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タウングー朝/トゥングー朝

16世紀にビルマを統一したビルマ人の王朝。モン人との対立が続き17世紀には衰退した。

 タウングー(トゥングーとも表記する)朝(1531~1752)は、ビルマの歴史上、パガン朝について二度目の統一王朝。都は下ビルマのタウングーから、ペグーを経て上ビルマのアヴァに遷った。16世紀後半にはタイ、ラオスまで勢力を伸ばし、東南アジアで大きな勢力を持ったが、17世紀以降は、国内ではビルマ人とモン人の対立、イギリス・オランダの外圧などによって次第に衰えた。

ビルマの再統一

 ビルマ人の国、パガン朝が元の侵攻を受けて衰退、13世紀後半に滅亡した後、ビルマは、タウングー(トゥングーとも表記する)を中心としたビルマ人の勢力と、イラワディ川下流下のペグー(バゴー)のモン人の勢力、さらに上ビルマのシャン人(タイ系)の勢力の三つに分裂し、抗争していた。
 ビルマ人のタビンシュエティー王は1531年にタウングー朝を創建し、ビルマ統一に乗り出した。1538年には、イラワディ川下流域のモン人ペグー朝を攻撃、交易と仏教の中心地として栄えていたペグーを占領、1544年には上ビルマも平定してパガンで戴冠し、さらに1546年にはペグーで統一ビルマの王として即位した。

タウングー朝の発展と衰退

 第二代のバインナウン王(在位1551-81)王の時、チェンナイ、アユタヤ、ビエンチャンなどを征服し、現在のタイラオスにまでその版図を広げた。このころ都のペグーは王の仏教保護によって寺院が建設され、最も栄えた。しかし、外征に動員された農民に負担がかかり、次第に農村が荒廃して内紛が激しくなり、征服地もまもなく失われた。それまでビルマ人とモン人の融和政策がとられていたが、その対立も再び起こってきた。
 17世紀になると、イギリスとオランダがビルマに進出し、ペグーなどに商館を設けて通商を求めてきた。それに対して国力を消耗していたタウングー朝の王は、都を内陸のアヴァに移して外国勢力との接触を断ち、鎖国政策をとった。下ビルマではモン人の反乱を起こし、ペグーを占領するなど、外圧とともにタウングー朝の衰退を早めることとなった。1752年、タウングー朝は都アヴァをモン人の武装勢力に攻撃されて陥落、滅亡した。ビルマは再び分裂したが、1757年にアラウンパヤーコンバウン朝によって三度目の統一期を迎える。

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