アマルナ文書
前14世紀、エジプト新王国時代、粘土板に楔形文字で記された大量の外交文書。1887年に発見され、オリエント世界の解明に寄与した。
1887年、エジプトのナイル川中流域のテル=エル=アマルナで、地元民が楔形文字の刻まれた多数の粘土板を偶然発見した。発見当初は価値の無いもの、あるいは偽物ではないかと思われていたが、大英博物館のW=バッジが購入、彼の卓見によって後に古代オリエント史上最高の資料のひとつ「アマルナ文書」が救われた。現在まで382点、そのうち350点が書簡であり、ほとんどが紀元前14世紀のオリエント世界で国際共通語であったアッカド語で書かれていた。中には地域性を反映してアッカド語の方言で書かれているものもある。
アマルナ文書は書簡であるので差出人と宛名が記されていることが多く、そこから紀元前14世紀後半のエジプト新王国の王であったアメンホテプ3世と、その子のアメンホテプ4世(イクナートン)の治世での、エジプトと諸外国の間でかわされた外交文書であることが判った。ただし、ほとんどが外国からエジプトに送られたもので、エジプトから外国に送られたもののコピーは一部を除いて残されていない。
ところが、1906年にトルコのボアズキョイから発掘された多数の粘土版に、アマルナ文書と内容の一致するものがみつかり、ヒッタイトとエジプト新王国の戦争から平和条約に至る経緯が明らかとなり、世界を驚かすこととなった。
これらの書簡から、前14世紀のオリエントは平和が保たれていたことがわかるが、あるいはアメンホテプ4世はアマルナ革命といわれる国内改革に熱心で、対外的に消極策をとっていたとも解釈されている。しかし、文書群から、ヒッタイトが徐々に頭角を現し南下政策を採り始めていること、ミタンニは衰え始めていること、またメソポタミアではバビロニアに代わってアッシリアが有力になり始めることなどがうかがえる。比較的安定したオリエントの国際情勢を背景として、アメンホテプ4世の国内改革が可能だったとも考えられるが、やがて来る古代オリエント世界の激動の時代への予兆を感じさせる。
しかし、アメンホテプ4世の宗教改革を中心とした改革は彼一代で否定された。次の王朝の時代には異端と抹殺されて王命表から除かれ、都のテル=エル=アマルナも破壊されてしまう。このときアマルナ文書も破棄され、砂漠の砂に埋もれたのだった。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.108-113> → アマルナ美術
アマルナ文書は書簡であるので差出人と宛名が記されていることが多く、そこから紀元前14世紀後半のエジプト新王国の王であったアメンホテプ3世と、その子のアメンホテプ4世(イクナートン)の治世での、エジプトと諸外国の間でかわされた外交文書であることが判った。ただし、ほとんどが外国からエジプトに送られたもので、エジプトから外国に送られたもののコピーは一部を除いて残されていない。
ところが、1906年にトルコのボアズキョイから発掘された多数の粘土版に、アマルナ文書と内容の一致するものがみつかり、ヒッタイトとエジプト新王国の戦争から平和条約に至る経緯が明らかとなり、世界を驚かすこととなった。
アメンホテプ4世時代のエジプト外交
アマルナ文書には新王国時代のエジプトと外交関係にあった、バビロニア、アッシリア、ヒッタイト、ミタンニその他の諸国の王からの書簡が含まれている。それらによると、王たちは互いに「兄弟」と呼び合い、オリエント諸国からは戦車や馬、ラピスラズリ、銅などが贈られ、エジプトからは黄金が贈り物とされていた。またエジプトはミタンニやバビロニアの王室間の国際結婚を行っていた。その他に、シリア・パレスチナや地中海東岸の都市国家からの書簡にはエジプト王を「我が王、我が神、我が太陽である王へ・・・」などの文面が見え、エジプトに隷属していたことをうかがわせる。これらの書簡から、前14世紀のオリエントは平和が保たれていたことがわかるが、あるいはアメンホテプ4世はアマルナ革命といわれる国内改革に熱心で、対外的に消極策をとっていたとも解釈されている。しかし、文書群から、ヒッタイトが徐々に頭角を現し南下政策を採り始めていること、ミタンニは衰え始めていること、またメソポタミアではバビロニアに代わってアッシリアが有力になり始めることなどがうかがえる。比較的安定したオリエントの国際情勢を背景として、アメンホテプ4世の国内改革が可能だったとも考えられるが、やがて来る古代オリエント世界の激動の時代への予兆を感じさせる。
しかし、アメンホテプ4世の宗教改革を中心とした改革は彼一代で否定された。次の王朝の時代には異端と抹殺されて王命表から除かれ、都のテル=エル=アマルナも破壊されてしまう。このときアマルナ文書も破棄され、砂漠の砂に埋もれたのだった。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.108-113> → アマルナ美術