ハットゥシャ/ボアズキョイ
小アジアの古代ヒッタイト王国の都ハットゥシャの遺跡。現在の地名がボアズキョイ。大量の楔形文字を記した粘土版が出土し、ヒッタイトとエジプト新王国の関係などが明らかになった。
ボアズキョイ 獅子の門
Wikimedia Commons より
ヒッタイト王国は、古代オリエント世界で、最も早く鉄器を使用し、戦車を実戦に用いて近隣諸国、特にエジプト新王国と闘いを続けた軍事大国であった。ボアズキョイ遺跡からは多数の楔形文字を記した粘土版とともに、鉄製武器も出土しており、その高い文明を知ることができる。
世界遺産 ハットゥシャ ヒッタイトの首都
1986年に世界資産に登録された。オリエントの古代帝国ヒッタイトの都の遺跡で、城塞でもあった王宮の跡、寺院の建築と思われる石造物などが発掘され、帝国の繁栄を物語る多数の楔形文字を記した粘土版も出土している。中でも、エジプト新王国と交渉した記録などを含む粘土版が貴重な資料となっている。→ UNESCO 世界遺跡センター ハットゥシャ遺跡 ハットゥシャ遺跡 Turkish Air & Travel
参考 ボアズキョイ遺跡
ボアズキョイは、トルコの首都アンカラから150キロメートル東方の大きな都市遺跡である。海抜1000メートル前後の丘陵地で、北方へいくほど低くなっている。南北約2.3キロメートル、東西約1.2キロメートル、周囲約6キロメートルにもなる。城壁に囲まれ、敵の来襲に備えた大きな山城である。下地区は北半分の低い地域で、大神殿やビュックカレ(王宮のあった場所)がある。上地区は南半分の高台で、下地区よりも後に開発された。東側に王門、西側に獅子門があり、中央のスフィンクス門の地下には戦士らが利用する軍事施設の地下道がほってあった。<小林登志子『古代オリエント史』2022 中公新書 p.128>参考 ボアズキョイ文書
1906年、ドイツ隊がボアズキョイの発掘に着手し、楔形文字を記した粘土版文書「ボアズキョイ文書」が多数出土した。当時はヒッタイト語は解読されていなかったので、その内容は判らなかったが、1915年に解読された。その内容は王の年代記、条約、勅令、書簡、宝典など多岐にわたるが経済文書は少ない。しかし、何よりも研究者を驚かせたのは、エジプトで発見されていたエジプト新王国のアメンホテプ4世の時代(前14世紀)のアマルナ文書と内容が一致し、当時のヒッタイトとエジプトのさかんな外交関係が明らかになったことだった。ボアズキョイ文書にはヒッタイト語だけでなく、オリエント世界の共通語であったアッカド語語、メソポタミアのミタンニが使用していたフリ語などが混じっている。また祭式文書にはヒッタイト語がインド=ヨーロッパ語系の原語であることを示す言語が含まれている。<小林『前掲書』p.129>
このように、ボアズキョイ文書はオリエントの国際社会の解明と、言語系統の研究に資料を提供する極めて貴重な発見であった。