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韓民族/韓族

朝鮮半島の主要民族。歴史上は古代(1~4世紀)に半島南部で馬韓・弁韓・辰韓の三韓に分かれ、さらに小国家を統合して百済、新羅を形成した民族を言う。

 朝鮮半島で現在まで文明を継承している民族が韓(ハン)民族。アルタイ語系に属しているとされ、古くは中国東北部から半島にかけて広く分布し、衛氏朝鮮からが韓民族の国家であると現在の韓国では考えられている。なお、中国には春秋時代の七雄の一つのがあるが、朝鮮における韓民族とは直接的な関係はない。

三韓の形成

 衛氏朝鮮は王険城(現在のソウル近郊)を都にしたが、前108年に漢の武帝によって滅ぼされ、武帝は楽浪郡以下の四郡を置いて、朝鮮に郡県制の支配を及ぼし、漢民族もその支配を受けることになった。半島南部の漢民族は部族ごとに小国家を形成し、地域的に西の馬韓、東の辰韓、南部の弁韓に分けられ、三韓といわれるようになった。

参考 『三国志魏書東夷伝』の伝える韓族

 中国の魏・呉・蜀の正史である『三国志』の「魏書」の中の「東夷伝」には倭人の条(いわゆる魏志倭人伝)の以外にも、韓族についての詳しい記載がある。それによって分かる韓族の情報には次のようなものがある。
 三韓地方は濊族以北の地にくらべて生産力が豊かで人口も多い。馬韓50余国のうち大国は1万余戸、小国でも数千戸であり、総計十万戸と言われる。辰韓・弁韓は地形的な制約もあって規模は小さく24の小国のうち、大きいもので4千~5千戸、小さいもので6百~7百で総計4万~5万戸であった。それぞれの国は水系ごとの農耕を共同で行う共同体から出発したものと思われる。洛東江流域の沖積平野にあった辰韓・弁韓の一つの小国は、300~700m程度の山に囲まれ、50m前後の丘陵で分断された谷間を農地とする集落国家として生まれ、ある程度が集合して集落連合国家を形成したと考えられる。<井上秀雄『古代朝鮮』2004 講談社学術文庫 p.64-68>

韓民族の国家形成

 313年に半島北部のツングース系民族、高句麗によって楽浪郡が滅ぼされると、半島南部の漢民族も自立し、馬韓の地を百済、辰韓の地を新羅が統一して、高句麗とともに三国時代となった。弁韓の地は加羅などの小国家分立が続き、倭を統合した日本大和政権も進出した。

その後の韓民族

 三国時代の高句麗は最も優勢で、たびたび南下して韓民族を支配した。三国と大和政権は中国の南北朝の分裂期という複雑な国際関係の中で互いに抗争したが、中国に唐が登場した頃、唐と結んだ新羅が有力となり、668年が朝鮮半島を統一した。
 その後、918年には新羅を滅ぼした高麗が成立、13世紀にはモンゴルの攻撃と実質的な支配を受けながら独自の文化を発展させ、1398年に成立した次の朝鮮王朝(李朝)は日本の豊臣秀吉の侵略を受けたことで弱体化し、1637年以降は清の実質的な保護国となった。

近現代の韓民族

 日清戦争によって1895年の下関条約で清朝の宗主権は否定され、朝鮮の独立が達成された。それをうけて、朝鮮は1897年に大韓帝国(略称が韓国)と改称した。この時はじめて「韓」は国号に用いられた。しかし、日露戦争の勝利によって日本は韓国保護国化を進め、1906年に韓国統監府を設置、さらに1910年に韓国併合を実行したことによって韓国は消滅、朝鮮総督府による朝鮮の日本植民地化が行われることとなった。
 第二次世界大戦後独立を回復、朝鮮半島一体となった独立は米ソの冷戦のあおりを受けて実現できず、北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と、南の大韓民国(韓国)とに分断され、現在に至っている。
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書籍案内

井上秀雄
『古代朝鮮』
初刊 1972 NHKブックス
再刊2004 講談社学術文庫