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元の滅亡

元は内紛で衰退。白蓮教徒の乱が起こり、1368年に明が建国される。

 ではフビライの死去(1294年)以後、その孫の6代成宗(テムル)が13年統治した後急死し、子がなかったのでまた帝位継承で問題が起き、7代には甥のカイシャン(武宗)が即位、それも数年で死去したため兄弟の8代アユルバルワダ(仁宗)が継承、次は子のシディバラ(英宗)となった。これらの皇帝位の継承をめぐって皇太后などの介入がしばしば事態を複雑にし、争いが絶えなかった。最後の皇帝順帝が即位するまでの40年間に9人の皇帝が交替し、激しい権力闘争は政治不安を増していった。特に仁宗・英宗の時代(1311~23年)は官僚が台頭し、科挙の一時的復活など、中国風の統治が強まる一方、チベット仏教が過剰に保護された。宮廷の奢侈生活のために交鈔が濫発され、インフレ(物価上昇)が続いて、民衆生活は苦しくなっていた。

紅巾の乱と朱元璋

 そのような社会不安の強まる中、1351年白蓮教徒という宗教秘密結社が蜂起し、それが紅巾の乱という全国的な反乱につながった。紅巾の乱の中から生まれた朱元璋の勢力は、紅巾の乱を鎮定した後、1368年に南京で明を建国し、同年、大軍によって大都を攻撃、元の皇帝順帝(トゴンテムル)は大都を放棄し北上したが上都(夏の都)も陥落し、元は中国を支配する王朝としては滅亡した。モンゴル討伐の明軍はさらに山西、陝西方面からもモンゴル軍を一掃し、1370年に南京に凱旋した。モンゴル高原に引き下がったモンゴル人は「北元」を称し、明にとってあなどりがたい存在として存続する。

黒死病流行と災害

 元の最後の皇帝となった順帝(ドゴンテムル)の統治は37年間(1333~1370年)に及んだ。その治世は、権力闘争と民衆反乱、淫蕩な宮廷生活といったパターンで捉えられがちであるが、元末を腐敗と暗黒の時代であったとして描くのは明朝で作られた公式記録によって誘導されており、それらは多分に元の支配を異民族支配として否定する「中華思想」に毒された思い込みである面が色濃い。元末の中国でめだつのは、元朝の政治の失敗よりも、疫病の流行や天災が続いたことであった。
(引用)1340年代に入って、「大天災」はいっそう高まった。ユーラシアの西半では「黒死病」(いわゆるペスト)が、ジョチ=ウルス(引用者注、キプチャク=ハン国)のクリミア半島からシリア、エジプト、ヨーロッパを襲う。ヨーロッパでは、4000万を超す人々が倒れたとされる。チャガタイ=ウルス(チャガタイ=ハン国)の本拠イリ渓谷の疫病も、おそらくは黒死病とされる。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』下 講談社現代新書 p.219>
 1342年(至正2年)以降、黄河は大氾濫を繰り返し、河南・山東・淮北が荒廃した。黄河の治水工事に疲弊した民衆を徴用したために、民衆の心をとらえた白蓮教教団による武装反乱から紅巾の乱が起こった。これら「紅巾」と総称される反乱軍は互いの連絡を欠いていたため鎮圧されたが、その鎮圧に当たった武装勢力も各地に乱立し、混乱が拡大した。
 そのため江南から海運と大運河によって輸送される食糧と物資が大都・上都の首都圏に届かなくなった。特に江南からが入らなくなったことによって、元朝を支えた塩専売制の収入が激減したことと、杭州・蘇州・揚州・泉州・広州などの江南諸都市からの商税が杯らか無くなったことが大きかった。これはフビライが作りだした塩専売と商税という中央財政の二本柱が揺らぎ、元朝の統治システム全体が機能しなくなったことを意味していた。<杉山正明『同上書』 p.220>

元朝滅亡の実際

 元朝にとっては江南の武装勢力の反乱を鎮圧して、江南からの食糧・物資を確保することは急務であった。そこで元朝の実権を握っていた執政のトクトはモンゴル貴族軍団を大動員して南征にとりかかった。それを恐れた反乱勢力には降伏する動きもあったが、このとき皇帝順帝とその周辺は、トクトがその勢いで帝位を奪おうとしているのではないかと恐れ、南伐軍指揮官の職を解き、陣中でトクトを捉えてしまった。元朝の南伐軍はこのために自壊して撤退、勢力を温存できた朱元璋は、1368年に南京で自ら皇帝と宣言して明を建国した。
 朱元璋の明軍が大都に迫ると、順帝はモンゴル軍閥に来援を要請したが、諸軍は動かず、8月、やむなく大都を放棄して内モンゴルに逃れた。大都は明軍の略奪・暴行・破壊に晒され焼け落ちた。
(引用)これをもって、中国史では「元朝滅亡」と言う。そして、少なくとも中国本土では、明朝が揺るぎなく確立したしたかのように言われがちである。だが、それは中国伝統の「王朝史観」の産物にすぎない。明朝にはいまだ、漢族士大夫層の人々は出仕しようとはしなかった。長続きするかどうか、疑問視されたからである。これ以後およそ20年間、北の大元ウルスと南の大明政権とは、華北を間において拮抗状態となった。一種の「南北朝」の形と見て良い。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』下 講談社現代新書 p.223>

その後の大元ウルス

 順帝は1370年に死去、アユシリダラが大カーン(大カアン)を継承し、旧都カラコルムを本拠に、モンゴル高原・マンチュリア・甘粛・チベット・雲南などを勢力下に置き明を圧迫した。
 1378年、大カーンが死去、弟トクズ・テムルがその地位を嗣ぎ、1387年、明朝打倒の大攻勢をかけるため、東部モンゴリアのジャライル国王家ナガチュと連携して南下を開始した。ところが、おりからモンゴリアでは食糧不足が深刻になり、ナガチュが単独で明軍に降るという事態となった。勢力が半減したトクズ・テムル軍は1388年、明軍に急襲されて壊滅、トクズ・テムルはアリクブケの後裔イスデルに殺害された。これが元王朝(フビライ王朝)の断絶である。
 モンゴル高原では1392年ごろ、イスデルが大カーンとなり、その後さまざまなチンギス=ハンの後裔が選ばれ、いずれも「大元カーン」(大元カアン)と称していく。大元カアンはモンゴルでは「ダヤン・カアン」と発音される。
(引用)モンゴル系の諸勢力はユーラシアの各地に残り、その後の新しい歴史を刻んでいった。しかし、世界帝国としてのモンゴルは、歴史の表面から消え失せた。ただし、それは、はっきりいつ倒れたとは言いにくい。14世紀後半のさまざまな変転の中で、統合力が徐々に薄らぎ、かなりの時の幅を持って次第にフェイドアウトし、解体していったのだった。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』下 講談社現代新書 p.225>
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