貝貨
貝貨(ばいか)は、美しく珍しいタカラガイ(子安貝とも言われる)を貨幣として用いるのもで、世界各地にみられるが、中国では殷時代から使用さ、長く流通した。春秋・戦国時代から青銅貨幣が用いられるようになり、貝貨は次第に姿を消した。
貨幣(おカネ)が鋳造される以前には穀物、家畜、織物、農具などが交換の媒介物となっていた(このような貨幣の働きをするものを物品貨幣という)。中国の殷の時代にはそれらの他に、タカラガイの貝殻が殷墟などの遺跡から大量に見つかっており、青銅貨幣が現れる前の通貨の役割を果たしたと考えられている。
中国沿岸では採れないタカラガイ(宝貝。子安貝ともいう)の貝殻をインドや東南アジアから輸入して用いた。貨幣や経済に関する漢字のへんやつくりに貝が多いところからも、貝貨が中国の貨幣の始まりであることが推測できる。貨、買、賠、賣、貴、賎、貯、債、償、など枚挙にいとまがない。
タカラガイが通貨として用いられた例は、中国では古代の殷墟で大量のタカラガイが見つかっていることから貝貨として用いられたと考えられており(注)、その他に元の時代に雲南地方で使われていたということがマルコ=ポーロの『世界の記述』に記されている。その他、ベンガル地方では13世紀ごろまでモルディヴ産、タイでは18世紀中頃まで沿岸部産のタカラガイがそれぞれ通貨として使用されていた。それらの地域でも銅銭などが日常通貨とされるようになったため、貝貨は使用されなくなった。
注 殷墟などの遺跡から見つかるタカラガイについては、それが王や貴族など権力者の墳墓からしか出土せず、一般人の住居跡や墳墓からは見つかっていないことから、通貨としてではなく、内陸部では手に入らない貴重品を独占した権力者がその力を示すために有力者に分配していた「威信財」であった、という説が最近では有力になっている。
ただし、現在では殷王朝のタカラガイは通貨ではなく、威信財であったという見方が有力であり、またその産地も南西諸島だけでなく、南シナ海やインド洋の珊瑚礁海岸が多かったとされていて、柳田国男説はロマンチックな思い入れとみられるようになっているようだ。
古代中国のタカラガイ
上田氏は第一部のまとめとして、タカラガイがなぜ貨幣とされたかについて考察し、「貨幣の条件」として次の三つを満たしたことをあげている。
ベンガルやオリッサではルピー銀貨とムール金貨が流通していたが、貝貨はいわば超零細額面通貨として庶民の間で使われていた。たとえばゴラゴルの織布工たちは、イギリス東インド会社から、綿花や綿糸を確保するための前貸しをルピー銀貨かムール金貨で受け取っていたが、彼らははその金・銀を貝貨に両替してから原料を地元の市場で購買しなければならなかった。金・銀の額面では地元市場で購買できなかったからである。実際の交換比率の目安は銀貨1ルピー=銅貨64パイ=貝貨5120だった。貝貨は比率はたえず変動したが、ムガル統治末期までベンガルやオリッサそして北部のアッサムにおいて、少額取引における一般的な通貨であり、19世紀の初めまでは租税を貝貨で集めていた地域も存在した。
ベンガルやオリッサで貝貨とされたのは、インド洋のモルディッヴ諸島で採集される特殊な貝殻(タカラガイ)であった。すでに14世紀のイヴン=バットゥータがモルディヴからベンガルにタカラガイが運ばれていたことに触れているので相当ふるいことがわかる。実際にはモルディヴからの距離によって、インドでの銀貨との交換比率は異なっていた。それは貝貨をまとまった量で運ぶ際にかさばるので、輸送費用に地域差が生じるためである。このように貝貨の特質は、額面の零細さと同時に非可搬性が強い点にあり、高額遠隔地取引には向いていなかった。<黒田明伸『貨幣システムの世界史』2003初刊 2014増訂 2020岩波弁大文庫 p.89-102>
中国沿岸では採れないタカラガイ(宝貝。子安貝ともいう)の貝殻をインドや東南アジアから輸入して用いた。貨幣や経済に関する漢字のへんやつくりに貝が多いところからも、貝貨が中国の貨幣の始まりであることが推測できる。貨、買、賠、賣、貴、賎、貯、債、償、など枚挙にいとまがない。
タカラガイが通貨として用いられた例は、中国では古代の殷墟で大量のタカラガイが見つかっていることから貝貨として用いられたと考えられており(注)、その他に元の時代に雲南地方で使われていたということがマルコ=ポーロの『世界の記述』に記されている。その他、ベンガル地方では13世紀ごろまでモルディヴ産、タイでは18世紀中頃まで沿岸部産のタカラガイがそれぞれ通貨として使用されていた。それらの地域でも銅銭などが日常通貨とされるようになったため、貝貨は使用されなくなった。
注 殷墟などの遺跡から見つかるタカラガイについては、それが王や貴族など権力者の墳墓からしか出土せず、一般人の住居跡や墳墓からは見つかっていないことから、通貨としてではなく、内陸部では手に入らない貴重品を独占した権力者がその力を示すために有力者に分配していた「威信財」であった、という説が最近では有力になっている。
Episode 柳田国男と「椰子の実」
柳田国男が明治30(1897)年、大学2年生の休みに、三河の伊良湖崎に遊んだとき、海岸に椰子の実が打ち寄せられるのを見た。帰京後、その話を島崎藤村にしたことから、あの「椰子の実」の詩が生まれた話はよく知られている。柳田国男は遠く南国の海辺に生まれた椰子の実が、潮流に乗って日本列島の浜辺に流れ着いていることを知り、日本文化を形成した人びとも南方から南西諸島を渡ってやってきたのではないだろうか、という壮大な日本文化論を構想している。昭和26(1951)年に発表された『海上の道』だ。その書は多角的に日本文化の南方起源説を展開しているのだが、人びとが南西諸島の島々をめざした目的の一つが、貝貨として用いられたタカラガイ(子安貝)だった、と論じている。(引用)そこでいよいよ私の問題の中心、どうしてそのような危険と不安との多かった一つの島に、もう一度辛苦して家族朋友を誘うてまで、渡って来ることになったのかということになるのだが、私はこれを最も簡単に、ただ宝貝の魅力のためと、一言で解説し得るように思っている。秦の始皇の世に、銅を通貨に鋳るようになったまでは、中国の至宝は宝貝であり、その中でも二種のシブレア・モネタと称する黄に光る子安貝は、一切の利慾願望の中心であった。今でもこの貝の産地は限られているが、極東の方面に至っては、我々同胞種が居住する群島周辺の珊瑚礁上よりほかには、近いあたりには、これを産する処は知られていない。<柳田国男『海上の道』ちくま文庫版 柳田国男全集1 p.44-45>続けて柳田は次のように説明している。中国の歴史で明らかになっていることは、中原にした殷王朝の背後の勢力は東方にあり、その東夷の海の営みの中には、宝貝の供給があった。しかし美しい宝貝は浜辺で容易に見つかる貝殻ではなく、海中に活きているものを手に入れる他はない。沖縄の国頭郡の北端の村々には今も食用とする宝貝の捕獲法を伝えており、宮古島にもこの種の貝の採集の中心になっている。
ただし、現在では殷王朝のタカラガイは通貨ではなく、威信財であったという見方が有力であり、またその産地も南西諸島だけでなく、南シナ海やインド洋の珊瑚礁海岸が多かったとされていて、柳田国男説はロマンチックな思い入れとみられるようになっているようだ。
タカラガイの文明史
遺跡から大量に出土し、さらに最近まで通貨として使用されていたタカラガイの跡を追跡した上田信の『貨幣の条件――タカラガイの文明史』から、タカラガイのいくつかを拾ってみよう。古代中国のタカラガイ
- 中国最初の王朝、夏の都と比定されている河南省の二里頭遺跡(前1800年~前1500年頃の青銅器文化)でタカラガイとその模造品が出土している。それ以前には前3000年頃の仰韶文化期の黄河上流の馬家窯遺跡に西方からもたらされたわずかなタカラガイがみられるが、それは手に入れるのが困難だったためか、模造品だった。そのタカラガイ好みの文化が初期の二里頭文化に引き継がれたものと思われ、その第三期・第四期(前16世紀)に劇的な変化が起こり、宮殿跡とされる遺跡からタカラガイの出土が急増する。それはおそらく南シナ海から海上ルートで山東に運ばれたものが二里頭にもたらされたもので、王権の確立を意味している。タカラガイの数量を確保できるようになった二里頭の王権(おそらく華王朝)は、貢納と下賜という形の交易を展開し、威信財として周辺の首長に分配した。(つまりこの段階のタカラガイは通貨としてではなく、王の権威を示す威信財として蓄えられた)<同書 p.58-60>
- 商王朝(一般的には『史記』に従い殷王朝とされる)では、第4期(前14世紀末)、本拠が殷墟に移った頃からタカラガイをともなう墓葬が急増する。数が多くなるだけでなく、死者を埋葬するときにタカラガイをその口に入れたり手に握らせてたりする習俗が一般化している。(通貨としてではなく)呪術的な意味があったと想像され、おそらく護符として用いられていたと考えられる。<p.62-24>
- 商王朝第六期の墳墓の中で唯一盗掘を免れた、第23代王の武丁の妻の一人とされる婦好の墓(1976年発掘)から、青銅器468、16体の殉死者などとともに、遺体の側から6880個以上のタカラガイが出土した。そのほとんどに背面に円形の穴があけられていた(つまり身体の装飾としていた)。<p.65>
- 商王朝では、王権の威信財、呪物として貴族に下賜されるものとしてタカラガイは飛躍的に使われるようになった。それらは西方の砂漠体を越えてもたらされたとは考えにくく、可能性の最も高いルートはシナ海域の南で採取した貝を船に乗せ、海岸線を北上して山東で陸揚げし、中原にもたらされたという経路である(柿沼陽平氏の説による)<p.69>
- 四川省の三星堆は特異な青銅器文化が発達したことで知られるが、大量のタカラガイも出土している。ここでのタカラガイは青銅製の容器の中や祭祀坑から見つかっており、穴を開けられたものが多い。ただ、殷墟から出土したのがほとんどキイロダカラであったのに対してハバビラダカラが半数を占めている。三星堆のタカラガイの半数は中原からもたらされたもので、半数はトンキン湾などで採集されたハバビラダカラが雲南ルート(本書で言う「タカラガイの道」)を経由したと考えられる。<p.69-72>
- 殷代までのタカラガイは貨幣ではなかった
(引用)新石器時代から商代までのタカラガイの利用方法を見ると、貨幣として使用された形成は見られない。商代に続く周代にも、タカラガイは威信財として用いられたが、しかし、やはり貨幣ではなかった。タカラガイを中国古代の貝貨とする言説は、柿沼氏も指摘するように、漢代に成立したと考えられる。漢代の知識人は、いにしえのタカラガイが珍重されていたということは知っており、秦漢時代から広く使われるようになった銅銭との類推から、古代貝貨という言説を生み出したのであろう。商代において、タカラガイは貨幣の条件の何かを、欠いていたのである。<上田 信『貨幣の条件ータカラガイの文明史』2016 筑摩選書 p.72>雲南のタカラガイ
- タカラガイと金印 雲南省首都昆明の南西に広がる滇池のほとりの石寨山で大量の青銅器と共にタカラガイが出土した。17基の墓から約14万9000枚、近隣の墓からも大量のタカラガイ(ほとんど南方産のハナビラダカラ)が、青銅製の専用の容器(貯貝器)に入れられ副葬されていた。ただこれらの貝には穴が開けられておらず、後世の雲南の貝貨には紐で連ねるための穴があるのとは違っており、あきらかに貨幣ではなかったと思われる。同じ遺跡から「滇王之印」と陰刻された金印が出土しており、これは史記に伝える漢の武帝が紀元前109年に雲南の首領に金印賜ったとされるものとされている。<p.78-83>
- 南詔でタカラガイが貨幣として使用される 雲南では7世紀頃、チベットの吐蕃帝国の南下に抵抗した勢力が、唐帝国の助力を得るために使者を使わし、738年に「南詔」王国として承認された。それ以後南詔は吐蕃と唐の間にあって翻弄され、時によってそのいずれかについて国を維持した。9世紀以降、唐と吐蕃がともに国力を衰退させると、829年には四川に軍隊を派遣し成都を一時占領したり、反転してインドシナに侵攻したり、勢力を拡大した。863年には南詔は唐がベトナムに置いた安南都護府を攻撃しているが、そのとき安南都護府に赴任していた人物の著した『蛮書』(雲南志ともいう)には、南詔の女性は裸足で青い布をまとい、珂貝と抜糸した歯と真珠を連ねて首飾りにしている、と書いている、この珂貝がタカラガイであり、装飾品とされていたことと同時に、穴が開けられていることから貨幣としても用いられたことが想起できる。その他南詔末期の埋葬施設から多量のタカラガイが発見されており、ひろく社会のなかで珍重されてていたことは確実だ。後世の編纂物であるが『新唐書』「南詔伝」では貝が交易での通貨として用いられ、16枚が1単位とされていたと記されており、それは13世紀以降の貝貨としてのタカラガイの単位とも一致する。<p.89-93>
- 南詔国 東ユーラシア・交易路の発達 南詔国の勢力の伸長にともに、雲南から西方のインドのアッサムに入るルートが整った。7世紀にはイラワジ川中流域でピュー人が建国した驃国とも密接な関係を持つようになり、9世紀には南詔国がこの方面に進出している。イラワジ川中流域からはインドのプラマプトら川流域に抜けるルートも存在した。東南に向けては唐の勢力下にあったベトナム北部の交州との交流も盛んだった。さらに南詔国の中心部から南にさがりメナム川上流域を抜けてタイに至る道、途中からラオス域内に入り、メコン川流域からベトナム中部・南部の海岸に至るルートも枝分かれしていった。著者は「雲南」地方が東ユーラシアの「ヘソ」だった、と提唱している。こうした複数の経路を通じて、タカラガイがインド洋岸やトンキン湾沿岸から雲南に運ばれ、タカラガイの価値が威信財から服飾品、そして貨幣へと下がっていった。<p.94>
- 大理国 雲南を中心としたタカラガイが通貨圏 南詔国は902年の内紛によって王統が途絶え、938年にペー族で南詔の武将であった段思平が大理国を樹立した。大理国でも雲南を中心とした交易ルートは継承され、さらに唐の滅亡にともない交州の港は衰退し、それにかわって現在の南寧を経由してトンキン湾に出るルートが確立された。雲南の主要な産物は馬であり、中国の宋朝は北方に対する防衛のために必要な軍馬を雲南に求めた。このような南詔国から大理国に至る8世紀から13世紀、インドからインドシナの広い地域で、タカラガイが通貨として用いられていた。またこの時代になると隊商が組織され、多数の馬に荷を乗せて目的地まで一気に運ぶ物資輸送が効率的に行われるようになった。こうした質・量ともに交易の水準が向上したことを背景として、雲南にはタカラガイが大量に流入し、タカラガイ通貨圏に組み込まれた。<p.94-96>
- マルコ=ポーロが見た雲南のタカラガイ通貨圏 大理国は1253年、フビライが総指揮を執るモンゴル軍に攻撃され、翌年降伏し、雲南はモンゴル帝国の領国・雲南王国となりフビライの子のフゲチが統治した。1290年代の雲南について、が『世界の記述』のなかで詳しく報告している。マルコ=ポーロは雲南ではタカラガイが貝貨として金と併用されていたこと、金が正貨でタカラガイが細かい支払に使われていたと観察している。元朝の雲南における納税は金立てで行われたが、実際にはタカラガイによる代納も行われていた。タカラガイの価値は80個が銀1サジュである。1サジュは重さ3.6グラム、2015年の銀価格が1グラム60円強なので、貝貨タカラガイ1個は3円弱となる。ところが金で換算すると、銀8サジュが金1サジュに値するとあるところから、金1グラム5000円とすると、貝貨一個で30円弱となり、銀と金とでは現代と比較すると、銀の価値が金に対してきわめて高かったということになろう。<p.103>
- 元代の雲南へのタカラガイ・ルート 雲南で通貨として用いられたタカラガイは、どこからもたらされたものか。マルコ=ポーロはインディエといっているが、ひろく南シナ海からインド洋にかけての海域を指し、その一つに宋代から中国との交易を行っていた、タイ南部のチャオプラヤー川流域にあった羅斛国などだった。14世紀に中国をめざす大旅行を行ったイブン=バットゥータの『三大陸周遊記』には、苦難の末到達したモルディヴで、島民が海中から採集したタカラガイを、ベンガルからやってくる人びとの持ってくる米と交換し、ベンガルではタカラガイが通貨として用いられていると記している。ベンガルのタカラガイはさらにミャンマーを経て雲南にもたらされた。それ以外にも雲南に元込まれる密輸ルートがあったであろう。<p.125-131>
- タカラガイの供給地 琉球王国 明朝を通じてタカラガイは貝貨として流通していた。中国内部の交易には銀と銅銭が用いられていたが、雲南だけは貝貨が用いられていた。雲南で必要とされたタカラガイは、明朝が朝貢貿易によって海外から獲得したものが供給された。雲南では官僚の俸給もタカラガイで支払われた。明への朝貢の要請に応えた一つが琉球王国であり、琉球王国の朝貢品リストの中にタカラガイが見られる。その他の朝貢品には馬、刀、金銀、瑪瑙、象牙などもあるが、それは琉球王国が海外から交易で得たもので、中継貿易を行っていたことが判る。琉球王国は、雲南へのタカラガイの供給地だったのだ。<p.151-161,164>
- 貝貨の崩壊 17世紀なかばごろまではタカラガイは貨幣として流通はしていたが、1610年ごろに対銀比価が低下しはじめ、まもなくして貝貨の価値が暴落して、タカラガイに替わって銅銭が流通するようになる。そして明朝に替わって中国を支配することとなった清朝が、雲南を直接に統治するようになった1680年代にはいると、タカラガイがもはや貨幣として用いられることはなくなる。タカラガイは貨幣であることをやめ、銅銭に取って替わられた。<p.174>
- 貝貨の崩壊の原因 雲南での貝貨の崩壊は、タカラガイの供給が途絶したことが原因だった。その原因には、まずインド洋のモルディヴでは、17世紀に入ってポルトガルに替わって進出したオランダ東インド会社が、タカラガイをアフリカに搬出し、西アフリカでの黒人奴隷買い付けに用いるようになったことがあげられる。雲南へのもう一つのタカラガイの供給地であった琉球は、1609年の島津入りを契機に、日本の幕藩体制の中に組み込まれ、明朝向けの貢納品としてのタカラガイを王府に集めるというシステムが崩壊したこと、があげられる。<p.174-175>
上田氏は第一部のまとめとして、タカラガイがなぜ貨幣とされたかについて考察し、「貨幣の条件」として次の三つを満たしたことをあげている。
- 希少性 タカラガイが容易に手に入るところではない、海から遠く離れた雲南地方、あるいは原産地モルディヴから遠いベンガル地方などで通貨とされたのは、それらの地での希少性が高いからである。
- 均一性 タカラガイは均一なものを大量に採集できた。タカラガイを産出する珊瑚礁に囲まれた島々では、均一な貝が膨大に存在する。採集地では価値はないが、産地から遠く離れたところでは、希少性と共に、容易に数えられ、分配することができることが通貨としての価値となる。また日常の少額な取引にも便利である。
- 持続性 希少性・均一性のあるものが貨幣として信用されるには、それが常に安定的に供給されるものでなければならない。穀物などの商品貨幣は均一性はあるが、安定的な持続性はない。貝貨は供給の持続性にすぐれていた。しかし、銅銭や鉄銭など卑近ではあるが持続的に供給される貨幣が流通すれば、それにとって替わられる。
少額貨幣としての貝貨 ベンガルの例
東インド会社支配下のインド・ベンガル地方などでは18~19世紀にタカラガイが貝貨として用いられていた。以下、黒田明伸『貨幣システムの世界史』より、抜粋し構成。ベンガルやオリッサではルピー銀貨とムール金貨が流通していたが、貝貨はいわば超零細額面通貨として庶民の間で使われていた。たとえばゴラゴルの織布工たちは、イギリス東インド会社から、綿花や綿糸を確保するための前貸しをルピー銀貨かムール金貨で受け取っていたが、彼らははその金・銀を貝貨に両替してから原料を地元の市場で購買しなければならなかった。金・銀の額面では地元市場で購買できなかったからである。実際の交換比率の目安は銀貨1ルピー=銅貨64パイ=貝貨5120だった。貝貨は比率はたえず変動したが、ムガル統治末期までベンガルやオリッサそして北部のアッサムにおいて、少額取引における一般的な通貨であり、19世紀の初めまでは租税を貝貨で集めていた地域も存在した。
ベンガルやオリッサで貝貨とされたのは、インド洋のモルディッヴ諸島で採集される特殊な貝殻(タカラガイ)であった。すでに14世紀のイヴン=バットゥータがモルディヴからベンガルにタカラガイが運ばれていたことに触れているので相当ふるいことがわかる。実際にはモルディヴからの距離によって、インドでの銀貨との交換比率は異なっていた。それは貝貨をまとまった量で運ぶ際にかさばるので、輸送費用に地域差が生じるためである。このように貝貨の特質は、額面の零細さと同時に非可搬性が強い点にあり、高額遠隔地取引には向いていなかった。<黒田明伸『貨幣システムの世界史』2003初刊 2014増訂 2020岩波弁大文庫 p.89-102>