ムスリム商人/イスラーム商人
イスラーム教徒で商業に従事する人びと。アラビア商人、イスラーム商人。その活動は地中海からアラビア海、インド洋、さらに東南アジ海域を経て中国まで広がり、イスラーム教の広がりをもたらした。
ムスリムとは、イスラーム教の信者のことで、その中で商業に従事する者がムスリム商人(イスラーム商人、アラビア商人ともいう)である。彼らは、7世紀からウマイヤ朝のアラブ=イスラーム帝国の拡大と貨幣経済の発展を背景として、活動の範囲を広げていった。陸路で中央アジアやアフリカ内陸にも進出しただけでなく、特に海上貿易でアラビア海に進出し、インド、さらにはその先の東南アジアや中国との交易を行ったことが重要である。
ペルシア湾ルート が成立した。この交易ルートを軸に、さらにアフリカ内陸でのサハラ交易・中央アジア内陸への陸路と、インド洋・南シナ海などの海路でそのルートを開拓していった。
紅海ルート が盛んになった。この時期のムスリム商人を特にカーリミー商人と称し、彼らの活動はアフリカ東海岸から、さらにアラビア、ペルシア湾、インドを結ぶインド洋交易圏の全域に及んだ。
彼らの活動によって、アフリカ東岸に現地語とアラビア語などが混淆したスワヒリ語が共通語として使用されるようになった。13世紀になるとアッバース朝が衰え、代わってファーティマ朝、マムルーク朝の登場すると、カーリミー商人と言われるカイロを本拠としたムスリム商人が紅海を経由して進出するようになる。インド洋交易では黒人奴隷貿易も行われた。
とくにフビライは、元を通商国家とすることを意図してジャムチという駅伝制を整備したが、そこで活躍したのはムスリム商人であった。また、フビライのもとでムスリム商人はオルトクといわれた一種の会社にあたる商人組織をもち、広範囲な交易に従事した。
ムスリム商人の活動は、ヨーロッパ人が進出する以前から、中国の文明と接触し、双方の交流を深めていたのである。ムスリム商人によってもたらされた胡椒などの香辛料などのアジアの品々は地中海東岸でヴェネツィアなどのイタリア人商人の東方貿易(レヴァント貿易)でヨーロッパにもたらされた。
神秘主義の役割
ムスリム商人の活動範囲が広がることによって、それぞれの地域でイスラーム教に改宗する者も増え、イスラーム圏が拡大していった。その際、現地の人々がイスラーム教を受け入れるには、アラビア語の理解が無くとも感覚的にアッラーと一体感を得られるとするイスラーム神秘主義が有効であった。ムスリム商人の活動とスーフィーの活動は結びついていた。ムスリム商人の主なルート
ムスリム商人の仲介するルートは、8世紀中頃のアッバース朝の成立によりアレクサンドリア-ダマスクス-バグダードを経由し、バスラからペルシア湾を通ってアラビア海に出るムスリム商人のインド洋進出
ムスリム商人は、7世紀から紅海(当時は現在のアラビア海を含む名称であった)一帯の海上貿易に進出し、さらに8世紀後半のアッバース朝時代になるとアフリカ東海岸に進出し、モガディシュ、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワ、モザンビーク、ソファラなどのアフリカ東海岸の海港都市で交易に従事していた。カーリミー商人の活動
10世紀にカイロが建設され、政治・経済の中心が移動すると、カイロから紅海(当時は現在のアラビア海を含む名称であった)を経由してアラビア海に抜けるダウ船とスワヒリ語
彼らがアラビア海で用いた船はダウ船という15~2メートルの木造帆船で、季節風を利用してインドとの交易も行い、さらに東南アジア、中国にも進出した。彼らの活動によって、アフリカ東岸に現地語とアラビア語などが混淆したスワヒリ語が共通語として使用されるようになった。13世紀になるとアッバース朝が衰え、代わってファーティマ朝、マムルーク朝の登場すると、カーリミー商人と言われるカイロを本拠としたムスリム商人が紅海を経由して進出するようになる。インド洋交易では黒人奴隷貿易も行われた。
東南アジアでの活動
ムスリム商人はインド洋交易圏を経て東南アジアにも進出し、東南アジアのイスラーム化をもたらす重要な役割を果たした。13世紀のスマトラ北端にあったサンドラ=パサイ王に始まり、15世紀にマラッカ王国がイスラーム化して、イスラーム教は広く諸島部に広がった。現在でもインドネシアはイスラーム教が最大の宗教となっており、マレーシアや、フィリピンでも多数のムスリムが存在している。中国での交易活動
中国では唐代に内陸の中央アジアと海路を通ってムスリム商人が往来した。イスラーム教徒のアラブ人はそのころ大食(タージー)といわれており、広州にはムスリム商人の居住区として蕃坊も設けられ、市舶司によって管理された。市舶司によって管理された海上貿易は宋、元の時代を通じてさかんになり、泉州などでもさかんに交易が行われた。宋末から元にかけて泉州で活動した蒲寿庚はイスラーム教徒のアラビア人であるが市舶司に任命された。元ではモンゴル人に次ぐ地位として色目人といわれ、政府の高官になったものもいたことが知られている。とくにフビライは、元を通商国家とすることを意図してジャムチという駅伝制を整備したが、そこで活躍したのはムスリム商人であった。また、フビライのもとでムスリム商人はオルトクといわれた一種の会社にあたる商人組織をもち、広範囲な交易に従事した。
ムスリム商人の活動は、ヨーロッパ人が進出する以前から、中国の文明と接触し、双方の交流を深めていたのである。ムスリム商人によってもたらされた胡椒などの香辛料などのアジアの品々は地中海東岸でヴェネツィアなどのイタリア人商人の東方貿易(レヴァント貿易)でヨーロッパにもたらされた。
アジア貿易でのムスリム商人の後退
オスマン帝国が1453年にビザンツ帝国を滅ぼし、東地中海全域の海上交易圏を握ったことは、ヨーロッパ諸国にとって大きな転機をもたらした。イタリア商人は東方貿易から閉め出されたため、西回りでアジアに直接到達して香辛料貿易を行おうとしてポルトガルやスペイン王室を動かし、その保護のもとで大航海時代が始まった。1498年のバスコ=ダ=ガマのインド航路開拓はムスリム人水先案内人イブン=マージドの協力で達成できたものだったが、その後ポルトガルは国家的な事業としてインド・東南アジアの商圏拡大に乗りだし、ムスリム商人と激しく競合するようになった。1509年ディウ沖の海戦でムスリム商人を保護していたマムルーク朝エジプト海軍がポルトガル海軍に敗れたことを転機に、インド洋海上支配権はポルトガルに移り、ムスリム商人の活動全盛期は終わりを告げる。