ベネディクト派
ベネディクトゥスの始めた修道士の団体。厳しい戒律を守り、清貧と勤労を旨に神に奉仕する生活を送る修道院運動を進めた。
中世ヨーロッパでのキリスト教の修道会。529年、モンテ=カシノ修道院を創建したベネディクトゥスが定めた修道院の戒律(聖ベネティクトゥス戒律)を守り、キリスト教の信仰を深めることを目的とした修道会。修養とともに熱心に布教活動を行い、その結果、ローマ=カトリック教会が全ヨーロッパに広がることとなった。また、ベネティクト派の修道院運動は、10世紀にはクリュニー修道院、12世紀にはシトー派修道会を生みだした。
修道院で用いられた言語はラテン語であり、修道士は同時にラテン語の文法学者であったので、その活動によって全ヨーロッパにラテン語とラテン文化が広がっていくこととなった。
聖ベネティクトゥス戒律
ベネディクトゥスの定めた戒律では、修道士は「祈り、働け」をモットーとし、「清貧・純潔・服従」を理想とする禁欲生活を送らなければならないとされた。厳しい入所規定に合格したものが2ヶ月の試験期を経てから、さらに6ヶ月の修行の後に誓約して世紀の修道士となる。彼らは修道院長の統制のもとに共同生活を送り、日に4~5時間の祈りと、6~7時間の労働を行う。修道士は生涯をそこで過ごし、その年齢、技能に応じて農耕、園芸、建造、書写などの労働を分担すするなど、厳格な修養を行った。 → 修道院運動ローマ教皇グレゴリウス1世
590年にローマ教皇となったグレゴリウス1世は、ローマ=カトリック教会の首位権をコンスタンティノープル教会と争い、ゲルマン人(特にアングロ=サクソン人)への布教を進める際に、このベネディクト派修道士を用いたので、ローマ教会とベネディクト派修道院は密接な関係を持つこととなった。修道院文化の広がり
ベネディクト派修道士は、グレゴリウス1世のゲルマン人への布教という方針の担い手として、ヨーロッパ各地で活動し、アングロ=サクソン人やゲルマン人などのキリスト教化に大きな働きをした。8世紀のベネディクト会士ボニファティウスはライン川以東の布教を志し、747年にはマインツ大司教区を設けた。またフランク王国のカール大帝は779年に勅令を発し、すべての修道院での修道士、修道女の生活はベネディクト戒律に従うべきことを定めている。修道院で用いられた言語はラテン語であり、修道士は同時にラテン語の文法学者であったので、その活動によって全ヨーロッパにラテン語とラテン文化が広がっていくこととなった。
修道院の最初の苦難
9世紀半ばから10世紀にかけて、フランク王国が分裂し、カロリング朝が衰退すると共にノルマン人の侵入が始まり、イタリアもイスラーム教徒の侵入によってモンテ=カシノも二度にわたって略奪されるなどが続きいた。そのような危機の中、教会と修道院も封建領主化して俗人の支配を受けるようになり、次第に各地の修道院でもベネティクトゥス時代の厳しい戒律が守られなくなっていった。そのような修道院の荒廃に抗して、ベネティクト派の戒律を復興させようとしたのが10世紀に始まるクリュニー修道院による修道院運動(第二波)であった。