プラハ大学
1348年にベーメン(現チェコ)のプラハでカール4世が創建した、ドイツ語圏で最古の大学。15世紀初め、ローマ=カトリック教会を批判したフス派の拠点となる。
中世ヨーロッパで創設された大学の一つで、1348年、神聖ローマ皇帝カール4世が、ベーメン(ボヘミア)の首都プラハに創設した。カール4世はベーメン王を兼ね、ベーメンは領邦の一つであった。
大学設立はベーメン王国のプシュミスル家時代からの夢であり、王位を継承したルクセンブルク家のカール4世がそれを実現したものであったが、ベーメンの貴族たちは大学の設立を歓迎しなかった。というのは授業は彼らにまったく馴染みのないラテン語でおこなわれたからでった。行政官に必要なラテン語を市民が学ぶことで、市民にとって官僚になる可能性が生まれる。それは貴族たちにとって驚異だからだ。カール4世は貴族の反対を押し切り、神聖ローマ皇帝になったことでローマ教皇から大学設立の許可を得ることができ、貴族の反対を押し切った。<田中充子『プラハを歩く』2001 岩波新書 p.81>
プラハ大学は他の中世の大学と同じように、神学を柱に、法学、医学、自由学芸(教養)の四学部で始まった。学生は卒業後にはローマ=カトリック教会によって支配されたすべての国において働く資格が与えられた。1350年代後半になると、国王や有力な聖職者が寄付してマギステル(大学院生)たちの住まいが建てられ、学生も一緒に共同生活を送りながら学問を修めるコレギウム(学寮)が形成された。しかし、カール4世の死語は王位継承の争いと経済の低迷によって反映にかげりが見え始め、大きな変革期を迎える。<田中充子『同上書』 p.82>
しかし、1412年にフスがローマ教皇の贖宥状の発売を批判したことで破門されると、ドイツ王ジギスムントは1414年にコンスタンツ公会議を招集、フスを異端と断定した。それに対してフス派の市民が蜂起して1419年からフス戦争の動乱となった。このときはフス派急進派が敗れ、プラハ大学では人文学部以外が閉鎖され、授業もドイツ語で行われることになった。
しかしベーメンでは1620年のビーラー=ホラの戦いでプロテスタント軍が敗れた結果、プロテスタントは壊滅、プラハ大学も廃校の危機に陥ったが、イエズス会が運営する大学として再出発することとなった。1622年に4学部がそろって復活したが、今度はカトリック教会がイエズス会のプラハ大学乗っ取りを非難し、問題は複雑になっていった。
カレル大学の哲学部には日本学科があり、日本文学・日本文化の研究が盛んである。プラハの街で流ちょうな日本語を話すチェコ人にしばしば出会うが、そのほとんどはカレル大学出身者だ。卒業生の多くは観光ガイドや通訳などをしている。
大講堂には正面にカレル4世(カール4世)がプシュミスル家の祖先、ボヘミアの守護聖人である聖ヴァーツラフに跪いて、大学設立の許可証を差し出しているところが描かれている。その左にはカレル4世のブロンズ像が立っている。
カレル大学は創設時には校舎はなく、講義は修道院や教授の自宅で行われ、入学式や卒業式の式典はプラハ城内の聖ヴィート大聖堂や司教の宮殿が使用された。現在の本部の建物は15世紀初頭に改築されたものだが、地下には13~14世紀のワインセラーが残っている。当初はゴシック様式の建物だったが、1718年にバロック様式に改築され、当初のもので残っているのは中庭の柱廊と礼拝堂のゴシックの張り出しだけである。<田中充子『同上書』 p.80>
カール4世による創設
プラハ大学は、神聖ローマ帝国(ドイツ圏)では最初の大学であった(ちなみに2番目が1365年のウィーン大学、3番目が1386年のハイデルベルク大学)。カール4世は若いころパリに滞在したことがあり、プラハ大学の創設はパリ大学をモデルとして、神学、法学、医学、自由学芸の4学部から構成された。プラハ大学は現在では創設者のカールのチェコ語読みからカレル大学と言われている。大学設立はベーメン王国のプシュミスル家時代からの夢であり、王位を継承したルクセンブルク家のカール4世がそれを実現したものであったが、ベーメンの貴族たちは大学の設立を歓迎しなかった。というのは授業は彼らにまったく馴染みのないラテン語でおこなわれたからでった。行政官に必要なラテン語を市民が学ぶことで、市民にとって官僚になる可能性が生まれる。それは貴族たちにとって驚異だからだ。カール4世は貴族の反対を押し切り、神聖ローマ皇帝になったことでローマ教皇から大学設立の許可を得ることができ、貴族の反対を押し切った。<田中充子『プラハを歩く』2001 岩波新書 p.81>
プラハ大学は他の中世の大学と同じように、神学を柱に、法学、医学、自由学芸(教養)の四学部で始まった。学生は卒業後にはローマ=カトリック教会によって支配されたすべての国において働く資格が与えられた。1350年代後半になると、国王や有力な聖職者が寄付してマギステル(大学院生)たちの住まいが建てられ、学生も一緒に共同生活を送りながら学問を修めるコレギウム(学寮)が形成された。しかし、カール4世の死語は王位継承の争いと経済の低迷によって反映にかげりが見え始め、大きな変革期を迎える。<田中充子『同上書』 p.82>
カトリック教会批判の高まり
1384年に死んだイギリス・オクスフォード大学の神学者ウィクリフの説をめぐって、プラハ大学は支持派と反対派に分かれて大問題となった。ウィクリフは、本当の教会はローマ教皇が君臨する教会組織のことではなく、死後の救済が予定されている人々の集まりそれ自体であり、それは目に見えるようなものではなくあちこちに存在するのだというもので、その考えから財産をもち様々な権力を行使する現世の教会を厳しく批判した。また教会の化体説(パンがキリストの肉となり、葡萄酒がキリストの血となるという聖餐の秘蹟)を大胆に否定した。フスとフス戦争
当時、プラハ大学は4学部とは別に、学生の出身地別で、チェコ・バイエルン・ザクセン・ポーランドの「国民団」の組織があり、大学の基本方針は国民団単位で行われていた。国民団のうちチェコ団はウィクリフを支持し、他の三国民団は反対したが支持派で最も積極的だったのが教授であり、学長も務めたフスであった。また当時、カール4世の後を継いでベーメン王となっていたヴァーツラフ4世も、教会が強大になりすぎたことに不満があったので当初はフス派を支持した。その結果、チェコ団の優位が定まり、それに不満なドイツ人教授の多くは大学を去った。しかし、1412年にフスがローマ教皇の贖宥状の発売を批判したことで破門されると、ドイツ王ジギスムントは1414年にコンスタンツ公会議を招集、フスを異端と断定した。それに対してフス派の市民が蜂起して1419年からフス戦争の動乱となった。このときはフス派急進派が敗れ、プラハ大学では人文学部以外が閉鎖され、授業もドイツ語で行われることになった。
三十年戦争とプラハ大学の苦難
16世紀半ばにはイエズス会によって神学部が再開された。しかし、宗教改革が進むとルター派とカルヴァン派の影響も及んできて、プラハ大学では再びチェック人の自覚とカトリック教会批判が結びついた。カトリックとプロテスタントの共存はしばらく続いたが、新たにベーメン王(後に神聖ローマ皇帝)となったフェルディナント2世が熱心なカトリック信仰をもち、プロテスタントの排除をはかったことから、1618年にベーメンの反乱が開始された。このベーメン(ボヘミア)におけるプロテスタントの反乱が全ヨーロッパをまきこむ三十年戦争の発端となった。しかしベーメンでは1620年のビーラー=ホラの戦いでプロテスタント軍が敗れた結果、プロテスタントは壊滅、プラハ大学も廃校の危機に陥ったが、イエズス会が運営する大学として再出発することとなった。1622年に4学部がそろって復活したが、今度はカトリック教会がイエズス会のプラハ大学乗っ取りを非難し、問題は複雑になっていった。
皇帝の大学に
こうして“プラハ大学は誰のものか”をめぐる対立が続く中、三十年戦争の末期の1648年、新教徒のスウェーデン軍がプラハを攻撃してくると、プラハ大学の教授、学生が結成した“アカデミー軍”が市民の先頭に立って、カレル橋の戦いでスウェーデン軍を撃退した。これを機に大学を皇帝フェルディナント3世の直轄下においてイエズス会と教会が協力して運営する形とする気運が生まれ、プラハ大学は1653年、「カール=フェルディナント大学」を正式名称とする大学として新たな出発をした。プラハ大学は“皇帝の大学”という発足時の性格に立ち返ることによって伝統を維持したと言うことが出来る。<このプラハ大学をめぐる対立については、薩摩秀登『物語チェコの歴史』第7章大学はだれのものか に詳しく述べられている。2006 中公新書>言語問題
こうしてプラハ大学は存続することとなったが、オーストリア帝国に支配される状況の中で、大学でも言語問題が生じてきた。公用語はドイツ語であり、学術研究はラテン語という体制は変わらず、チェック語は二次的なものとされていたが、ナポレオン戦争を境に民族意識、ナショナリズムが台頭する中で、プラハ大学でもチェック語の使用を認めよと言う要求が強まり、1880年の言語令でチェコとモラヴィアの役所と裁判所ではドイツ語とチェコ語の両方を用いることとなり、82年にはプラハ大学がチェコ部とドイツ部に分割されることになった。これは事実上、ドイツ人に不利であった。なぜならば、チェコ人はチェコ語とドイツ語が話せたが、ドイツ人はドイツ語しか話さなかったからである。結局この問題は、第一次世界大戦後にオーストリア帝国が解体され、チェコスロヴァキア共和国が成立して、チェコ語は初めて単一の公用語となってはじめて解決された。現在のプラハ大学
プラハ大学は、現在ではプラハ・カレル大学、あるいは単にカレル大学と言われる。カレル大学は16の学部で構成され、教師の数は約2850人、学生数は約3万700人。日本の大学のように大きな門があって校舎から体育館まで一つの敷地に収まっているのではなく、本部と哲学部は旧市街、法学部はチェフ橋のたもと、医学部はフラハヌィの丘といったように、校舎は街のあちこちに分散している。他のヨーロッパの伝統ある大学とおなじように、街全体が大学なのである。<田中充子『プラハを歩く』2001 岩波新書 p.78 による>カレル大学の哲学部には日本学科があり、日本文学・日本文化の研究が盛んである。プラハの街で流ちょうな日本語を話すチェコ人にしばしば出会うが、そのほとんどはカレル大学出身者だ。卒業生の多くは観光ガイドや通訳などをしている。
大講堂には正面にカレル4世(カール4世)がプシュミスル家の祖先、ボヘミアの守護聖人である聖ヴァーツラフに跪いて、大学設立の許可証を差し出しているところが描かれている。その左にはカレル4世のブロンズ像が立っている。
カレル大学は創設時には校舎はなく、講義は修道院や教授の自宅で行われ、入学式や卒業式の式典はプラハ城内の聖ヴィート大聖堂や司教の宮殿が使用された。現在の本部の建物は15世紀初頭に改築されたものだが、地下には13~14世紀のワインセラーが残っている。当初はゴシック様式の建物だったが、1718年にバロック様式に改築され、当初のもので残っているのは中庭の柱廊と礼拝堂のゴシックの張り出しだけである。<田中充子『同上書』 p.80>