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ホジャ(ホッジャ)

アルバニアのパルチザンをひきいて独立を達成した共産党の指導者。スターリン批判に反対してソ連と対立し、1961年に断交。親中国路線に転換したが、毛沢東死後は中国とも対立し、独自の鎖国政策をとった。

 ホジャ Enver Hoxha(1908~1985) はホッジャ、またはホージャとも表記する。アルバニア共産党を創設し、 第二次世界大戦中、アルバニアのイタリア・ドイツとのパルチザン闘争を指導して解放を勝ち取った。1944年、臨時政府の首班となり、1946年にアルバニア人民共和国を樹立した。1954年からアルバニア勤労者統一党第一書記。ソ連のスターリン体制のもとで次第に独裁的な権力を強めていった。
 1957年、ソ連がスターリン批判に踏み切るとそれに反発して、1960年代はソ連のと断交して親中国路線をとった。チェコ事件ではソ連の軍事介入に反対してワルシャワ条約機構から脱退した。しかし、毛沢東死後は中国とも対立して独自路線を強め、西側諸国、ソ連、中国とも交渉をもたない鎖国状態のまま、独自の社会主義体制を維持した。以下、日本ではあまり知られていない、アルバニアの指導者として君臨したホジャの足跡を観てみよう。そこには戦後の社会主義陣営がたどった、笑えない現実が見えてくる。

アルバニアの状況

 アルバニアは1913年に王国として独立したが、第一次世界大戦でイタリアの委任統治となり、その支配が強まると1920年に再独立した。その後もイタリアの干渉が続く中、軍人ゾグーがイタリアと結んで権力をにぎり、1928年には立憲君主政の憲法を制定して国王に収まった。しかし、国王ゾグーとイタリアの干渉に反対する運動も始まった。1939年、ヒトラーのチェコスロヴァキア解体をうけて、ムッソリーニはアルバニアに出兵し、ゾグーを追放して併合した。このイタリアの軍事征服に抵抗してアルバニアの抵抗運動が始まったが、その一つ共産党のパルチザンを指導したのがホジャだった。

パルチザン闘争を指導

 エンヴェル=ホジャは南部のトスク族のムスリム地主の息子で、1930年にフランス留学、帰国後に南部のコルチャでフランス語教師をしていた。1939年4月、イタリアがアルバニアを占領すると、抵抗運動を組織、知識人の一人として1941年11月のティラナでの共産党結党に参加して書記長となった。アルバニア共産党創設会議にはユーゴ共産党代表が2名参加、ユーゴ・パルチザンの指導を受けながら都市部や山岳部でパルチザン闘争を展開した。アルバニアの抵抗運動にはもう一方で、ユーゴの影響を排除し、国王ゾグーを支持する民族主義派の組織もあり、両派は対立しながらもイタリアとの抵抗を続けた。1943年9月イタリアが降伏すると替わってドイツがアルバニアに入り、ドイツに対する抵抗運動に転換した。
 1943年2月のスターリングラードでのドイツ軍の敗戦から、ソ連軍の西への侵攻が始まり東ヨーロッパ諸国もソ連軍とそれに協力したパルチザンによって次々と開放されていった。アルバニアにはソ連軍が入ることはなく、ホジャの率いるアルバニア人の人民解放軍によってドイツ軍が排撃され、解放された。ホジャは民族主義グループなどとの内戦をユーゴのパルチザンの支援を受けて続け、1944年9月末までには大半を解放した。10月、臨時政府は「アルバニア民主政府」を宣言し、翌11月にはドイツ軍が撤退しティラナが解放された。しかし、コソヴォはユーゴのパルチザンによって解放が進められた。

アルバニアの再建

 ホジャの指導する共産党政権の課題は、イタリア・ドイツとの戦いで荒廃した国土を再建することと、人口110万に過ぎない小国アルバニアであったが、少ない平地は大諸地所有者(地主)が支配し、山岳部では零細な農業が牧畜に従事するという前近代的な関係の残る社会を改革することだった。解放するとまずイタリア・ドイツの資産を没収して国家管理とし、鉱山を国有にするなどの措置を取った。その後、ユーゴスラヴィア連邦ティトーに倣って急ピッチでソ連型社会主義国家の建設にあたり、1946年1月にアルバニア人民共和国を宣言し、共産党書記長であるホジャが首相に就任した。

ソ連追随から決別へ

 ホジャは当初、ユーゴスラヴィア共産党の援助で解放戦争を戦ったので、ティトーのユーゴスラヴィアとは友好関係にあったが、1948年のコミンフォルムのユーゴスラヴィア除名以後は袂を分かち、ソ連寄りの姿勢に転じ、国内のティトー派を粛清した。党名もアルバニア労働党に変更した。以後、ソ連との関係は強化され、52年には第一次五ヶ年計画が立案されて農業の集団化と工業化、電化に着手した。
 しかし、1953年3月にスターリンが死去し、東ヨーロッパ諸国で非スターリン化が始まるとホジャはスターリン崇拝の立場を維持することを表明して、各地にスターリン像の建設を進めた。1956年にフルシチョフスターリン批判を明らかにするとさらに関係が悪化、1960年11月、モスクワで開催された第二回世界共産党会議で、ホジャはフルシチョフ路線に公然と反対し、ソ連との関係は決定的となり、ソ連はアルバニアとの外交関係を断絶した。

中国追随から決裂へ

 ホジャは親中国路線をとることに転じ、毛沢東との関係を強め、中ソ論争でも一貫して中国側に立った。1960年年代にはアルバニアはコメコンワルシャワ条約機構から追放された。毛沢東主導のプロレタリア文化大革命に対しても理解を示し、アルバニアでも共産主義の純粋化や宗教根絶の運動を起こした。1967年にはすべての宗教活動を禁止する布告を出し、イスラーム、カトリック、ギリシア正教の宗教組織に属する資産は没収、宗教指導者は逮捕されるか追放されるかとなった、アルバニアは世界で初めての「無宗教国家」となり、各地のモスクと教会は破壊されるか集会場かスポーツ施設に変更になった。
 しかし、アルバニアの中国だけと連帯するという方針も1971年に突然揺らぐこととなった。この年、中国はアルバニアの頭ごなしにアメリカとの関係改善に乗りだしニクソン大統領を北京に迎えた。これを受けてホジャは中国批判に転じ、1976年のアルバニア労働党第7回大会でホジャは15時間に及ぶ大演説を行い、アルバニア社会主義の独自の発展路線の堅持を表明した。同年、毛沢東が死去して中国との関係はさらに悪化、中国の鄧小平が改革開放路線に対しても非難を強めた。78年7月に中国はアルバニアに対する援助をすべて停止するに至った。

独自の鎖国政策

 ホジャの指導するアルバニアはこうして西側陣営だけでなく、ソ連・中国とも国交を断絶して、ほとんど「鎖国政策」を採ることとなった。当然、農業・工業など諸生産は自給自足に依存することとなり、その限界のもとで経済の停滞を招いた。ホジャは1985年、76歳で死去するまで最高指導者として君臨し、後継者にパルチザン闘争以来の共産主義エリートのアリアを指名した。
<柴宜弘『図説バルカンの歴史』2001 河出書房新社 などをもとに構成>
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柴 宜弘
『図説バルカンの歴史』
2019 河出書房