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ゴルバチョフ

1985年、ソ連共産党書記長となりペレストロイカなど改革を推進した。新思考外交を展開して緊張緩和を進め、1989年の東欧革命を機にアメリカ大統領ブッシュとの間で冷戦終結を宣言した。しかし、国内の経済、政治改革には失敗し、1991年の保守派クーデターで監禁され、釈放された後、ソ連共産党の解散を宣言、次いでソ連邦も解体に追い込まれ、最初にして最後のソ連大統領となった。

ゴルバチョフ
 ミハイル=ゴルバチョフ(Mikhail Serggeevich Gorbachev 1931-)は、ソ連の最終的な指導者。1985年から書記長としてゴルバチョフ政権を成立させ、ペレストロイカを掲げて改革にあたり、89年にマルタ会談で冷戦を終わらせ、91年大統領となったが、91年の保守派クーデターを機に辞任。ソ連は解体されることとなった。
 ゴルバチョフはモスクワ大学法学部とスタブローポリ農業大学で学んだ。66年スタブローポリ市党委員会第一書記をかわきりに、地方党役員をつとめ、78年に農業担当の党中央委員会書記に抜擢され、80年10月の中央委総会で49歳の若さで政治局員に昇格した。アンドロポフ・チェルネンコ政権下で“ナンバー2”の書記として活躍した。

グラスノスチ

 1985年5月、チェルネンコの急死を受けて書記長に選出されると、党首脳、閣僚、軍首脳などの人事異動を断行、共産党官僚政治の打開に取り組んだ。就任直後の86年にはチェルノブイリ原子力発電所の事故が起こり、グラスノスチ(情報公開)に迫られた。

ペレストロイカ

 国内の経済ではペレストロイカという改革に力を注ぎ市場経済の導入を図った。

新思考外交

 外交でも新思考外交を展開し、87年のIMF全廃条約締結、88年の新ベオグラード宣言を発表して、ブレジネフ=ドクトリンを撤回し、制限主権論を放棄することを表明した。これは東欧諸国のソ連離れを加速させ、東欧革命を誘発することとなる。また、1989年5月にはソ連首脳としては30年ぶりに中国を訪問し、中ソの国交を正常化させた。このゴルバチョフの訪中は、中ソ対立を終わらせ、国際情勢の大きな転換をもたらした。中国も転換期を迎えており、ゴルバチョフが北京に滞在中に第2次天安門事件の騒乱が起こったが、鄧小平政権はそれを力で押さえつけた。

冷戦の終結

 このような大胆な改革を実行したゴルバチョフは「ゴルビー」とわれて人気者になった。特に東欧諸国ではソ連の改革を機にソ連からの自立、民主化が一気にうごき、1989年に東欧革命が起こった。ベルリンの壁が開放されて、ドイツ統一が実現したことを受けて、12月のブッシュ(父)・アメリカ大統領とのマルタ会談冷戦の終結を宣言した。さらに懸案のアフガニスタン撤退を決断した。それによって1990年のノーベル平和賞を受賞した。

ソ連の消滅

 しかし、経済面での改革は必ずしも成功といえず、市場経済への移行も十分でなく経済は停滞した。ゴルバチョフは憲法を改正して共産党一党支配を改め大統領制に移行させ、90年3月に人民代表者会議でソ連邦大統領に選出された。このような強権的な改革は、共産党保守派の反発を強めることとなり、またロシア大統領のエリツィンなど改革派は改革の不十分を批判するようになった。そのような混乱の中から、バルト三国の独立宣言に危機感を持ったソ連共産党保守派のクーデターが1991年8月に起き、ゴルバチョフは監禁され、クーデターは失敗したが、同年12月大統領を辞任、彼は最初にして最後のソ連邦大統領となった。

Episode ゴルバチョフの新しさ

 ゴルバチョフは1934年3月、ロシア南部、北カフカースの農民の子として生まれた。この地の自立的なカザーク(コサック)農民は農業集団化と飢饉による打撃を受け、抵抗が激しかった地域である。ゴルバチョフの父はコルホーズ議長であったが、一族は32~33年の飢饉にあい、二人の祖父も抑圧の犠牲になつていた。農村出身でしかも抑圧された地域からでてきた新指導者は、それまでの共産党官僚、軍や治安機関出身者、巨大な官庁利益を背景としたテクノクラートとは異なった背景と経歴を有した。<下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』講談社選書メチエ 2002>
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ノートの参照
第17章2節 イ.東欧社会主義圏の解体