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シチリア王国/両シチリア王国

ノルマン人がシチリア島と南イタリアに進出して建設した国。1130年にルッジェーロ2世がパレルモで即位、ナポリを中心とする南イタリアも制圧した。シチリアと南イタリアはその後、分離統合を繰り返し、15世紀中頃と19世紀の中ごろの二度、正式に両シチリア王国と称した。

 → 近代の両シチリア王国

ノルマン人の南イタリア進出

 11世紀からノルマン人の活発な海上進出の一環として、ノルマン人の地中海進出も盛んに行われた。その結果として、1130年、ノルマン人のルッジェーロ2世は、シチリア島のパレルモを都として王位についた。ルッジェーロ2世は1140年ごろまでにナポリを中心としたイタリア半島南部を制圧し、ノルマン人を王とする王国がシチリア島からイタリア半島南部にまたがる南イタリアに出現した。
 これをシチリア王国と言っているが、一般に、この時成立した国を、後の両シチリア王国の前身として、このとき「両シチリア王国」が成立したとすることが多い。山川出版社の詳説世界史も、1130年に「両シチリア王国」が成立したと本文にある。

ルッジェーロ2世のノルマン朝

地中海12世紀
12世紀中頃の地中海(高山博『中世シチリア王国』p.103 をもとに作成)
 このシチリア王国は1130年、ノルマン人のルッジェーロ2世が建国したので、その王朝をノルマン朝ともいう。シチリア王国はシチリア島のパレルモを都とした。
(引用)シチリアに王国を築いたノルマン人たちの故郷は、フランス北部のノルマンディ地方にある小さな村である。富を求めて南イタリアへやってきたオートヴィル家の一族は、12世紀にはノルマン・シチリア王国(両シチリア王国)を建国した。そして、そこで、ヨーロッパの君主たちが羨(うらや)む、豊かで華やかな宮廷文化を花開かせたのである。今も残るノルマン王宮の一室には「ルッジェーロ(ロゲリウス)の間」と呼ばれる部屋がある。この部屋の壁画を飾る巨大なモザイク画は、ありし日の華やかだった王宮を偲ばせる。・・・フランスやイギリスから、あるいは、当時イスラム世界の一部であったスペインから、あるいは東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルから、多くの人々がこの王宮を目指してやってきた。ある者はその優雅な宮廷文化に憧れて、ある者は最新の学問成果を会得するために、そしてまた、ある者は立身出世を夢見て、・・・野心と才能を持った多くの人々が、当時は、パレルモの宮廷に引き寄せられていたのである。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.13-14>

シチリア王国成立の意義

 1130年のクリスマスの日、シチリア島のパレルモでルッジェーロ2世の即位式が行われ、シチリア王国が発足した。こうして新しい王国の歴史が始まった。それには次のような歴史的意義が指摘されている。
(引用)南イタリアへの新王国の創設は、西欧の歴史にとっても地中海の歴史にとっても、時代を画する大きな事件であった。西ローマ帝国崩壊以後、南イタリアは、さまざまな民族の支配を受け、ラテン、ギリシア、アラブ文化圏の影響を受けた小国が分立する状態が長く続いていたが、ロゲリウス2世(ルッジェーロ2世)のもとで統合され、強力な君主国を形成するに至った。そして、その君主国は、ここに王国の地位を獲得したのである。
 ・・・ここに生まれた王国は、永続する支配のシステムを持つ強力な国家であった。この王国の出現により、地中海とヨーロッパの国際政治は大きな変化を受けることになる。王国では、哲学から自然科学にいたる重要なギリシア語、アラビア語の書物がラテン語に翻訳され、ビザンツの工芸や建築に関する知識・技術がこの王国を経由してヨーロッパにもたらされた。12世紀シチリアは、西欧が東方のビザンツ文化・イスラム文化を輸入するための窓口の役割を果たすのである。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.86-87>

両シチリア王国のその後

 ルッジェーロ2世は1140年までにイタリア半島南部の叛乱を鎮圧し、ナポリを中心とするイタリア半島南部も含めて、南イタリアに統一的支配権を樹立した。その後、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝とも戦いながら勢力を地中海の周辺に拡張、チュニスも支配下に収め、ビザンツ帝国にも戦いを挑んだ。その都パレルモは多文化が交流する先進都市として繁栄し、中世ヨーロッパの12世紀ルネサンスに大きな影響を与えた。
 1154年にルッジェーロ2世が亡くなると、シチリア王国領の北アフリカがムワッヒド朝に奪われるなど、領土を縮小させたが、グリエルモ1世・2世の時代はアラブ人を登用した官僚制や顧問官制度などで国家は維持された。パレルモを中心とした地中海の交易活動も十字軍時代をつうじて続いた。

参考 異文化集団の共存を支えたものは何か

 ノルマン=シチリア王国ではアラブ・イスラーム文化、ギリシア・東方正教文化、ラテン・カトリック文化が共存していたが、それぞれの文化集団に属する人々が混在していたのではなく、モザイク状に棲み分けていた。彼らは地域的に偏在していただけでなく、社会的立場も異なっており、世俗の領主や教会・修道院の聖職者はラテン系かノルマン系、王に仕える役人はアラブ人、ギリシア人、ラテン系であり、農民たちの多くはシチリアではアラブ人、ギリシア人、イタリア半島部ではギリシア人か南イタリア人であった。それらの文化的背景の異なる集団を、ノルマン人が統合して一つの王国を作り上げていた。
(引用)このような異文化集団の共存を可能にしたのは、この地に住む人々の宗教的・文化的寛容性ではない。強力な王権がアラブ人を必要とし、彼らに対する攻撃や排斥を抑制していたからである。したがって、戦争や争乱のときには必ずと言ってもよいほど、異文化集団に対する略奪や攻撃が行われた。また、王国のアラブ人人口が減少し王権にとってアラブ人が不要になると、アラブ人住民に対する態度も冷淡となった。そして、異文化集団によって支えられた王国の文化的・経済的繁栄も終焉を迎えるのである。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.183-184>

シュタウフェン朝シチリア王国

 ノルマン朝シチリア王国のグリエルモ2世が1189年に継嗣がないまま死去した。シチリア王位継承権を主張したのは、初代ルッジェーロ2世の娘コンスタンツァの夫であるドイツの神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤ヒゲ王)の息子ハインリヒだった。シチリア王国の重臣はそれに反対しルッジェーロ2世の孫のレッチェ伯タンクレディを推したため王位継承問題は紛糾した。1191年、神聖ローマ皇帝となったハインリヒ6世は、1194年、タンクレディが病死したのに乗じ、大軍を率いて半島部を制圧、さらにシチリア島に上陸し、クリスマスの日にパレルモの大聖堂でシチリア王として即位した。これでノルマン朝はとだえ、シチリア王国はハインリヒ6世のシュタウフェン朝に代わったこととなる。
神聖ローマ皇帝兼シチリア王  ハインリヒは1197年、わずか32歳で死去、コンスタンツァとの間の子フリードリヒが残された。神聖ローマ皇帝の位は選挙制だったのでシュタウフェン家の手を離れたが、シチリア王位はパレルモで生まれたわずか3歳のフリードリヒに継承された。成人する過程で彼は1211年にドイツ王、さらに1220年にローマで神聖ローマ皇帝に即位しフリードリヒ2世となった。その間はドイツに滞在したが、ローマで戴冠式を挙行するとドイツ王の地位は息子のハインリヒに委ね、自らはパレルモに帰還し、その後は亡くなるまで神聖ローマ皇帝兼シチリア王としてパレルモで政治を行った。
 フリードリヒ2世(ラテン名はフレデリクス、イタリア名ではフェデリーコ)は、ローマ教皇の十字軍派遣要請に応えなかったので破門されたが、破門の身でありながら第5回十字軍では戦闘を交えず外交交渉でイェルサレムの奪回に成功した。彼は神聖ローマ皇帝という称号を持ちながらパレルモを拠点に、ノルマン=シチリア王国の伝統を継承したシチリア王として、イスラーム教徒の官僚を駆使して合理的な国家運営を行った。ドイツの19世紀の歴史家ブルクハルトは彼を「王座にある最初の近代人」と評している。

シチリア王国の混迷

 しかし、彼の時代にはシチリア島でのイスラーム教徒の叛乱に見られるように異文化共存というシチリア王国の遺産が燃え尽きようとしていた時代でもあった。1250年の彼の死によってシチリア王国の繁栄は終わり、経済的衰退を背景とした政治的混迷が長く続くこととなる。
 13世紀後半はローマ教皇との対立が続く中、1266年にローマ教皇の要請でシチリア攻撃に向かったフランスのアンジュー家のシャルルはパレルモを攻略し、シチリア王国はフランス人の支配を受けることとなった。シチリア島ではフランス人の支配に反発した島民が1282年に蜂起してシチリアの晩祷事件がおこり、干渉してきたスペインのアラゴン王国が支配することなり、事実上シチリア王国はイタリア本土のナポリとパレルモを中心としたシチリアに分裂した。
 1302年にアラゴン王家の支配するシチリア王国が成立、一方のアンジュー家はナポリを中心とした南イタリアのみを支配するナポリ王国となったため、シチリア王国と正式に分離した。
注意 シチリア王国と両シチリア王国 一般に1130年のルッジェーロ2世の建国からシチリア王国はシチリア島とイタリア半島南部の両方を支配していたので「両シチリア王国」というが、実際にこの国号が使われたのは、ずっと後の次の二つの時期のみである。
  • 1442~58年 スペインのアラゴン家のアルフォンソ4世がシチリア王国とナポリ王国を合わせて統治し、正式に「両シチリア王国」 Due Sicilie と称した。
  • 1816~60年 ナポレオン没落後復活したスペイン=ブルボン家が支配した時期。両シチリア王国を称したが、1861年にイタリア王国に統合されて消滅した。

近代の両シチリア王国

1816年、ウィーン会議の結果としてスペイン=ブルボン朝の支配が復活。ナポリ、サレルノで立憲革命起きるも鎮圧される。1860年、ガリバルディによって征服され消滅。シチリア・南イタリアはサルデーニャ王国に編入され、翌年イタリア王国が成立。

両シチリア王国の復活

 ナポレオン没落に伴って1815年に開催されたウィーン会議の結果として締結されたウィーン議定書によって、1816年にナポリ王国のスペイン=ブルボン王朝が復活、フェルディナント1世が即位し、シチリア王国王位を兼ねることとなった。これを一般に両シチリア王国の復活としている。
ナポリのカルボナリ蜂起 両シチリア王国はイタリア半島南部とシチリア島を抑えていたが、ウィーン体制のもとで次第に自由主義、民族主義が高まり、1820年7月にはナポリでカルボナリが蜂起し、国王も憲法制定を認めた。このナポリ立憲革命ともいわれる革命は成功一歩手前まで言ったが、オーストリア軍が介入して鎮圧され、憲法も取り消された。
パレルモの蜂起 シチリア島では本土ナポリへの従属に対しても不満が強まっていった。そのパレルモで、1848年革命の口火を切って暴動が起こった。ミラノ、ヴェネツィア、ローマなどイタリア各地で自由と独立、統一を目指す蜂起があったが、翌年にかけて、オーストリア軍やフランス軍が直接介入してこれらは鎮圧されてしまった。

両シチリア王国の消滅

 18世紀後半、イタリア統一は、サルデーニャ王国を中心に進められていったが、1859年のイタリア統一戦争(第2次イタリア=オーストリア戦争)ではロンバルディアの併合に終わり、不完全に終わった。そのような中、ナポリ、シチリアを抑える両シチリア王国の動向が焦点となっていったが、1860年に、かつて青年イタリアにも所属し、イタリア解放の希望の星と思われていたガリバルディが、千人隊と言われる義勇兵を組織してシチリア島上陸を敢行、シチリア占領に成功し、一気に流れが変わった。ガリバルディはさらにイタリア本土に渡り、ナポリを占領しした。国王フェルディナンド2世は亡命し、両シチリア王国はここに消滅した。
イタリア王国成立 驚いたカヴールは国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世にサルデーニャ軍を率いて急に南下させてガリバルディを権勢、両者は会見してガリバルディが征服地のシチリアと南イタリアをサルデーニャに献上するというかたちで、サルデーニャ王国による併合が成立した。こうしてローマとヴェネツィアなどをのぞくイタリア半島が併合されたことによって、翌1861年にイタリア王国が成立した。
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高山博
『中世シチリア王国』
1999 講談社現代新書