アユタヤ朝
14~18世紀、タイのアユタヤを都として繁栄したタイ人の王朝。15世紀にはカンボジアに勢力を伸ばして全盛期となった。アユタヤはチャオプラヤ川で外洋とつながる港市国家として発展し、16世紀にはポルトガル人が来航、17世紀には各国の商人が居住、日本町も作られた。1764年、ビルマのコンバウン朝の侵攻により滅んだ。
現在のアユッタヤー県 GoogleMap
タイでは、13世紀にタイ人が自立し、スコータイ朝が起こりラーマカムヘーン王の時期にタイ文字をつくり、上座部仏教を保護するなど、最初のタイ人の国家として繁栄したが、アユタヤ朝が起こるとスコータイ朝は次第に衰微して地方政権化した。
アユタヤ朝の勢力は1431年には、東のカンボジア王国(アンコール朝)の都アンコールを占領し、壊滅させた。さらに1438年には北方のスコータイ朝を併合して強大となった。
ポルトガルの進出
16世紀に入るとヨーロッパ人の東南アジアへの進出が始まり、1509年にポルトガルのアルブケルケが初めてアユタヤに使節を送ってきた。アルブケルケは1511年には艦隊を率いてマレー半島のマラッカ王国を征服し、南からアユタヤ朝に迫った。アユタヤ王国ラーマディボディー2世は1516年にポルトガル人の居住と通商の権利、カトリックの布教などを認め、ヨーロッパ人と最初に接触した王となった。17世紀後半のアユタヤの地図 2006年 センターテストより
港市国家として繁栄
16世紀からポルトガルとの交易が始まると、アユタヤは東西をむすぶ海上ルート上の交易ネットワークの拠点となるとともに、内陸の後背地域を支配して物資を集積、管理する政治権力として港市国家として繁栄するようになった。アユタヤ朝もそのような港市国家の典型例であり、特に17世紀には、国際商業の中心地として栄え、外国船が多数入港し、それぞれがチャオプラヤー川沿いに外国人町を作って居住し交易を行った。右の17世紀後半のアユタヤを表す地図には、フランス使節の館、オランダ東インド会社商館とともに、ポルトガル人、ベトナム(コーチシナ)人、中国人、マレー人と並んで日本町も建設されていたことが判る。ビルマへの服属と独立
16世紀に西に隣接するビルマでタウングー朝が勃興し上ビルマと下ビルマを統合、第2代のバインナウン王のとき、その攻撃をタイに向けるようになった。まずランナー王国(チェンマイ)を責めて属国とし、さらにランサン王国にも迫った。そのためランサン王は都をルアンプラバンから南のヴィエンチャン(現在のラオスの首都)に移したが、1571年にビルマの支配下に入った。アユタヤ朝とビルマのタウングー朝の戦争は、仏教徒王の象徴である「白象」の所有をめぐる論争から始まったが、実際にはチェンマイ(ランナー王国)における中国との通商およびテナセリウム(マレー半島西岸)におけるベンガル湾貿易をめぐって起きたもので、バインナウン王はさらに、「当時もっとも光輝溢れる都城アユタヤの財宝を手に入れ、労働力としての捕虜の獲得を目指していた。」<生田滋他『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 1998 中央公論新社 p.254>
ビルマによる1回目の支配 タウングー朝はアユタヤを最終的な攻撃目標とし、1568年から総攻撃を開始、ついに翌1569年にアユタヤは陥落し、国王チャクラパット王は戦死、その王妃シースリヨータイが自ら戦象にのって果敢に闘ったが、王妃も戦死し、都はビルマの手に落ちた。王妃シースリヨータイは伝説的な女傑として今も人気が高く、2001年には映画『スリヨータイ』が作られた(日本未公開)。タウングー朝はかつてのスコータイ朝の血筋を引く人物をアユタヤ王国の王とし、実質的には属国とした。その支配はその後、15年間つづくこととなった。こうしてアユタヤ朝はビルマの属国となったが、1581年、バインナウン王が死去して統治が揺らいだタウングー朝を見て、1584年にナレースアン王は独立を宣言、ビルマ軍の数度にわたる攻撃を撃退して、アユタヤ朝の復興に成功した。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.57-58>
Episode タイ式ボクシングを創始した国王
アユタヤ朝を復活させたナレースアン王は、象部隊を用いた巧みな戦術でビルマ軍を破った国王として人気が高く、現在もスコータイ朝のラームカムヘーン王、ラタナコーシン朝のチュラロンコン王とともにタイの三大国王の一人とされている。また、ナレースアン王は近年世界的に人気の高まっているタイ式キックボクシングであるムアイタイ(ムエタイ)の創始者ともされており、ムアイタイ選手に高く崇められている。<柿崎一郎『前掲書』 p.57-58>日本町の建設
アユタヤの日本人は朱印船貿易開始とともに16世紀末から住み始めたようで、最盛期には1000人~1500人がいたと思われる。国王はこれらの外国人を傭兵として護衛にあたらせており、日本人の傭兵も約600人いたという。外国人の中には官吏に登用される者もおり、その代表例が日本の山田長政であった。山田長政 山田長政は沼津藩主の駕籠を担ぐ人夫であったが、1612年頃朱印船に乗ってアユタヤに向かい、日本町で商業に従事し、日本向けの蘇木や鹿革などの買い付けを行い、成功した。名声を高めた長政は日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン)の隊長となり、当時のソンタム王の信頼を勝ち取っていった。彼は官吏の位を得て最終的にオークヤー・セーナーピムックという名を国王から賜った。オークヤーとは当時の最高の官位であり、彼が官吏の頂点に上りつめたことを示している。日本人義勇兵は貧弱な国王の常備軍を補い、商業ネットワークの見張り役もつとめたので、長政は軍事面、経済面で重要な地位にあったと言える。ところが1628年、ソンタム王の死後、王位継承争いに巻き込まれ、新王は強大な力をもつ長政を排除しようとして地方の領主に任じてアユタヤから追い出し、翌年に長政は毒殺されてしまった。まもなく、日本も江戸幕府が鎖国政策に転じ朱印船貿易も廃止されたため、日本町も消え去った。
山田長政の活躍はさまざまな脚色が加えられて「神話化」し、第二次世界大戦前になると日本の南進政策を正当化するためのプロパガンダとされ、学校の修身の教科書にも登場するようになった。そのため長政は日本人にとって英雄となったが、17世紀のタイでは外国人が登用されることは珍しいことではなく、日本人であるがゆえに活躍したのではない。彼は、当時の政界の権力争いに巻き込まれた外国人官吏の一人という存在であった。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.63-64>
鎖国に転じる
アユタヤ朝のタイでは、17世紀中頃にはオランダ、フランスも加えてさかんに貿易が行われた。日本は鎖国政策をったので、後退したが、1680年代にはアユタヤ朝は親フランス政策をとりルイ14世の宮廷に使節を派遣している。しかし、18世紀にはいると外国勢力の伸張に危機感を持った王が鎖国政策をとるようになった。ビルマのコンバウン朝に滅ぼされる。
1752年にビルマを統一したコンバウン朝が勢力を強め、再び隣接するタイに侵攻してきた。1767年、アユタヤの王宮はコンバウン軍に破壊され、アユタヤ朝は滅亡した。アユタヤは400年にわたり、都として繁栄し、仏教文化が花咲いたが、このときのビルマの侵攻によって徹底的に破壊されてしまった。アユタヤ朝時代の寺院は破壊され、頭部をコンバウン軍に持ち去れた仏像や、破壊を免れた一部の寺院が残されているのみである。