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ミタンニ

前15世紀、メソポタミア北部にあったフルリ人(傾倒不明)が作った国。エジプト新王国、ヒッタイトなどと抗争した。前14世紀にヒッタイトと争って敗れて衰退し、前13世紀ごろにアッシリアに併合されたと考えられる。

 前16世紀からメソポタミアの北方の山岳地帯を支配したミタンニ人が建てた国で、ミタンニ人はインド=ヨーロッパ語族とされている。しかし、ミタンニを構成していた多くの人々は、もともとコーカサス地方にいたフルリ人(フリ人ともいう)であったという。このフルリ人の民族系統は不明である。
 その建国の経緯は、首都とされるワシュカニという町が未発見であるため、よくわかっていない。前16世紀のヒッタイトの文書に「フリ人の王」と戦ったことが記されており、エジプトの同時期の王の墓碑銘でも言及されているなど、ミタンニの歴史はヒッタイトやアッシリア、エジプトの史料から再構成することにおってわかるだけである。

オリエントの最古の国際関係

 前2000年紀(前2000年~前1000年)のオリエント世界は、広範囲な民族移動の時代であり、ミタンニ人の動きもその一つであった。前2000年紀後半にはメソポタミア北部にミタンニ、南部にカッシート、アナトリア(小アジア)にヒッタイト、エジプトに新王国らが分立し、抗争を繰り返しながら国際関係を結んでいた。この時期に、最初に覇権争いの主導権を握ったのがフリ人のミタンニ(前16世紀末~前14世紀後半)だった。ミタンニはフリ人がメソポタミア北西部からシリア北部にかけて建国した。その首都ワシュカニは現在のイラクのテル・ファハリヤともされているが、いまだに発掘されていないので正確なことはわからない。<小林登志子『古代オリエント史』2022 中公新書 p.53->

前15世紀の西アジア国際関係

 前15世紀には勢力を西に伸ばし、ティグリス川上流のアッシリアを属国とし、東地中海にも進出した。しかしこのシリア・イラク地方への進出は、エジプト新王国(第18王朝)との対立をもたらした。ところがアナトリア(小アジア)のヒッタイトの勢力がミタンニの脅威となると、一転してエジプトと手を結ぶようになった。前1440年頃のサウシュタタルという名の王のころが最も有力であった。サウシュタタル王は一時はアッシリアの中心部へ攻め込みかなりの打撃をあたえている。一方でエジプト新王国とは婚姻関係を結び、ミタンニ王がエジプト王に送ったフリ語で書かれた長文の手紙もあった。
アマルナ文書 エジプトのアマルナから楔形文字の刻まれた大量の粘土版が1887年に発見された。このアマルナ文書は、ほとんどが当時のオリエントの共通語であるアッカド語が楔形文字で書かれ、少数のヒッタイト語やフリ語が含まれていた。この時のエジプト王は宗教改革を行ったことで知られるアメンホテプ4世(前1351~前1334)で、アマルナを都としたのでアマルナ時代といわれている。

前14世紀 ミタンニの滅亡

 エジプト新王国のアメンホテプ4世が宗教改革に専念し、アジア情勢に関心を示さなくなった結果、ミタンニとの関係は破綻した。前14世紀の中頃、ヒッタイトのシュッピルリウマ1世がミタンニに攻め込むと、ミタンニ王家では内紛が起き、トゥシュラッタ王が息子に殺されたことで、ヒッタイトに敗れ、その属国にされた。詳細は不明だが同世紀後半には滅亡した。ミタンニ滅亡の混乱に乗じて、メソポタミア北部でアッシリア人が自立して勢力を回復、アッシュル・ウバリト1世が中興の祖となって強力なアッシリア軍を有し勢力を拡大していく。<小林『古代オリエント史』p.57>
 ただしミタンニの滅亡に関してはヒッタイトと戦って敗れたことで衰退したが、ミタンニに服属していたアッシリアがヒッタイト人から鉄器を学び、次第に有力となってヒッタイトと争うようになり、ミタンニはその両者の緩衝地帯として存続し、前13世紀ごろにまでに事実上滅亡し、アッシリアに併合された、という説明もある。<渡辺和子他『人類の起源と古代オリエント』世界の歴史1 1998 中央公論社 p.304>
 → その位置はヒッタイトの地図を参照