インド化
中国文化の影響が強かった東南アジアに、インド文化の影響が強まったこと。1世紀の扶南に始まり、4~5世紀に進展し、およそ13世紀ごろに終わると考えられている。最近では「インド化」の再検討が進んでいる。
東南アジアは、中国の文明とインド文明という先進的な文化圏に挟まれており、その双方の影響を強く受けて文明を形成していった。一般的に、中国文明の影響がまずベトナムに及び、さらに広がっていったが、次第に西方からのインド文明の要素が及んでくるようになったと捉えられることが多い。
第一段階 まず、前1世紀の末に、南インドに成立したサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)のインド人が西方のローマとの交易に必要な金や香料などの品々を求めて東南アジアの半島部の海岸や諸島部の港にやってくるようになったのが第一段階であり、商人とともにバラモンが渡来してヒンドゥー教やサンスクリットなどのインド文化を伝えた。この時期に起こったインドシナ南部に起こった扶南はインドから渡来したバラモンと現地の主張の娘が結婚して王となったという建国神話を持っていることが、「インド化」の一端を示している。
第二段階 それについで東南アジアの「インド化」が顕著になるのは、3世紀からであり、4世紀にインドでグプタ朝が成立して豊かな都市を背景としたインド古典文化の全盛期となった時期にさらに進展した。4世紀から5世紀にかけて、バラモンの渡来によってヒンドゥー文化が東南アジア全域に広がり、半島部では北部ベトナムを除いて中国文化の影響は薄くなり、特に「インド化」が進んだ。<石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』中央公論社世界の歴史13 などによる>
インド化の指針 一般的に、「インド化」の指針としては次の4点があげられている。
・インド的な枠組みでの王権の成立
・ヒンドゥー教と仏教の信仰
・インド的な神話と法律
・サンスクリット語の使用
このようなインド化の明確な国家としては、大陸部では7世紀までにベトナム中部の林邑がインド式の国名のチャンパーとなり、扶南を倒したクメール人のカンボジア、モン人のドヴァーラヴァティー、ビルマのピューなどのインド色の強い国家が現れた。島嶼部ではスマトラ島とマレー半島にまたがるシュリーヴィジャヤ、ジャワ島のシャイレーンドラはいずれもインドから仏教を受容した。
1970年代から、東南アジア諸国で、「中国化」や「インド化」といった歴史観を批判し、自律的な文化の形成を主張する民族主義的な研究が始まった。日本の世界史教育では現在まだ「中国の影響」や「インド化によって文明化した」といった見方が有力で、指導要領でも「東南アジア」はインドを中心とした「南インド」に付随させて説明することになっている。だが、それでも少しずつ変化が見られるようだ。そのような新しい見方はどのようなことなのか、見ておこう。
東南アジアの歴史には、中国・インドの間接的影響があったことは否定できないが、金属器文化や階級社会の形成などは独自に、土着的に展開されたことが明らかになってきた。扶南の建国神話に伝えられるような外来王の即位は組織的な文化移植をともなっていたのではないので、第1次インド化とはいえない。サンスクリット碑文は一部で見られるだけで広く分布しているわけではない。オケオ遺跡の出土品は盛んな交易を物語ってはいるが、「文化の移植」を伴ってはいない。「第2次インド化」というのは、充分力を付けてきていた諸国家が、インド文化の組織的受容によって自己を完成させようとしたもの、と見るべきである。<桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』世界史リブレット12 1996 山川出版社 p.33-37>
それでは自律的発展によって独自に力を付けたとされる東南アジア諸国家の性格をどう捉えたらよいか。それにたいしては、独自の農業国家(潅漑農業に依存しない集約農業を発達させたベトナムやタイのアユタヤ朝のような農業国家、広範囲な外国との交易によって発展したマラッカ王国やチャンパ王国などが注目されている。また東南アジア世界の独自の国家類型として港市を軸とした「ヌガラ」や、農業と交易を結びつけた「クルン」など新しい概念が提唱されている。<桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』世界史リブレット12 1996 山川出版社 p.39-66>
東南アジアのインド化
東南アジアのインド化について、高校の世界史で従来、次のように二段階にわけて説明されてきた。第一段階 まず、前1世紀の末に、南インドに成立したサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)のインド人が西方のローマとの交易に必要な金や香料などの品々を求めて東南アジアの半島部の海岸や諸島部の港にやってくるようになったのが第一段階であり、商人とともにバラモンが渡来してヒンドゥー教やサンスクリットなどのインド文化を伝えた。この時期に起こったインドシナ南部に起こった扶南はインドから渡来したバラモンと現地の主張の娘が結婚して王となったという建国神話を持っていることが、「インド化」の一端を示している。
第二段階 それについで東南アジアの「インド化」が顕著になるのは、3世紀からであり、4世紀にインドでグプタ朝が成立して豊かな都市を背景としたインド古典文化の全盛期となった時期にさらに進展した。4世紀から5世紀にかけて、バラモンの渡来によってヒンドゥー文化が東南アジア全域に広がり、半島部では北部ベトナムを除いて中国文化の影響は薄くなり、特に「インド化」が進んだ。<石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』中央公論社世界の歴史13 などによる>
インド化の指針 一般的に、「インド化」の指針としては次の4点があげられている。
・インド的な枠組みでの王権の成立
・ヒンドゥー教と仏教の信仰
・インド的な神話と法律
・サンスクリット語の使用
このようなインド化の明確な国家としては、大陸部では7世紀までにベトナム中部の林邑がインド式の国名のチャンパーとなり、扶南を倒したクメール人のカンボジア、モン人のドヴァーラヴァティー、ビルマのピューなどのインド色の強い国家が現れた。島嶼部ではスマトラ島とマレー半島にまたがるシュリーヴィジャヤ、ジャワ島のシャイレーンドラはいずれもインドから仏教を受容した。
ベトナムの場合
東南アジア諸地域の中で、特にインド化の問題でとりあげられるのはベトナムであった。その位置から、ベトナム北部には中国文明が及んだだけでなく、直接的に中国諸王朝の支配が及んでいた。それに対して現在のベトナムの一部を構成する、中部から南部にかけて活動していたチャム人は、港市国家を形成しながら独自の文明を発達させ、はじめ中国文化の影響を受けていたが、次第にインド化することによってチャンパーと言われるようになった。また現在のベトナム南部からカンボジアにかけて最初に国家を形成した扶南は、1世紀に中国とも関係をもちながら、まずはじめにインド化が始まった。補足 インド文字の伝播
現在の東南アジア諸国で使用されている文字の中で、カンボジア(クメール文字)、ビルマ文字、タイ文字はいずれも古代インド・アショーカ王時代のブラーフミー文字をもとに作られたもので、「インド化」の結果といえる。ジャワ島にもかつてインド文字系のジャワ文字があったが現在は使われていない。なお、ベトナムとインドネシアの文字はラテン文字(ローマ字)表記が正式となっており、マレーシアやシンガポールは英語なのでアルファベットが普通に使われている。<東京外国語大学AA言語文化研究所編『図説・アジア文字入門』河出書房新社> → 文字変わる「東南アジア」観
20世紀中ごろまでの世界史理解では、4大文明を軸として説明することが多かったため、中国文明とインド文明に挟まれたこの地域は、独自の文明が形成されず、二大文明の影響を受けてようやく文明段階が形成された、とイメージされてきた。またオランダ、イギリス、フランス、アメリカ、日本といった帝国主義諸国に従属する植民地となったことは、この地域は「後進地域」だからだと意識されるようになった。戦前には「東南アジア」という言葉さえなく、「インドシナ」などといわれていた。「東南アジア」という地域概念が生まれたのは戦後、この地域の国々が独立し、「東南アジア諸国連合(ASEAN)」を成立させた影響が大きい。1970年代から、東南アジア諸国で、「中国化」や「インド化」といった歴史観を批判し、自律的な文化の形成を主張する民族主義的な研究が始まった。日本の世界史教育では現在まだ「中国の影響」や「インド化によって文明化した」といった見方が有力で、指導要領でも「東南アジア」はインドを中心とした「南インド」に付随させて説明することになっている。だが、それでも少しずつ変化が見られるようだ。そのような新しい見方はどのようなことなのか、見ておこう。
参考 最近の「インド化」についての見方
上述の「インド化」という東南アジア史の枠組みは、1945年に発表されたフランスの歴史学者ジョルジュ・セデスの学説によって出来上がった。戦後の東南アジア史研究もその影響で進められ、日本の高校世界史でも「インド化」の視点が取り入れられるようになった。しかし、60年代から現地の研究者による研究、考古学上の発見が進むにつれて、「インド化」についての再検討がなされるようになった。その結果、現在はほぼ次のような見方がだされるようになった。東南アジアの歴史には、中国・インドの間接的影響があったことは否定できないが、金属器文化や階級社会の形成などは独自に、土着的に展開されたことが明らかになってきた。扶南の建国神話に伝えられるような外来王の即位は組織的な文化移植をともなっていたのではないので、第1次インド化とはいえない。サンスクリット碑文は一部で見られるだけで広く分布しているわけではない。オケオ遺跡の出土品は盛んな交易を物語ってはいるが、「文化の移植」を伴ってはいない。「第2次インド化」というのは、充分力を付けてきていた諸国家が、インド文化の組織的受容によって自己を完成させようとしたもの、と見るべきである。<桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』世界史リブレット12 1996 山川出版社 p.33-37>
それでは自律的発展によって独自に力を付けたとされる東南アジア諸国家の性格をどう捉えたらよいか。それにたいしては、独自の農業国家(潅漑農業に依存しない集約農業を発達させたベトナムやタイのアユタヤ朝のような農業国家、広範囲な外国との交易によって発展したマラッカ王国やチャンパ王国などが注目されている。また東南アジア世界の独自の国家類型として港市を軸とした「ヌガラ」や、農業と交易を結びつけた「クルン」など新しい概念が提唱されている。<桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』世界史リブレット12 1996 山川出版社 p.39-66>