インド/インド共和国
1950年に成立したインド共和国憲法に基づく国家。広大な国土と人口(14億)を抱え、インダス文明ヒンドゥー教・仏教などの発生などの長い文化伝統を受け継ぎながら、18世紀に始まるイギリスによる植民地支配からの長い独立運動を経て独立した。しかし本来は同じ文明圏であったパキスタン、バングラデシュ、あるいはスリランカなどとは分離独立となり、特にパキスタンとは宗教対立・領土問題に起因する緊張関係が続いている。また独立以来、アジア・アフリカ諸国の先導的役割を担っているが、国内の宗教対立、中国との関係悪化などにより国際社会での指導力は低下した。それでも1970年代からITを柱とする工業化が進み、その膨大な人的資源を生かして世界的に重要度を回復し、2000年代からBRICSの一員となった。内政では戦後長く政権を維持した国民会議派は強権的な手法が反発を受け、1998年にヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党が政権を奪取。宗教的対立(コミュナリズム)で混乱が続いたが、2014年からのモディ政権のもとで、経済優先の内政と積極外交に転じ、中国、ロシアとも共同しながらグローバルサウスの主要国として存在感を増している。
インドの人口
人口は2022年に14億1717万人(世銀資料)、1947年の独立当時は4億5000万人であったので、3倍以上になった。2023年4月、国連人口基金(UNFPA)は同年半ばにインドの人口は14億2860万人に達し、中国の人口(14億2570万人)を290万人上回り、世界最多となるとの見通しを示した。世界人口は81億人なので5.7人に1人がインド人となる。国土面積は328万7,469平方キロメートル(パキスタン、中国との係争地を除く)である(ちなみにEUは全人口約4億5千万、全土412万平方キロメートル)。首都ニューデリーは古都デリーに隣接して1911年にイギリスが建設した都市。インド国旗
イスラーム教徒のパキスタンと分離して独立したとはいえ、インドの国民の多数はヒンドゥー教徒(約83%)であるが、残っているイスラーム教徒も多く、他に仏教徒、ジャイナ教、シク教、ゾロアスター教などの少数派も含み、民族的にもアーリア系の他、南インドにはドラヴィダ系が多い。インドの各宗教は共存の長い歴史をもつが、また深刻なコミュナリズム(宗教対立)も続き、現在の政治にも影を落としている。法輪の象徴する輪廻の思想はヒンドゥー教にも通じるところから、国民統合の象徴として認められたのであろう。
インド共和国憲法
インド共和国憲法は不可触民出身のアンベードカルが起草して1949年11月25日に制定され、1950年1月26日に施行された。国号はインド これ以降をインド連邦ではなく「インド共和国」といっているが、英語表記の国名は単に India なので、「インド」という表記でよい。インド共和国憲法は、イギリス植民地時代の1935年新インド統治法を継承した部分もあるが、独立国家にふさわしい新しい内容であった。最も重要な点は普通選挙制に基づいた共和国となったことだった。イギリスとの関係は形の上ではイギリス連邦には残ったが、国家元首は大統領であり、イギリス国王への忠誠義務は放棄した。
カーストによる差別禁止と不可触民制の廃止 条文には基本的人権の保持がうたわれ、懸案だったカースト・不可触民制についても踏み込んだ規定を設けた。第15条で「宗教、人種、カースト、性別または出生地を理由とする差別の禁止」すると定めている。つまりカーストの存在そのものを否定しているのではなく、カーストによる差別を禁止している。同時にカースト差別の根幹であった不可触民については第17条で明確に廃止され、それまで不可触民として差別された人々は「指定カースト」として政治的・社会的な留保制度によって保護されることとなった。
普通選挙制の導入 植民地時代と最も大きく異なる点は普通選挙制(財産制限と性差別のない選挙制度)の導入であり、これによってインド人は初めて主権者となれた。議会制度は言論・出版の自由や文民統制などとともに、イギリスから学んだことでもあった。新しい選挙法では、イギリス支配下で行われた宗教=コミュナル別の分離選挙区である分離選挙は否定され、全国を小選挙に分ける小選挙区制がとられた(パキスタンが分離したのでムスリム選挙区を設ける必要がなくなった)。一方で指定カースト(不可触民)や指定部族(少数民族)などマイノリティに対しては中央議会、地方議会での議席が留保された。
多言語国家 言語は憲法でヒンディー語を公用語と定めているが、地域的に多数の言語が存在しており、2021年には21言語が公認されている。1950年代から言語に基づいた州再編運動が活発になり、言語州再編委員会が設けられて1956年に14州が生まれたのに続き、次々と言語州が設けられていった。現在(2023)には29の州と連邦直轄領に分かれ、それぞれ州の公用語を定めている。 → インドの言語
NewS インドが国名変更?
2023年9月9日から10日、インドのニューデリーで開催された第18回20国地域首脳会議(G20サミット)で、議長国を務めたインドのムルム大統領は、各国の指導者に送った夕食会の招待状で、自身を「インド大統領」ではなく「バーラト大統領」と記し、世界中のメディアから大きな関心が集まった。「バーラト」Bharat とはヒンドゥー語であり、「マハーバーラタ」にでてくるバーラト族とその偉大な王の名だったものが、インド人が自らを称する名称となった。一方、「インド」India はアレクサンドロス大王のインド侵入したとき大きな河にゆきあたり、その地を「大きな河」(インダス川)を意味する現地の Sindhu と呼んだものがギリシアに伝わって Indu となり、それが西欧でインドと言われるようになったもので、いわば外来語にあたる。そこで以前から、外来語でイギリス植民地時代に定着した「インド」ではなく、バーラトと言うべきだという主張があった。現在も国内ではインドもバーラトも用いられており、現行のインド憲法でも国号はその双方が挙げられている。つまり、外国人からするとびっくりだが、インド国内では当然のことと受け止められることだった。
インドでは1947年の独立以来、植民地時代の英語表記の地名をヒンディー語に置き換えており(ボンベイ→ムンバイなど枚挙にいとまがない)、インド人民党モディ政権のもとでさらに積極的になっている。国名変更も現在でも珍しくないが、いまのところ対外的な国号変更をインドが決定したわけではないので、当面「インド」で良いが、近い将来にはあり得るかもしれない。 → AFPbbニュース インドはなぜ国名を「バーラト」に変更? NewSphere インドは「バーラト」に? 過去に国名を変更した国の理由は
参考 現代インド政治の特徴
実権のない大統領 インドの大統領は、国家元首であるが実権はなく、象徴的な意味合いが強い。そのため政治的な理由でマイノリティ(少数派)から選ばれることが一般的である。1997年には不可触民出身者として初めてコリチェル・ラーマン・ナラヤナンが大統領に就任し、2002年にはイスラーム教徒で「インドのロケットの父」と呼ばれたアブドゥル・カラム博士が選出され、07年には初の女性大統領プラティバ・パティルが誕生し、22年には初の先住民族出身者としてドラウパティ・ムルムが就任した。<近藤 正規『インド―グローバル・サウスの超大国』2023 中公新書 p.9>軍事クーデタが起こっていない インドでは1947年の独立以来、軍事クーデタが一度も起きていない。軍は150万の兵力を有し、国防費は650億ドルに達しているが、軍のトップは国防相と国防次官の下に位置づけられ、軍の暴走や政治介入を防ぐための文民統制(シビリアンコントロール)が確立されている。この点でインドは、隣国のパキスタンやバングラデシュ、ミャンマーなどと大きく異なっている。<近藤正規『同上書』p.9>
インド(1) ネルーの時代
ネルー政権には、パキスタンの分離独立の原因となったヒンドゥーとムスリムの宗教対立をどう克服するか、独立国家としてのインドの国内産業を発展させ国民生活をいかに安定させるか、カーストの枠と不可触民の残る農村社会をいかに近代化させるか、などの課題が山積していた。外交では隣国となったパキスタン・中国との国境問題があり、さらに戦後明確となったアメリカとソ連の対立を軸とした冷戦時代にどう対処するか、が問われていた。いずれをとっても、200年以上の植民地支配の桎梏から、主権国家として一つにまとまらなければならない新生国家インドにとっては困難な課題だった。
これらの課題は「近代国家」としてのインドの建設、ということに集約できるが、そのためにカリスマ的な指導力が求められることになった。独立後約20年間、その輿望に応えてネルーが掲げた主要なイデオロギー(立場とした理念)は、内政においては政教分離主義と社会主義、外政においては非同盟主義とに要約することができる。
ネルーの内政
政教分離主義 ヨーロッパ型「近代国家」に近づくためにインドにとって最も大きな課題が宗教国家からの脱却でった。分離独立したパキスタンはイスラーム教徒の国家であることを明確にしているのに対し、インドはヒンドゥー教徒だけでなく、ムスリム、仏教徒など多くの宗教信者を抱え、それらを「国民」として統合しなければならなかったネルーは、インドの国家統合のイデオロギーとして政教分離主義主義を常に強調した。社会主義 ネルーはソ連の五ヶ年計画に見られる社会主義計画経済によってインド経済の建設に着手、1951年から第1次五ヶ年計画で農業生産を重視し、56年からの第二次では鉄鋼などの重工業への公共投資を行い、工業化の推進を図った。しかし、この経済政策は農業と重工業のバランスを欠く面があって、成功したとはいえなかった。かえってインドの輸出を支えていた綿工業が衰えて輸出が減少し、農相生産の減少したため食糧不足となるなど、インドの経済成長は計画通りに進まなかった。
ネルーの外交
ネルー首相は外交理念として非同盟主義を掲げ、第三世界のリーダーの一人として中国の周恩来との間で平和五原則をまとめ上げ、アジア=アフリカ会議を成功させるなど、華々しい活躍をした。また、アメリカが中華人民共和国の登場、朝鮮戦争の勃発などに危機感を抱いて、1950年代にアジア・太平洋地域に次々と対共産圏包囲網を形成したが、インドはそのいずれにも加盟せず、中立政策を守った。
非同盟主義の困難
しかし、現実の国際政治は理想的には行かなかった。中国との中印国境紛争、カシミールをめぐるパキスタンとのインド=パキスタン戦争という国境問題で悩むこととなり、平和的解決より、大国としてのメンツにこだわる面も強かった。その非同盟主義の理念にもかかわらず、中国との対立ではアメリカとの関係を深くし、一方パキスタンとの対立のなかではアメリカと対立してソ連と近づくなど、難しい国際政治の舵取りを余儀なくされた。またネルーの死後のインドも大国との立場と厳しい国際環境を理由に、国際的な核実験禁止や核拡散防止の流れに対して同調せず、核拡散防止条約(NPT)、包括的核実験禁止条約(CTBT)に反対し、加盟を拒否している。
インド(2) 国民会議派政権
独立運動以来のインドの主要政党であった国民会議派はネルー以後もその血縁が後継者となり政権を握っていた。しかし長期政権が続く中、しだいに政権が腐敗し強権体質に対する不満が強まった。
国民会議派政権
1980年代までは国民会議派が政権を独占していたが、長期政権のなかで会議派は利権維持に走り、国内政治・外交政策で一貫性のない施策が多くなり、汚職や不正が横行するようになった。また、国民会議派はインドの世俗化を進めることを掲げていたので、原理的なヒンドゥー教徒はその統治に飽き足らないものを感じるようになった。そのような中で、マルクス主義を掲げ社会改革をめざすインド共産党やヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党などの政党が生まれ、多党化が進んでいった。インディラ=ガンディーの強権政治 1966年、ネルーの一人娘インディラ=ガンディーが国民会議派政権を継承して首相に就任、左派色の強い政策を打ち出たが次第に強権的となり、国民の支持が離れていった。71年にソ連との平和友好条約を締結したが、パキスタンとの関係が悪化して第3次インド=パキスタン戦争が再燃、インディラ=ガンディー政権は東パキスタンを軍事支援し、その結果、バングラデシュとして独立した。
核実験と非常事態宣言
1974年4月、インフレ、汚職、失業、教育制度の不備などに対する民衆の抗議活動が盛り上がると、インディラ=ガンディー首相は国民的人気の回復を狙って1974年5月18日、核実験に踏切り、国際的な批判を受けた。批判を受けたインドは核兵器の保有については否定した。インディラ=ガンディーは全国的な政権批判の大衆運動に対しては、1975年6月、非常事態宣言を行い、激しい弾圧を行った。しかし、その人権抑圧を辞さない強権的な姿勢は国民の強い反発を受け、1977年の選挙で国民会議派は敗れ、独立以来30年続いた長期政権の座から降りることとなった。しかし、後継内閣が不安定であったため、80年の総選挙では国民会議派が政権に復帰した。
ネルー王朝とあいつぐ暗殺 80年代になるとシク教徒の自治要求運動が強まると、インディラ=ガンディー政権は1984年6月5日、シク教団の総本山アムリットサールのゴールデン=テンプルがテロ活動の拠点となっているとして攻撃、多数の犠牲者が出て、反発したシク教徒によって首相自身が1984年10月31日、首相官邸で執務中に殺害されるという混乱が起こった。
後継首相にはインディラの子のラジブ=ガンディーが選ばれた。ラジブ=ガンディーは汚職の追放など、クリーンなイメージを打ち出したが、1987年にスリランカのタミル人問題に介入してインド軍を出兵させた。しかも、国民会議派の汚職疑惑が持ち上がり、「ネルー王朝」などとも言われる政権たらい回しに対する批判も強まり、89年の総選挙で敗れた。91年の総選挙でラジブ=ガンディーは再起をめざしたが、選挙戦の最中1991年5月21日にタミル人の報復テロによって命を落とし、「ネルー王朝」は復活できなかった。
インド(3) インド人民党政権
国民会議派政権の腐敗、強権体質に対する不満、シク教徒、タミル人の蜂起などが続く共に、ヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党が台頭し、1998年についに政権交代が実現した。
インド人民党の台頭
1980年代、ヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー・ナショナリズム)を唱えるインド人民党(BJP)が急速に台頭した。1992年には彼らが煽動して、北インドのアヨーディヤのムガル朝時代のモスクが破壊されるという事件からヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が衝突し、多数の死傷者が出た。政府がその動きを放置する間にインド人民党は勢力を拡大し、ついに1998年の総選挙で国民会議派を破り、初めて政権を握りパジパイ首相が登場した。インド人民党は選挙公約として核武装を表明しており、政権獲得後の1998年5月11日から数回にわたり核実験に踏切った。これは、ヒンドゥー教による国家統合というナショナリズムを掲げるインド人民党の力による外交政策を内外に誇示するためのものであった。インド=パキスタンによる核戦争の危機
インド人民党政権の核実験に対し、カシミール問題で対立する隣国パキスタンは直ちに対抗して1998年5月28日に核実験を強行、両国の対立は核戦争の危機をもたらした。1999年にはインドの実効支配地域であるカルギル地区にパキスタン軍が侵攻したためインド軍が反撃、双方が核兵器の使用を検討したが、このときはアメリカの調停で停戦が成立した。かつてのインド=パキスタン戦争では、インドをソ連が、パキスタンをアメリカと中国が後押しするという図式であったが、1991年にソ連が崩壊、アメリカの軍事力・経済力の単独優位の情勢となるなか、インドもパキスタンもアメリカの意向を無視することができないという情勢変化があった。宗教対立の深刻化 インド人民党は国内でもイスラーム教徒に対する排斥運動を展開した。2002年にはアーメダバードでヒンドゥー至上主義者によるイスラーム教徒襲撃事件が起こり、約千人の犠牲が出るなど宗教対立が相次いだ。しかしその結果、インド人民党は穏健なヒンドゥー教徒の支持を無くし、2004年の総選挙で、インド国民会議派に第1党の座を譲った。インド社会に長く続いている宗教的対立(コミュナリズム)を煽ることによって政権を維持してきたところに限界があったと考えられる。
2008年にはムンバイで同時多発テロが発生、インド当局はパキスタンのイスラーム過激派による「越境テロ」であるとして反発した。パキスタンはその実行犯を逮捕したが、2015年4月の裁判では首謀者とされる人物を証拠不十分で無罪としたため、インドはさらに反発を強めている。
インドのアイデンティティ
10億の国民を抱え、多数の言語と地域文化に分かれているインド(面積だけでは全ヨーロッパに匹敵する広さがある)にとって、独立達成までは国民会議派が掲げる政教分離を理念とした民族独立運動がナショナル・アイデンティティのよりどころであったものが、独立達成後は、国民会議派に代わって台頭したインド人民党の主張するようにヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー=ナショナリズム)による国民統合が進められている、といえる。また1991年の経済自由化以来、IT革命を進めるなど技術立国の道を歩んでおり、2000年代からは経済成長の著しい国の一つとしてBRICSにも加わったが、他方カースト制差別の残存、人口問題、貧富の格差など依然として解消されていない面もある。インドの産業には世界シェアの大きな部分を占めているダイヤモンド加工業があるが、それはグジャラート州のジャイナ教徒の低賃金労働に依存している。
インドの経済成長
ネルー以降の国民会議派政権の社会主義化は順調には進まず、経済の停滞を招いた。1947年の独立時から90年までのインドの成長率は、年平均3.5%程度にとどまり、70年代から90年代にかけて、アメリカ経済の支援を受けて開発を進めた韓国、台湾、香港、シンガポールの新興工業経済地域(NIEs)、さらにタイ、マレーシア、インドネシアなどの東南アジア諸国が経済を急成長させたのと大きく異なっていた。1990年の湾岸戦争で原油価格が急騰、中東の出稼ぎ労働者からの送金が途絶えたため、91年にインドは深刻な外貨危機に陥った。国民会議派政府のナラシンハ=ラオ首相とマンモハン=シン蔵相は国際通貨基金と世界銀行の融資と引き換えに、彼らが要求する「構造改革プログラム」を実行した。まず貿易自由化に踏み切り、輸出入規制を廃止し、外国為替管理法を制定して中央銀行にあたるインド準備銀行に権限を与えた。その他関税の引き下げるとともに輸出を促進するための特区を設けた。これらの経済自由化政策が成功し、いわゆる「テイク・オフ」(離陸)を遂げることに成功したといわれる。IMF融資によって経済改革を行った途上国の中で最も成功した、といわれている。2003年、アメリカの大手金融グループのゴールドマン・サックスが発表した「BRICsレポート」がインドをブラジル、ロシア、中国(現在は南アフリカを加えBRICSという)とならぶ将来有望な新興国としたことから世界的にインドへの関心が高まり、経済成長率は05年から3年連続で9%台を達成した。世界経済がリーマン=ショックで大きく後退したときも、インドの成長率は6.7%で他国を大きく上回った。そのころからインドと中国が世界経済の牽引車になるだろうと言われるようになった。
一人あたりGDPは過去20年間で約4倍に急増した。しかし、2010年代からインド経済は調整局面に入った。それは国民会議派のマンモハン・シン内閣が選挙対策で補助金バラマキを行い、インフレが加速したことと、2010年からのギリシア財政危機にともなう欧州の金融不安の影響(インド経済は欧州金融機関と結ぶ気が強かった)があった。また国民会議派政権の腐敗が広がったこともあって、2014年の総選挙では改革を望む多くの国民の支持を受けてインド人民党(BJP)が政権についた。
インドの財閥 インド経済の急成長を支えたのが財閥とIT企業だと言われる。インドの財閥には戦前からの製鉄を中心としたタタ・グループ、石油化学から携帯事業までと幅広い新興財閥のリライアンスが二大財閥で、その他にもアヘン貿易で富を築き、戦前から国民会議政権と関係の深かった政商といえるビルら財閥、アーメダバードの港湾や空港事業から急速に成長したアダニ財閥などがある。
インドのIT産業 「インドと言えばIT」といわれて久しいが、インドでIT産業が発展した理由には次のことが考えられる。
- 「ゼロの発見」、天才数学者ラマヌジャンなど、ソフトウエア開発に向いていた。
- インド政府が早くから奨励し、優秀な人材が理工系に進学した。多言語国家であるため、共通語として英語が用いられていた。
- IT産業振興策、税制優遇などの政府の政策が功を奏した。
- ハイテク分野だけでなくローエンドの顧客向けのソフト開発を行い、輸出した。
NewS インド版マイナカード
IT大国インドのモディ政権は、インド版マイナンバーとも言うべき「アドハー・ナンバー」とその個人証明IDカードの普及を図っている。それは前政権の2009年に、全国民に銀行口座を開設させ、所有耕地面積が2ヘクタール以下の農民に年間6000ルピー(9600円)の補助金を3回に分けて口座に送金するために導入された。インドの農民はほとんど銀行口座を持っていなかったため、それまでの補助金は下級役人や地元の有力者に中間搾取されることが多く問題になっていた。そこで選挙対策として農民に直接補助金が支給されるように、固有識別番号を与え、銀行口座を開設させたのだった。モディ政権でそのシステム構築の推進を担当したのは大手IT企業インフォシスの創業者の一人だった。この制度では、生体認証システムに登録すると12桁の固有IDが発行され、IDカードには氏名、性別、生年月日、州籍、既婚・未婚、本籍地と現住所、職業、顔写真、指紋などが明記される。この固有識別番号は選挙から補助金支給までのさまざま行政で実際に活用され、ほとんどの国民が番号を取得し、在外インド人、インド在住の外国人も取得することができるという。<近藤正規『同上書』p.150>さすがIT大国インドであり、日本のマイナカード普及策のチグハグさとはかなり違うようだ。
モディ首相の現実外交
2014年5月の総選挙では、インド人民党は新たなモディ党首の下で、経済成長を最優先する政策を前面に打ち出し、「全国民とともに」という表現で反イスラーム色を薄めることに努め、政権を奪回することに成功した。モディ首相は2014年5月の首相就任式に初めてパキスタンのシャリーフ首相を招待、15年12月には自らパキスタンに赴いて首脳間の会談を行った。なおもカシミール帰属問題は緊張が続いているが、モディ首相は領土問題の武力解決よりは、アメリカ、中国との関係強化を重視するという外交姿勢をとっている。また20世紀末からのIT産業の成長を背景に、BRICSの主要メンバーとして世界経済でも先進工業国を脅かす存在として重きを成しており、最近ではモディ首相はグローバルサウスのリーダーの一人ともみなされ、2023年にはG20をニューデリーで開催し、議長国として国際社会での存在を強めている。NewS カシミールの自治権剥奪
しかし、モディ政権のパキスタンに対する融和姿勢は現在、大きく転換している。それは、インド人民党の支持基盤であるヒンドゥー至上主義者に向けての姿勢転換とも考えられるが、2019年の総選挙において従来のジャム=カシミール州の自治権を剥奪して政府直轄地とすることを公約したことに現れている。この選挙でインド人民党が大勝したことをうけ、モディ政権は2019年8月5日、ジャム=カシミール州の自治権剥奪を正式に打ち出した。それによってヒンドゥー教を唯一の理念とするインドの統一を実現し、イスラーム過激派や分離主義者によるテロを根絶するためであると主張した。カシミールの住民にとっては自治権を奪われるだけでなく、インド政府直轄地になることによってヒンドゥー教徒の土地取得が認められ、事実上のインド化が進むことを強く警戒している。またジャム=カシミールの領有権を主張しているパキスタンは強く反発し国際社会への支持を訴えている。インドはこれはまったくの国内問題であると主張し、国連であっても内政干渉は拒否するという姿勢であり、対立のエスカレートは必至の情勢となっており、さらに核兵器の使用という最悪の事態への突入が憂慮されている。 → カシミール帰属問題の項を参照