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青銅貨幣

古代中国において、春秋から戦国にかけて使用されるようになった青銅製の貨幣。刀銭、布銭など多様であったが、秦の始皇帝の時、半両銭に統一された。

 商品の流通に必要な貨幣は、殷時代の貝貨(南海から輸入された貴重品の宝貝が貨幣として用いられた)が見られ、春秋時代から金や銅の金属が貨幣として用いられるようになった。最も一般的な通貨とされたのが青銅貨幣で、戦国時代には七雄各国がそれぞれ青銅貨幣を鋳造するようになった。
 その形態は国、地域によって異なり、斉・燕では刀銭(刀貨)、韓・魏・趙では布銭(布貨)、楚では蟻鼻銭(貝銭)、秦では円銭(環銭)が流通した。統一国家の出現に伴い、貨幣も統一が図られ、秦の始皇帝半両銭、漢の武帝は五銖銭を発行して通貨を国家が統一的に支配する道具とした。
 → オリエントとギリシアの貨幣

青銅貨幣の大量出土

 中国の史書の『史記』や『漢書』などにも貨幣の発行についての記事がある。特に『漢書』食貨志下篇は中国最古の財政史・貨幣史の概論であり、王莽の時期までの貨幣について記述がある。周の初めの斉の太公は四角い穴の空いた円銭(方孔円銭)を発行し、春秋後期に周の景王が「大銭」を鋳造し「宝貨」の文字をつけたという。しかし考古学上では春秋時代前期以前の貨幣は現在のところ確認されていない。
 文献上の貨幣の記述は曖昧模糊としているが、出土した青銅貨幣は莫大な数量に上っている。一度に数百枚、数千枚、多いときには万を超え、六万枚も出土した例がある。そしてその種類も極めて多様であり、中国の青銅貨幣の出土量と種類の多さは世界の貨幣史でも類を見ない。
 青銅貨幣は形態上、①小刀の形をした刀銭、②スコップ型の農具のスキの形をした布銭、③宝貝(子安貝)の形をした貝貨(蟻鼻銭)、④円形の円銭、の四種類に分けられ、さらにそれぞれが細かく分類される。文字には国名、地名、記号、重量などがあるが、西方のコインのような発行者の肖像を入れることはない。このように形と文字を組み合わせれば何通りもの種類に分けられることになる。その形の地域的、時代的変化を明らかにするための編年の作業が今も続いている。
 3万点におよぶ先秦青銅貨幣のデータから読みとれることは次のようなことである。<中国出土資料学会編『地下からの贈り物』2014 東方書店 p.70-77 江村治樹執筆部分より>
  1. 最初の青銅貨幣は何か。考古学的には山西省で出土した布銭(首に孔のある空首布)が春秋中期、また北京市の墓地から出土した刀銭(先端のとがった尖首刀)が春秋後期、と認定できる。
  2. 青銅貨幣は誰が発行したか。戦国中期になると青銅貨幣が大量に発行されるようになる。貨幣には発行地の都市名が鋳込まれているので、中国の研究者は都市の所属する国家が発行したとみているが、日本の研究者は貨幣は国家が発行するものに限ることはなく、都市の商工業者など経済的実力者が発行したとも考えている。
  3. 特殊な大型貨幣の発行目的は何か。青銅貨幣の中には大型で厚手で他と明らかに異なるものがある。斉大刀といわれる形には40g、橋形方形布といわれる形には30gに達するものもあり、銅の成分比の大きい高品質である。これらは何れも戦国中期の発行で、秦(戦国)の強大化に抵抗する前線地域に当たっていたことから軍資金調達のためだった可能性がある。
  4. 中国歴代王朝の青銅貨幣はなぜ方孔円銭(四角の穴の空いた円銭)であったか。秦の始皇帝の統一に伴い、貨幣は秦で発行されていた方孔円銭の半両銭で統一された。それ以降歴代王朝の発行した貨幣は、文字は重量から元号に変化したが、形は変わらなかった。さらに周辺の朝鮮、日本、ベトナムにも影響を与えた。方孔円銭が長く国家発行の貨幣の形となったのは、従来の複雑な形態では携帯に不便であったことがあげられる。また、方孔円銭は円孔円銭から発展したと考えられるが、貨幣をまとめてヤスリで整形する際に差し込む棒を方形にして回転を止めるために方孔となったとする説がある。現在では方孔円銭と円孔円銭は戦国中期の同じ時期に出現したと考えられ、方孔円銭は円が天、方孔が地を表す宇宙観(天円地方)を示しているとされている。天が円く、地が方(四角い)であるという天園地方の観念は支配者の統治理念と合致し、国家発行の貨幣の形として理想的だったと考えられている。
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中国出土資料学会編
『地下からの贈り物』
2014 東方書店