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カッシート

前16世紀、メソポタミア南部、バビロニア王国を支配した民族。系統は不明。ヒッタイト、ミタンニ、アッシリアと抗争した。前1155年、エラム人に滅ぼされた。

バビロニアを長期支配

 古代オリエント史に登場するカッシート(カッシュートともいう)の民族系統はインド=ヨーロッパ語族であるとわれたこともあったが、現在は否定されており、非セム系である以外は正確には不明である。ヒッタイトが支配していた小アジアの東部から北部メソポタミアにかけての一帯に自立したカッシート人は、前1595年バビロン第一王朝がヒッタイトによって滅ぼされた後のバビロニアに入り、前1550年頃、バビロンを都に国を建て、36代約350年間にわたりバビロニアを支配した。

メソポタミア文明を継承

 カッシート人はメソポタミアから見ると異民族であるが、シュメール人以来のメソポタミア文明に同化し、その文化を継承した。そのため、バビロン第3王朝ともいわれている。そして約350年間という、バビロニアを統治した民族では最も長い間の統治を行った。
 この間、オリエントにはメソポタミア南部バビロニアのカッシート以外に小アジアのヒッタイト、メソポタミア北部のアッシリア、北部山岳地帯のミタンニ、そしてエジプト新王国の勢力も伸びてくるという、長い抗争期であり、世界祭の国際社会を出現させていた。 → その位置はヒッタイトの地図を参照

古代オリエントの国際社会

 カッシートは前18世紀にエジプトに侵入したヒクソスに続いて、前16世紀ごろから戦車を用いており、その戦術をオリエントにひろげることとなった。同時代のアッシリアとは国境をめぐって激しく争ったが、エジプト新王国とは友好関係を結び、バビロニア王としてエジプト新王国のアメンホテプ4世とも盛んに書簡を交換し、婚姻関係を結んだ。<尾形禎亮他『人類の起源と古代オリエント』世界の歴史1 1998 中央公論社 p.275-283>

参考 ハンムラビ法典石柱がなぜイランで?

 その後、カッシート王国はイラン高原東南部から興ったエラム人によって、前1155年に滅ぼされた。このとき、カッシートが継承していたバビロンの文化遺産、例えばハンムラビ法典を刻んだ石柱などが、エラム人によってペルシアに持ち去れれた。バビロン第一王朝の王であったハンムラビ王の遺品がイランのスサ近郊で発見されたのはそのためである。