サツマイモ(甘藷)
アメリカ大陸原産の栽培植物。フィリピン、琉球を通じて日本に伝えられ、備荒作物として広く栽培された。中国ではトウモロコシとともに清代中期の人口急増を支えた。
サツマイモはアメリカ大陸原産の農作物の一つで、日本では甘藷(かんしょ)とも言う。もとは新大陸のメキシコ高原と考えられている。新大陸を征服したスペイン人によってヨーロッパにも知られるようになったが、さらにスペイン領となったフィリピンに伝えられ、中国には明代に伝えられて、その南部を中心に作られるようになった。
サツマイモは、トウモロコシとともに、16世紀ごろ、西洋人によって中国に伝えられたが、米や麦などと違い、痩せた山地でも栽培が可能であったので、清朝中期の四川や長江上流、東北や台湾などへの移住民の生活を支え、18世紀に興った人口急増を支えた。
太平洋への伝播
なお、太平洋のイースター島やハワイ諸島、ニュージーランドなどのポリネシアの島々を探検したヨーロッパ人は、そこですでにサツマイモが栽培されていたことを報告している。宮本常一は、それをインカ帝国時代の大陸西岸の漁民が太平洋にも広く活動していたためとし、1947年にペルーのカリヤオを葦船「コンティキ号」で出航し、トンガに近い暗礁まで航海したヘイエルダールの『コンティキ号航海記』で実証されたとしている。さらにポリネシア人が、ミクロネシアの島々やフィリピン、インドネシアにも渡来し、サツマイモを含む芋類の栽培を伝えたとも考えられると推定している。中国への伝来
甘藷は中国に伝わったのは明の万暦年間であったようで、李時珍の『本草綱目』に現れており、清代の徐光啓の『農政全書』にも、詳しい栽培方法が記載されている。サツマイモは、トウモロコシとともに、16世紀ごろ、西洋人によって中国に伝えられたが、米や麦などと違い、痩せた山地でも栽培が可能であったので、清朝中期の四川や長江上流、東北や台湾などへの移住民の生活を支え、18世紀に興った人口急増を支えた。
琉球への伝来
1605(慶長10)年、琉球王国の尚寧王は使者を中国に派遣したが、そのとき福建の閩州で甘藷の栽培を見た使者が、琉球に伝えた。成長が早く、イモに甘みがあり、収穫も多いので琉球全土に広がった。このときサツマイモの普及に尽くした真常という人は、薩摩から木綿の実を持ち帰ってその栽培を始めたり、中国の福州から黒糖の製造を学んで琉球に普及させた、琉球の産業経済を基礎をつくった優れた指導者だった。平戸への伝来
甘藷を日本に最初にもたらしたのは、イギリス人のウィリアム=アダムス(三浦按針)であった。アダムスはオランダ船リーフデ号の乗組員であったが、1600年に難破して日本に漂着、徳川家康に用いられて外交顧問となり、イギリスとの交易を開始するために平戸に行った。平戸の近くの河内浦で新たに造られたシー・アドヴェンチャー号の船長としてシャムに渡航しようとしたが、途中浸水したため琉球の那覇港に入港した。そこでアダムスは甘藷を知り、興味を持ったので買い取って1615年に平戸に戻ってきた。アダムスから甘藷を受け取ったイギリス商館長コックスは河内浦の畑で、甘藷を植え、収穫したとその日記に記している。コックスはそのイモを「リュウキュウイモ」と記している。こうして甘藷はまずリュウキュウイモとして知られ、長崎で栽培され、それが四国の愛媛などに広がっていった。薩摩への伝播と普及
平戸への伝播と同じころ、甘藷は薩摩に伝えられた。直接は1609年の薩摩藩による琉球征服であったが、それ以外にもフィリピン(ルソン)から薩摩にもたらされたという記録もあり、薩摩への正確なルートと年代は判らない。まもなく、薩摩から紀州や広島に伝えられた。そのころまで、甘藷はリュウキュウイモとか、カライモとか、アカイモと言われており、対馬などでも独特のイモ栽培が広がっていた。青木昆陽
甘藷の日本へのルートはいくつかあったようだが、江戸時代には西日本に広く広がった。宮崎安貞の『農業全書』(1697)や貝原益軒の『大和本草』(1709)などにもその栽培法や効用を説いている。関東地方では、薩摩から種芋がもたらされたので「サツマイモ」と言われるようになった。これは関東地方だけの言葉であったが、享保の大飢饉に際して徳川吉宗が登用した青木昆陽が『蕃藷考』(1735)を著し、米の凶作時の代用作物として栽培を奨励してから急速に全国に広がった。青木昆陽は「甘藷先生」と言われ、今も東京目黒の不動堂境内には、江戸の薩摩芋問屋仲間がたてた「甘藷先生之墓」がある。サツマイモ
明治時代までの日本農村の主要作物は相変わらず米であって、甘藷の裁判面積が多かったわけではない。政府は税の対象となる米作の奨励を続け、甘藷栽培はむしろ制限した。しかし、民間の、特に地味の悪い山間部の農民は甘藷を作り続け、また民間の篤農家や農民の中に懸命に品種改良に取り組む人が現れ、昭和になって広く栽培されるようになり、戦時には日本人の食欲を満たす作物として栽培され、このころから関東地方の地方名に過ぎなかった「サツマイモ」が全国の共用語となった。しかし戦後は米価は国で保障されたが、サツマイモは収穫量に見合った収益がなく、不安定であったためと、食糧事情の好転などによって消費量も減り、次第に栽培農家は少なくなっている。西日本ではサツマイモ畑が果樹園に切り替えられていった。現在ではサツマイモは「イモ焼酎」の原料として栽培されている。参考 宮本常一『甘藷の歴史』
以上は宮本常一『甘藷の歴史』から要約したものです。宮本常一(1907~1981)は、柳田国男や渋沢敬三の影響を受けながら独自の視点で日本全国のフィールドワークを続けた民俗学者。『忘れられた日本人』など著作も多い。『甘藷の歴史』は1962年に日本民衆史シリーズ7として刊行された。アメリカ大陸の原住民が栽培していたイモが、大航海時代を経て日本に伝えられ、日本人の食生活を支える食物となったこと、日本ではどのように普及したのかなど、肩肘張らない文で説いている。宮本常一は同書の巻末で、サツマイモについてこう言っている。(引用)甘藷はあるいみでは私生児のようなものであった。政治の外の世界でのびていき、政治からなかばはみだした人びとの食料として、この人びとの生活をささえ、エネルギー源となった。それが、政治にとりあげられるようになったのは戦時中からであった。そのときだけははなやかにもてはやされた。しかし今また忘れられようとしている。
食料が十分だから忘れてもいいのかもわからない。しかし、これをつくり、これを食べる人びとのことは忘れていただきたくないのである。この人たちこそいちばん人の邪魔にならずにしかもよく働いた。・・・甘藷の歴史のなかに私は近世の庶民の運命を見る思いがする。<宮本常一『甘藷の歴史』双書・日本民衆史7 1962 未来社 p.213>