マジャパヒト王国
ジャワ島東部のヒンドゥー教国家。13世紀末、元のフビライの遠征軍による混乱の中から成立した。14世紀、ジャワ島・バリ島中心にヒンドゥー文化が栄えたが、16世紀にジャワ島にイスラーム教国マタラム王国が成立し滅ぼされた。
インドネシアのジャワ島東部に興ったヒンドゥー教の王国。マジャパヒト朝とも言う。ジャワ島にはシンガサリ朝があったが、1292年に元のフビライ=ハンの遠征活動がこの地にも及び、その海軍の攻撃を受けることとなった。それを機に反乱が起こり、国王クルタナガラ王が殺され、その女婿のヴィジャヤが同じくジャワ島東部のマジャパヒト村に逃れ、王位を回復するため来寇した元軍の協力を取り付けるのに成功し、反乱軍を鎮定した。こうしてマジャパヒト王国が成立し、王は巧みに元軍を帰国させて独立を守った。シンガサリとマジャパヒトは同一の王統の国なので、シンガサリ=マジャパヒト王国と表記することもある。
マジャパヒト王国の都は現在のモジョケルトの近くにあったが、モジョケルトは後のオランダ植民地時代にはジャワ島最大の製糖業地帯として開発され、砂糖プランテーションが置かれた。20世紀の初め、スカルノは父がこの地の原住民小学校の教師として赴任したため、15歳までモジョケルトで過ごした。
1389年にハヤム・ウルク王が没してからは再び分裂状態となり、1405年、鄭和が第1回航海でジャワ島に立ち寄ったときは、内戦の最中だったという。15世紀の中ごろからジャワ島の海岸部にもイスラーム教徒が港市を建設するようになり、マジャパヒト王国は内陸においやられ、首都マジャパヒトもいつ頃か放棄されて、地方政権が分立する状態となった。<生田滋他『前掲書』p.-248>
しかし、16世紀になると急速に衰退し、1520年に滅亡した。代わって同じジャワ島の中部、ジョグジャカルタを首都とし、稲作を基盤とするイスラーム教を奉じるマタラム王国が成立すると、次第にイスラーム教が優勢になり、ヒンドゥー教は劣勢となっていく。このマタラム王国は18世紀にオランダに征服され、ジャワ島における最後の土着国家となった。
Episode 「苦いマジャ」
ジャワ人がヤシの葉に鉄筆で文字を刻み、木炭の粉などをすり込んで記録し、マジャパヒト王国時代に作られた『ナーガラクルタガマ(諸国の記述)』や、その後に作られた『パララトン(歴代の王の書)』によってシンガサリ=マジャパヒトの歴史が伝えられている。それらによると、ヴィジャヤが荒地を開墾したとき、渇きにたえかねてマジャの木の果実を食べたところ、非常に苦かったので、その土地を「苦いマジャ」という意味の「マジャパヒト」と呼んだという。マジャパヒトはジャワ島東部の都市スラバヤの南東の、現在のモジョケルト市の南郊にあり、現在はその王宮跡が遺跡となっており、発掘や保存が行われ博物館も開設されている。当時はスラバヤからプランタス川をさかのぼってモジョケルトまで貿易船が来港していたと考えられ、東ジャワの交易を支配することができた。<生田滋他『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 1998 中央公論社 p.241>マジャパヒト王国の都は現在のモジョケルトの近くにあったが、モジョケルトは後のオランダ植民地時代にはジャワ島最大の製糖業地帯として開発され、砂糖プランテーションが置かれた。20世紀の初め、スカルノは父がこの地の原住民小学校の教師として赴任したため、15歳までモジョケルトで過ごした。
マジャパヒト王国の歴史
1292年、モンゴル帝国の遠征軍がジャワに来攻したとき、『パララトン』によるとラーデン・ヴィジャヤはタルタル人(モンゴル人)の王と友人であったので、二人の姫をえさとしてタルタルの王に来攻をさそったというが、もちろんこうした事実は無い。ラーデン・ヴィジャヤはどさくさにまぎれて妹姫を救い出し、計略を用いてタルタル軍を追い払い王位についたとされている。その後も各地で反乱が続き安定していなかったが、1350年に即位したハヤム・ウルク王は、1370~81年にジャワ(闍婆)国として明に朝貢し、ガジャ・マダという宰相によって理想的な政治が行われたという。『ナーガラクルタガマ』によると14世紀のマジャパヒト王国の統治は、現在のインドネシア共和国と同じ範囲に及んだとされており、それが現在のインドネシア共和国が支配する領域の歴史的根拠として強調されているが、実際の支配はジャワ島とバリ島の周辺にとどまっており、ジャワ島の農業生産力が増大して人口が増え、文化が発展するとともに交易圏を拡げたと言うことだったと思われる。1389年にハヤム・ウルク王が没してからは再び分裂状態となり、1405年、鄭和が第1回航海でジャワ島に立ち寄ったときは、内戦の最中だったという。15世紀の中ごろからジャワ島の海岸部にもイスラーム教徒が港市を建設するようになり、マジャパヒト王国は内陸においやられ、首都マジャパヒトもいつ頃か放棄されて、地方政権が分立する状態となった。<生田滋他『前掲書』p.-248>
マジャパヒト王国の意義
マジャパヒト王国が注目されるのは、同じ時期に東南アジアのイスラーム化が進んだ中で、ヒンドゥー教を基板とする国家として発展し、インドネシアの民族文化のバティク(ジャワ更紗)、ワヤン=クリ(影絵劇)、ガムラン音楽など、ヒンドゥー=ジャワ文化を完成させたことである。マジャパヒト王国時代に使われていた古代ジャワ語の「ビンネカ・トゥンガル・イカ」は「多様性の中の統一」という意味で、1945年8月17日に独立を宣言したインドネシア共和国の国是として今も掲げられている。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.38>ヒンドゥーからイスラームへ
マジャパヒト王国は、その後も元および明に朝貢を続けながら、存続した。15世紀にはマラッカ海峡を押さえたマラッカ王国が台頭し、東南アジア海域の交易をめぐって抗争するようになった。マラッカ王国はジャワ島東部を拠点とするイスラーム教国であったが、マジャパヒト王国はイスラーム化することなく、ヒンドゥー教国であり続けた。しかし、16世紀になると急速に衰退し、1520年に滅亡した。代わって同じジャワ島の中部、ジョグジャカルタを首都とし、稲作を基盤とするイスラーム教を奉じるマタラム王国が成立すると、次第にイスラーム教が優勢になり、ヒンドゥー教は劣勢となっていく。このマタラム王国は18世紀にオランダに征服され、ジャワ島における最後の土着国家となった。