洋戦争)にふみきり、アメリカの参戦をもたらした。4日後、ヒトラーは対アメリカ宣戦布告を行った。独ソ戦と太平洋戦争という二つの動きが、第二次世界大戦を文字通り「世界大戦」に転化させることとなった。

ユダヤ人、ジプシーの虐殺

 バルバロッサ作戦の当初から、抵抗するパルチザンの処刑にまじって、ユダヤ人やジプシーの大量虐殺という任務が、ドイツ国防軍に与えられていた。「ユダヤ人破壊活動員」の非合法性は曖昧に「ユダヤ=ボリシェヴィキ」の陰謀と同義語とされ、1941年7月10日のドイツ第6軍司令部は、髪の短い私服の者は十中八、九赤軍兵士と考えられるので、出会ったらただちに殺害せよという命令を出している。
 ヒトラーはソ連との戦争を、ボリシェヴィキと戦う十字軍と称し、ユダヤ人やジプシーを絶滅させる人種戦争の一環としてとらえた。国防軍の軍人の中にはヒトラーに疑問を持つ者も多かったが、その命令には忠実に従った。キエフなどの占領地では共産党員、集団農場員の構成員とみなされた者が、その家族の幼児も含めて組織的に殺害された。それに対する赤軍兵の報復もドイツ人捕虜捕殺害や野戦病院に対する攻撃など非人道的な行為をくりかえした。<詳細はアントニー・ビーヴァー『同上書』>

ドイツ軍の敗北

スターリングラード攻防戦 ドイツ軍は、1942年8月からヴォルガ河畔のスターリングラードを包囲し、独ソ戦の最大の山場であるスターリングラードの戦いとなった。ドイツ軍が激しい抵抗を受けて市内への突入ができないでいるうち、ソ連軍はその外側から逆に包囲し、孤立したドイツ軍は補給が途絶えたため撤退を図ったが、ヒトラーはそれを許さず、結局ソ連軍の猛攻によって翌年の2月2日、降伏した。
 スターリングラードの戦いの後も独ソ両軍はアゾフ海に面したロストフ、内陸のハリコフなどで攻防を展開した。次いで1943年7月にはクスルクで史上最大の戦車戦が行われ、双方に莫大な犠牲をだしながら、ソ連軍が辛勝した。ソ連軍は、同年秋にはキエフを奪還、さらに西進して、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリアなど東欧諸国を解放してゆき、1945年4月にベルリンを占領、5月にドイツ軍は降伏して独ソ戦は終わった。

独ソ戦の犠牲者

 1941年6月から1945年5月までの、約4年間、1416日間にわたって続いた独ソ戦では、ドイツ軍は概数で390万4000人、枢軸側同盟国(ルーマニア、ハンガリー、フィンランド、イタリア)が95万9000人、ソ連軍が1128万5000人を戦死・行方不明で失い(負傷は含まず)、独ソ両国と東欧諸国で1500万人を越える民間人の生命が、戦火の中で失われたと言われている。合計すると約3115万人となるが、これを戦争の日数(1416日)で単純に割ると、一日あたり2万2000人に近い人間が犠牲となった計算となる。<数字は、山崎雅弘『新版独ソ戦』2016 朝日文庫 p.353-356 による。>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争
書籍案内

A.ビーヴァー/堀たほ子訳
『スターリングラード
運命の攻囲戦1942-1943』
2005 朝日文庫

山崎雅弘
『新版独ソ戦』
2016 朝日文庫