アンセルムス
11世紀のイギリスのカンタベリー大司教。神学研究を深め、普遍論争では実在論を唱えた。スコラ哲学の父とも言われている。カンタベリー大司教としてはノルマン朝のイギリス国王と鋭く対立し、教会の聖職叙任権を主張した。
アンセルムス Anselmus 1033-1109 (聖アンセルムス、カンタベリーのアンセルム)は11世紀のキリスト教神学者としてアベラールなどとともに重要な存在であった。スコラ哲学の重要テーマである普遍論争では、普遍は実在するという実在論を主張した。イタリアに生まれてフランスで修道院生活を送り、招かれてイギリス・カトリック教会の最上位にある首長座カンタベリ大司教となった。しかし、ノルマン朝のウィリアム2世・ヘンリ1世と聖職叙任権をめぐってたびたび対立し、ローマ教皇ウルバヌス2世の支持のもと、教会の叙任権などの権威を守るために闘った。
実在論 」は、中世キリスト教の正統的な理論とされ、トマス=アクィナスに継承されていく。
主著に『モノロギオン』、『プロスロギオン』、『クール・デウス・ホモ(神は何故に人間となりたまひしか)』などがある。
修道士として修行 アンセルムスは1033年、北イタリアのアルプスの麓アオスタで裕福な家に生まれたが、僧職に就こうと志して家をでた。1057年、アルプスのモン=スニ峠を越えてフランスのノルマンディに行き、ル・ベック修道院のランフランクスのもとで修行した。27歳の時、父が死んだため故郷に帰らなければならなかったが、悩んだ末、修道士になる道をえらんだ。熱心に祈りと思索の日々を送り、その説教は信徒をひきつけるようになっていった。そのころ、師のランフランクスはノルマンディー公ウィリアムの信任を受け、1066年にウィリアムがイングランドを征服(ノルマン=コンクェスト)してノルマン朝を開くと、乞われてイギリスに渡ってカンタベリ大司教となった。アンセルムスはル・ベックで研鑽を続け、信仰と理性をどう統合することができるかなどについて『モノロギオン』と『プロスロギオン』の著作を行った。その実績が認められ、1078年にはル・ベック修道院の院長となった。
イギリスに渡る 1087年、ウィリアム征服王が亡くなると第3王子ウィリアムがイングランド王位を継承、カンタベリー大司教ランフランクスによって戴冠しウィリアム2世(赤顔王)となった。ランフランクスがまもなく亡くなると、後任を決めず大司教の収入を国王のものにしようとした。教会も国民も驚き、急ぎアンセルムスにイギリスに渡り、カンタベリー大司教になってほしいと懇願した。アンセルムスは躊躇したが、1092年、ようやくイギリスに渡り、ウィリアム王に面談して諫めた。王はアンセルムス自身が大司教になりたいのだろうと考え、自分が自ら大司教になると言い放ったが、その直後に大病が発覚、あわててアンセルムを大司教に指名した。
カンタベリー大司教 アンセルムスは大司教のしるしの杖を王から授かることを拒否、こまった司教たちは無理やりアンセルムスの手に杖を押しつけて教皇選出を賛美する「テ・デウム」を歌って繕った。ところが王が病から回復したので、アンセルムスはカンタベリー大司教の土地を返還すること、ウルバヌス2世を正統のローマ教皇と認めること(当時対立教皇クレメンス3世と争っていた)、大司教は王によって領主となることを認めるが王は大司教の勧告を傾聴すること、という三条件を国王に認めさせ、1093年9月に正式に就任、12月4日にはヨーク大司教らの補佐で叙階式を挙行した。しかし、国王ウィリアム2世とカンタベリー大司教アンセルムスの対立は明確なものとなった。 → 聖職叙任権の項参照
ウィリアム2世との闘い 国王ウィリアム2世はノルマンディ遠征の費用が必要だったため、アンセルムスに対し、大司教叙任の見返りとして貢納をもとめた。アンセルムスは、それは聖職売買の罪に当たるとして拒否したが、他の司教が(大司教が空位であるとその下の司教たちの収入もなくなるから)応じた方が良いと懇願するので、やむなく銀五百ポンドを献呈した。ウィリアムは予定した額よりはるかに少ないのでそれを突き返した。アンセルムスは聖職売買の罪を免れたことを喜び、返却された銀を困窮者に分配した。このことをウィリアムはアンセルムスが自分に反抗するものとして非常に怒った。
アンセルムスはさらに王に没収された教会の財産の返却を求めた。王はこれをもってアンセルムスの大司教の地位を剥奪することを決心したが、その決心は、イギリスの教会からローマ教皇の勢力を駆逐したいという思惑があった。その頃ローマ教皇は改革派のウルバヌス2世にたいして、叙任権闘争で教皇と厳しく対決したドイツ王ハインリヒ4世が選任したクレメンス3世が対立教皇として存在していた。
妥協の成立 アンセルムスは改革派教皇ウルバヌス2世から大司教の印であるパリウム(肩掛け)を授けられることを願い、ローマに行くことを王に申し入れた。それに対して王は、ウルバヌス2世は正統な教皇として認められないと拒否した。アンセルムスは教会会議を招集して司教たちの意見を聞いたが、司教たちは王の意向を支持した。しかし貴族たちの中にはアンセルムスを支持する声も多かった。アンセルムスは判断に困り、使節をローマに送り教皇ウルバヌス2世に判断を仰いだ。ウルバヌス2世はウィリアム王との全面対決を避けるため、ウルバヌス2世を教皇と認める代わりに、パリウムを直接アンセルムスの肩にかける儀式は行わず、教会の祭壇においた教皇の贈物として受け取る、という妥協案を示した。ウィリアムがその提案を受け入れ、1095年5月27日、儀式が執り行われ、アンセルムスはイギリスの首座大司教にしてカンタベリー大司教であることを、正式に国王からも教皇からも承認された。この年1095年11月のクレルモン宗教会議で、ウルバヌス2世は十字軍運動を提唱した。
最初のイギリスからの追放 アンセルムスは大司教として管区の司教を選挙し任命しようとした。しかし国王はその任命を否定した。アンセルムスはふたたびローマに赴き教皇の判断を得たいと願い出たが、国王はそれも拒否した。やむなくアンセルムスは大司教としてではなくイギリスを離れることを決意し、ドーヴァーまでいくと、そこに待ち構えた王の使節はアンセルムスが教会の財物を持ち出していないことを確認して、一緒に大陸に渡った。そこでアンセルムスは大司教の任を解かれたこと、再びイギリスには戻れないとの王令がだされたことを知った。それはアンセルムスのイギリス追放の通告だった。アンセルムスは途中のクリュニー修道院などを訪ねながらアルプスを越えた。24歳の時に南から越えたアルプスを北から越えたのは64歳になっていた。ウルバヌス2世の元で著作に励み、宗教会議に出席して東方教会の代表との間で聖霊の発出に関する論戦にも挑んだ。しかし、ウルバヌス2世は十字軍運動を進めるためにはイギリス国王との対立はせけなければならないと考え、カンタベリ-大司教の任命問題には触れようとしなかった。
二度目の追放 ウルバヌス2世が1099年に没し次の教皇に選出されたパスカーリス2世は、アンセルムスが追われたままベリー大司教が空位であることをようやく問題視し、ウィリアム2世を破門にする決心をした。ところがほとんど時を同じくして王は狩りのさなかに流れ矢にあたって非業の死をとげ、弟のヘンリ1世が即位、新王はアンセルムスをカンタベリーに呼び戻した。ヘンリ1世はノルマンディに残った兄ロベールと対立しており、アンセルムスとの間は初めは対立を避けたので円滑だった。しかしまもなくヘンリ1世はまたもやカンタベリー大司教は自分の臣下であるから改めて叙任し、誠忠を求めると言い出し、アンセルムスは教会の立場として王の叙任をに受けることはできず拒絶した。それぞれが特使をローマ教皇のもとに送ったが決着がつかず、アンセルムスは再び自らローマに赴き教皇に訴えた。そして教皇の「ヘンリ王の父が持っていた特権(司教に忠誠を誓わせること)は認めるが、司教叙任権はあくまで教会にある」との確言を得てイギリスに戻ろうとした。そこに国王からの使者が来て、前回と同じくアンセルムスの帰国を認めず、その全財産は没収するという知らせが届いた。これが二度目の追放である。
政教協約の成立 その後も王は使者をたびたびローマに派遣したが教皇パスカーリス2世は大事をとって国王自身を破門にすることは避け、その王を誤らせているのは臣下であるとして、臣下を破門にするだけに留まっていた。そのうち王の姉アディラ伯夫人は兄とアンセルムスの対立を憂慮して間を取りなし、二人はレーグルで会見することになった。この会見で王は一、二を除いてほとんど全面的に譲歩し、司教叙任は教会にあることを承認し、そのかわりに司教も他の臣下と同様に王と国家に忠誠を誓うことを求め、アンセルムスもそれを認めた。そのうえで1106年9月、アンセルムスはイギリスに戻り、イギリスの国憲上の重大問題でもあるこの件についての調停を続けた。それはヘンリ1世がノルマンディーとの戦争が終わった1107年8月11日、次のようなイギリスの国家と教会との政教条約(コンコルダート)として成立した。
大陸ではウルバヌス2世の十字軍運動の提唱を境に、教皇と国王(皇帝)の間に妥協の動きが強まった。そこでは両者が頑なに聖職叙任権を主張するのではなく、聖職者の権限を聖的なことと政治的なことに分け、聖的な権限については教会(その頂点にある教皇)が叙任権を含めて権限を持ち、政治的な面では聖職者も他の臣下と同じように国王の権限に従う、という考え方が主流となっていった。そのような考え方に従い、1122年にヴォルムス協約が成立する。これは世俗の政治権力側が聖職叙任権を放棄した点が重視されているが、いわば妥協の産物であり、イギリスのカンタベリー大司教アンセルムスがイギリスで実現した成果と同様なことであった。
スコラ哲学の父
キリスト教の信仰をプラトンやアリストテレスの哲学によって、理性的に論証しようと試みた。その思想は、スコラ学の初期の神学思想を形成したとして、「スコラ哲学の父」と言われている。普遍論争における彼の「普遍は個に先だって実在する」という「主著に『モノロギオン』、『プロスロギオン』、『クール・デウス・ホモ(神は何故に人間となりたまひしか)』などがある。
聖職叙任権をめぐるイギリス王との闘い
アンセルムスは高校世界史では「中世哲学の普遍論争で実在論を主張し、スコラ哲学の父といわれる」として出て来る。もっぱら文化史上の事項としてしか扱われない。たしかに、普遍論争そのものも重要であるが、彼はイギリスの首長座であるカンタベリー大司教を務めており、イギリスのノルマン朝の国王と聖職叙任権をめぐって激しく闘った(地位を賭けた言論上の闘い)人物であった。叙任権闘争というとローマ教皇と神聖ローマ皇帝(ドイツ王)との間の闘争と思いがちだが、イギリスでも同時期に展開されていたのだ。そのことを知る上でも、やや詳しく、アンセルムスの生涯を追ってみよう。<以下、アンセルムス・長沢信寿訳『プロスロギオン』1942 岩波文庫 長沢氏解説「聖アンセルムス その生涯」/フリシュ・野口洋二訳『叙任権闘争』2020 ちくま学芸文庫などより構成>修道士として修行 アンセルムスは1033年、北イタリアのアルプスの麓アオスタで裕福な家に生まれたが、僧職に就こうと志して家をでた。1057年、アルプスのモン=スニ峠を越えてフランスのノルマンディに行き、ル・ベック修道院のランフランクスのもとで修行した。27歳の時、父が死んだため故郷に帰らなければならなかったが、悩んだ末、修道士になる道をえらんだ。熱心に祈りと思索の日々を送り、その説教は信徒をひきつけるようになっていった。そのころ、師のランフランクスはノルマンディー公ウィリアムの信任を受け、1066年にウィリアムがイングランドを征服(ノルマン=コンクェスト)してノルマン朝を開くと、乞われてイギリスに渡ってカンタベリ大司教となった。アンセルムスはル・ベックで研鑽を続け、信仰と理性をどう統合することができるかなどについて『モノロギオン』と『プロスロギオン』の著作を行った。その実績が認められ、1078年にはル・ベック修道院の院長となった。
イギリスに渡る 1087年、ウィリアム征服王が亡くなると第3王子ウィリアムがイングランド王位を継承、カンタベリー大司教ランフランクスによって戴冠しウィリアム2世(赤顔王)となった。ランフランクスがまもなく亡くなると、後任を決めず大司教の収入を国王のものにしようとした。教会も国民も驚き、急ぎアンセルムスにイギリスに渡り、カンタベリー大司教になってほしいと懇願した。アンセルムスは躊躇したが、1092年、ようやくイギリスに渡り、ウィリアム王に面談して諫めた。王はアンセルムス自身が大司教になりたいのだろうと考え、自分が自ら大司教になると言い放ったが、その直後に大病が発覚、あわててアンセルムを大司教に指名した。
カンタベリー大司教 アンセルムスは大司教のしるしの杖を王から授かることを拒否、こまった司教たちは無理やりアンセルムスの手に杖を押しつけて教皇選出を賛美する「テ・デウム」を歌って繕った。ところが王が病から回復したので、アンセルムスはカンタベリー大司教の土地を返還すること、ウルバヌス2世を正統のローマ教皇と認めること(当時対立教皇クレメンス3世と争っていた)、大司教は王によって領主となることを認めるが王は大司教の勧告を傾聴すること、という三条件を国王に認めさせ、1093年9月に正式に就任、12月4日にはヨーク大司教らの補佐で叙階式を挙行した。しかし、国王ウィリアム2世とカンタベリー大司教アンセルムスの対立は明確なものとなった。 → 聖職叙任権の項参照
ウィリアム2世との闘い 国王ウィリアム2世はノルマンディ遠征の費用が必要だったため、アンセルムスに対し、大司教叙任の見返りとして貢納をもとめた。アンセルムスは、それは聖職売買の罪に当たるとして拒否したが、他の司教が(大司教が空位であるとその下の司教たちの収入もなくなるから)応じた方が良いと懇願するので、やむなく銀五百ポンドを献呈した。ウィリアムは予定した額よりはるかに少ないのでそれを突き返した。アンセルムスは聖職売買の罪を免れたことを喜び、返却された銀を困窮者に分配した。このことをウィリアムはアンセルムスが自分に反抗するものとして非常に怒った。
アンセルムスはさらに王に没収された教会の財産の返却を求めた。王はこれをもってアンセルムスの大司教の地位を剥奪することを決心したが、その決心は、イギリスの教会からローマ教皇の勢力を駆逐したいという思惑があった。その頃ローマ教皇は改革派のウルバヌス2世にたいして、叙任権闘争で教皇と厳しく対決したドイツ王ハインリヒ4世が選任したクレメンス3世が対立教皇として存在していた。
妥協の成立 アンセルムスは改革派教皇ウルバヌス2世から大司教の印であるパリウム(肩掛け)を授けられることを願い、ローマに行くことを王に申し入れた。それに対して王は、ウルバヌス2世は正統な教皇として認められないと拒否した。アンセルムスは教会会議を招集して司教たちの意見を聞いたが、司教たちは王の意向を支持した。しかし貴族たちの中にはアンセルムスを支持する声も多かった。アンセルムスは判断に困り、使節をローマに送り教皇ウルバヌス2世に判断を仰いだ。ウルバヌス2世はウィリアム王との全面対決を避けるため、ウルバヌス2世を教皇と認める代わりに、パリウムを直接アンセルムスの肩にかける儀式は行わず、教会の祭壇においた教皇の贈物として受け取る、という妥協案を示した。ウィリアムがその提案を受け入れ、1095年5月27日、儀式が執り行われ、アンセルムスはイギリスの首座大司教にしてカンタベリー大司教であることを、正式に国王からも教皇からも承認された。この年1095年11月のクレルモン宗教会議で、ウルバヌス2世は十字軍運動を提唱した。
最初のイギリスからの追放 アンセルムスは大司教として管区の司教を選挙し任命しようとした。しかし国王はその任命を否定した。アンセルムスはふたたびローマに赴き教皇の判断を得たいと願い出たが、国王はそれも拒否した。やむなくアンセルムスは大司教としてではなくイギリスを離れることを決意し、ドーヴァーまでいくと、そこに待ち構えた王の使節はアンセルムスが教会の財物を持ち出していないことを確認して、一緒に大陸に渡った。そこでアンセルムスは大司教の任を解かれたこと、再びイギリスには戻れないとの王令がだされたことを知った。それはアンセルムスのイギリス追放の通告だった。アンセルムスは途中のクリュニー修道院などを訪ねながらアルプスを越えた。24歳の時に南から越えたアルプスを北から越えたのは64歳になっていた。ウルバヌス2世の元で著作に励み、宗教会議に出席して東方教会の代表との間で聖霊の発出に関する論戦にも挑んだ。しかし、ウルバヌス2世は十字軍運動を進めるためにはイギリス国王との対立はせけなければならないと考え、カンタベリ-大司教の任命問題には触れようとしなかった。
二度目の追放 ウルバヌス2世が1099年に没し次の教皇に選出されたパスカーリス2世は、アンセルムスが追われたままベリー大司教が空位であることをようやく問題視し、ウィリアム2世を破門にする決心をした。ところがほとんど時を同じくして王は狩りのさなかに流れ矢にあたって非業の死をとげ、弟のヘンリ1世が即位、新王はアンセルムスをカンタベリーに呼び戻した。ヘンリ1世はノルマンディに残った兄ロベールと対立しており、アンセルムスとの間は初めは対立を避けたので円滑だった。しかしまもなくヘンリ1世はまたもやカンタベリー大司教は自分の臣下であるから改めて叙任し、誠忠を求めると言い出し、アンセルムスは教会の立場として王の叙任をに受けることはできず拒絶した。それぞれが特使をローマ教皇のもとに送ったが決着がつかず、アンセルムスは再び自らローマに赴き教皇に訴えた。そして教皇の「ヘンリ王の父が持っていた特権(司教に忠誠を誓わせること)は認めるが、司教叙任権はあくまで教会にある」との確言を得てイギリスに戻ろうとした。そこに国王からの使者が来て、前回と同じくアンセルムスの帰国を認めず、その全財産は没収するという知らせが届いた。これが二度目の追放である。
政教協約の成立 その後も王は使者をたびたびローマに派遣したが教皇パスカーリス2世は大事をとって国王自身を破門にすることは避け、その王を誤らせているのは臣下であるとして、臣下を破門にするだけに留まっていた。そのうち王の姉アディラ伯夫人は兄とアンセルムスの対立を憂慮して間を取りなし、二人はレーグルで会見することになった。この会見で王は一、二を除いてほとんど全面的に譲歩し、司教叙任は教会にあることを承認し、そのかわりに司教も他の臣下と同様に王と国家に忠誠を誓うことを求め、アンセルムスもそれを認めた。そのうえで1106年9月、アンセルムスはイギリスに戻り、イギリスの国憲上の重大問題でもあるこの件についての調停を続けた。それはヘンリ1世がノルマンディーとの戦争が終わった1107年8月11日、次のようなイギリスの国家と教会との政教条約(コンコルダート)として成立した。
(引用)司教は王からも他のいかなる俗人からも杖と指輪で叙任されてはならない。他方、司教叙階は、選出された者が王に封とひきかえに封臣の宣誓をしないうちは行われてはならない。<フリシュ『叙任権闘争』p.217>その死と叙任権闘争のその後 アンセルムスがイギリスに戻ってから、新しい問題としてヨーク大司教トーマスがカンタベリー大司教の優位を認めないと言い出したが、アンセルムスはローマ教皇にその裁定を委ね、その決定に従わなければ聖務執行の停止をすることをトーマスに言い送った。ローマ教皇の裁定はアンセルムスを正当とするものであったが、その回答が到着する前の1109年4月21日の朝、死去した。
大陸ではウルバヌス2世の十字軍運動の提唱を境に、教皇と国王(皇帝)の間に妥協の動きが強まった。そこでは両者が頑なに聖職叙任権を主張するのではなく、聖職者の権限を聖的なことと政治的なことに分け、聖的な権限については教会(その頂点にある教皇)が叙任権を含めて権限を持ち、政治的な面では聖職者も他の臣下と同じように国王の権限に従う、という考え方が主流となっていった。そのような考え方に従い、1122年にヴォルムス協約が成立する。これは世俗の政治権力側が聖職叙任権を放棄した点が重視されているが、いわば妥協の産物であり、イギリスのカンタベリー大司教アンセルムスがイギリスで実現した成果と同様なことであった。