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キルワ

アフリカ東岸でインド洋交易圏に面した島。ムスリム商人の交易拠点として、12世紀ごろ全盛期となった。スワヒリ文化の中心地でもあった。

 現在のタンザニアの南部、インド洋に面した海岸ちかくにある小島。キルワ・キシニワともいい、その対岸の大陸側の都市がキルワマソコ。8世紀以降にムスリム商人の活動拠点の一つとして、アフリカ内陸産の金や象牙、奴隷とインド方面からもたらされる中国の絹や陶磁器などの交易の中心地の一つとして繁栄した。
 この地に伝えられる『キルワ王国年代記』というアラビア語で書かれた文献には、ペルシアのシーラーズから王侯たちが7隻の船に乗ってやってきてキルワの町を築いたという伝承が記されている。キルワ王国はソファラからもたらされた金や象牙、奴隷などの交易などで繁栄し、14世紀のイブン=バットゥータが来訪したことが『三大陸周遊記』に記されている。

スワヒリ文化

 インド洋に面したキルワは紀元前後から季節風を利用するインド洋交易圏の港市として栄えた。8世紀ごろからイスラーム勢力が及び、ムスリム商人による黒人奴隷貿易が行われるようになり、アラブ人やペルシア人との文化の交流、混血が進んだ。その過程で在来の文化が外来の文化を受容し、スワヒリ語に代表されるスワヒリ文化が12世紀ごろに成立した。
(引用)スワヒリ諸都市の中でも、とくに現在のタンザニア南部にあるキルワは、12世紀末に現在のジンバブエの産金地帯と、海岸のスーファーラ(ソファラ)を結ぶ長距離交易路を支配するようになり、重要な交易都市に成長し、14世紀には東アフリカ最大の都市として全盛期を迎えた。このことは『キルワ年代記』や考古学調査の結果からもうかがうことができる。とくに遺跡からの出土品には、貨幣、子安貝、イスラーム陶器、ガラス器、ビーズのほかに宋代の時期が含まれていて、インド洋交易圏でキルワが重要な地位を占めていたことを物語っている。<宇佐美久美子『アフリカ史の意味』世界史リブレット14 1996 山川出版社 p.65-66>

世界遺産 キルワ遺跡群

 キルワの遺跡にある14世紀に建造されたフスニ・クブワという宮殿ないし城砦と考えられる建物は、当時の建築水準の高さを示すスワヒリ建築の代表例である(右図)。
 現在、キルワ・キシワニ島のフスニ・クブワ宮殿跡と大モスクと、キルワ島の南にあるソンゴ・ムナラ島のモスク跡などが、1981年にあわせて世界遺産に登録されている。これらの遺跡はいずれも廃墟となっているが、ポルトガル人の進出する以前に、イスラーム文化の影響を受けながら独自のスワヒリ文化が高度な域に達していたことを示す、貴重な文化遺産となっている。

ポルトガルの植民地支配

 しかし、1498年にポルトガルのバスコ=ダ=ガマ船団の進出以来、キルワ王国の交易権は次第に奪われるようになり、1505年にキルワともに富をもたらしてた金の産地ソファラが、ポルトガルが派遣したアルメイダの指揮する艦隊に占領され、そこにポルトガルの城塞が築かれたために急速に衰え、ポルトガルによる植民地支配を受けることとなった。ポルトガル人によってジンバブエとソファラの金交易ルートが遮断されたため、キルワの繁栄は徐々に失われてゆき、衰退した。
 19世紀にはタンザニア(当時はタンガニーカ)にドイツが進出し、ポルトガルは後退し、ドイツ領東アフリカに組み込まれた。第一次世界大戦でイギリスの委任統治領となり、1961年に独立したタンザニア共和国の一都市となった。
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書籍案内

宇佐美久美子
『アフリカ史の意味』
1996 山川出版社