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オリエント

西アジアからエジプト・東地中海岸を含み、インダス川流域に至る地域。広い意味では西洋から見た東洋を意味する。一般にオリエント文明と言った場合は、メソポタミア文明とエジプト文明を両輪として展開し、アッシリア帝国、ペルシア帝国で統一された世界を言う。

 古代オリエント世界は、地域的には西アジアのメソポタミアアナトリアイラン高原からエジプト・東地中海岸を含み、東はインダス川までの範囲をいい、時期的には前7000年紀の肥沃な三日月地帯における農耕・牧畜の開始に始まり、紀元前4000年紀末のシュメール人の都市国家文明の成立からバビロニアやエジプト王国の成立、前2000年紀の民族移動と各国の抗争期をへて、前9世紀のアッシリア帝国によるオリエントの統一、四国分裂時代、アケメネス朝ペルシア帝国の世界帝国に至る。最後はアケメネス朝がアレクサンドロス大王によって滅ぼされる前330年までをいう。アレクサンドロスの帝国以降は一般的に、ヘレニズム時代とする。

「オリエント」の意味

 オリエントとはローマから見て、「太陽の昇るところ」の意味であったが、現在でも英語で Orient とは「東洋」を意味する。ヨーロッパでは広い意味のオリエントに、モロッコからエジプトを経て、インド、中国、日本を含めており、近代以降は「オリエンタリズム」と言われる「東洋趣味」または「東洋学」が存在している。
質問 では、オリエントの反対語、つまり西洋を意味する言葉はなんでしょう。答はこのページの末尾に。
オリエンタリズム 「東洋」の意味としてのオリエントという言葉は非常に広い範囲を含んでいるが、世界史の学習で「オリエント」といった場合の概念は、小アジア(現在のトルコ)とエジプトから以東、イラク、パレスチナ、サウジアラビアを含め、イランからインダス川までとするのが一般的である。
 歴史学の学問の世界では、おおむね史料として楔形文字を扱う「アッシリア学」と、聖刻文字(ヒエログリフ)を扱う「エジプト学」に大別されており、分野が異なるとされている。両者の古代の歴史を統合して考察、記述するときは「オリエント史」ではなく「西アジア史(エジプトを含む)」とすべきだ、という議論もあるが、世界史の学習では小林登志子氏の近著『古代オリエント史』(2022)に従うことが判りやすい。
 ただし西欧でいう「オリエント」には日本など極東も含まれ、「ゲイシャガール」「フジヤマ」などを象徴とする概念がオリエンタリズムといわれる。「オリエント」という言葉のニュアンスには、欧米では「遅れたアジア」「奇妙なアジア」といった見方が反映されることもある。<小林登志子『古代オリエント史』2022 中公新書 p.7>

オリエント文明

 オリエント文明の中核は、ティグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミアで興ったメソポタミア文明と、エジプトのナイル川流域に興ったエジプト文明との二つの文明であり、それぞれ別個に、ときにエジプト文明はメソポタミア文明の影響を受けながら、発展し、それぞれに国家を形成させ、さらにその中間の、東地中海岸のシリアパレスチナ地方は両者の中継地として文化を形成していった。また、西方のエーゲ海域に前3000年紀に現れたエーゲ文明にも影響を与え、並行して深い関係をもっていた。
 → 眼で見て学べる施設 古代オリエント博物館  岡山市立オリエント美術館  横浜ユーラシア文化館


オリエント史のまとめ

メソポタミアの統一 まずメソポタミアでは、前4000年紀までに、青銅器文明に入ったシュメール人都市国家が成立、それ以降、アッカド人の支配を経て、アムル人前1900年ごろ、バビロンを都にバビロニアを支配、バビロン第1王朝(バビロニア王国)を建てた。前18世紀にはハンムラビ王の時に最も栄え、メソポタミアを初めて統一した。この世界では楔形文字などを特色とするメソポタミア文明が形成された。
エジプト エジプトでは前3000年頃、ナイル川の流域にエジプト文明が興り神聖文字など独自の文化が形成された。ノモスと言われる小都市国家ははやくから統合が進んで古王国が形成された。古王国時代はたびたび王朝交替を繰り返しながら、第4王朝のファラオクフ王などに見られるようなピラミッドを建設した。この段階はメソポタミアもエジプトも、まだ青銅器を基本とする文化であった。
民族移動期の変動 前2000~前1200年頃、西アジア・東地中海を覆う民族移動の波がおこり、鉄器をもたらしたインドヨーロッパ語系のヒッタイト小アジアに建国、一時はメソポタミアに進出して前1595年バビロン第1王朝を滅ぼした。しかしヒッタイトは間もなくアナトリアに後退、メソポタミアには南部にカッシート(バビロンを支配)、北部にミタンニアッシリア、さらにイラン高原南部にエラムが分立して争うこととなった。エジプトでは王朝交替を繰り返していたが、中王国の終わりには一時、外来のヒクソスに支配された後、前1500年代にエジプト新王国が成立して全盛期となった。
最古の国際社会 前2000年紀後半の古代オリエント世界では、メソポタミアにバビロニア地域とアッシリア地域が同一文化を担いながら覇権争いを展開し、同時にアナトリアのヒッタイト王国、エジプトの第18王朝(新王国)と交渉をもつという、本格的な国際社会が形成された。各国間で厳しい外交関係が展開され、贈答品の交換、縁組みなどが行われた。その時期の外交関係を伝える史料がアマルナ文書である。
最古の戦争と平和条約 この勢力争いは次第に、ヒッタイト王国とエジプト新王国の覇権争いに集約されてゆき、両国はシリアパレスチナの領有権をめぐって前1286年頃、カデシュの戦いで衝突した。これが世界史上、記録の残されてる最古の戦争であり、両国が締結した講和は史料としての残る最古の平和条約であった。
東地中海岸の新しい動き  前1200年頃には海の民が地中海方面からオリエントに侵入し、ヒッタイトとエジプト新王国という当時の国際秩序の柱がその影響でともに崩れた。その混乱のなかで、東地中海岸地方にアラム人は陸上貿易とアラム文字、フェニキア人は海上貿易とアルファベットヘブライ人は一神教のユダヤ教といった新しい要素をもって登場し、オリエントにそれぞれの文化をもたらした。

オリエント世界の統一

 前1000年紀(前1000年~キリスト紀元)に入るとオリエント世界は鉄製の農具や工具など鉄器が全面的に普及して、人間の居住域も広がって大きな転換期を迎えた。それはオリエント世界の統一の動きであり、それを可能にしたのも鉄製の武器を手に軍事力を優越させたアッシリア帝国(新アッシリア)であった。
アッシリア帝国 メソポタミア北部の小勢力に過ぎなかったアッシリア(古アッシリア)であったが、前9世紀には鉄製の戦車と騎兵隊を用いた軍事国家となって強大化し、アッシリア帝国(新アッシリア)としてメソポタミアを統一した。さらに前663年に、アッシュール=バニパル王がエジプトを征服してオリエントを初めて統一した。アッシリア帝国は駅伝制を整備し首都ニネヴェには全オリエントの情報を集める大図書館が造られた。しかし、アッシリア帝国はオリエント世界に初めて現れた世界帝国であったが、強権的な支配を行ったために諸地域の反発を受けて、前612年に滅亡した。
四国分立時代 オリエントは新バビロニア王国メディア王国リディア王国、そしてエジプトという四国分立時代となった。この前6世紀には、オリエントの西方のエーゲ海域では盛んにギリシア人の植民活動が行われ、ポリス民主政の時代を準備しつつあった。
ペルシア帝国 四国分立時代を終わらせたのが、メディア人の支配から自立したイラン人が作ったアケメネス朝ペルシア帝国であった。アケメネス朝は前550年に建国、イラン高原から小アジア、バクトリア、メソポタミアに勢力を伸ばし、前525年にはエジプトを征服した。オリエント文明を総合するような文化を形成したが、その西方で新たな都市文明を形成していたギリシアをさらに征服しようとペルシア戦争(前500年~前449年)を起こしたが、失敗した。ペルシア帝国との戦争に勝利する過程でその中心となったアテネでは前5世紀に民主政治の全盛期となった。前4世紀にギリシアのポリス民主政は衰退し、マケドニアにアレクサンドロス大王が登場、大王はギリシアを支配した後にオリエント世界に侵攻、ペルシア帝国はそれによって前330年に滅亡した。一般に、古代オリエントとされるのは、このペルシア帝国滅亡までである。<小林登志子『古代オリエント全史』2022 中公新書 などによる>
ヘレニズム アレクサンドロス大王死後は、オリエントにはセレウコス朝シリアプトレマイオス朝エジプトの二つのギリシア系国家を中心に、ヘレニズムの時代を形成することとなる。

 オリエントに対して西洋を意味する言葉は、オクシデント、英語で Occident です。