インド帝国
1877年、イギリスのヴィクトリア女王を皇帝として成立した植民地帝国。インド大反乱を鎮圧した1858年、東インド会社を解散させると共にムガル帝国を滅ぼし、実質的にインド直接統治を開始していたイギリスが、ヴクトリア女王がインド皇帝を兼ねる形を採ってその支配を完成させた。
イギリスのインド植民地支配は、1857年のインド大反乱の勃発で大きく揺らいだが、ようやく鎮圧に成功すると、1858年8月に「インド統治法」を制定し、従来の東インド会社を通しての間接統治から、イギリス国王が直接統治を行う体制に改めた。これがイギリスによるインド統治の実質的な開始であり、そのことは同年11月1日のヴィクトリア女王の宣言によって明らかにされた。ヴィクトリア女王の宣言は次のような内容であった。 → イギリスのインド植民地支配
インドのデリーで行われたヴィクトリア女王のインド皇帝としての戴冠式の様子は、インド総督のリットン卿からロンドンの女王に次のように報告された。
このイギリスの植民地支配は、1947年のインド・パキスタンの独立まで続くが、その間、インドの民族運動が次第に強まっていく。
インド帝国の周辺 イギリス帝国主義はインド周辺への強硬策をとり、翌1878年には第二次アフガン戦争をしかけ、戦闘では敗れながら外交交渉によってアフガニスタンを保護国化している。ビルマに対しても19世紀前半から圧力をかけており、1885年の第3次ビルマ戦争を起こし、翌年インド帝国に併合した。なおネパールは1815年に実質的に保護国化しており、スリランカ(セイロン島)も1815年にウィーン議定書で領有している。
2023年、イギリスでチャールズ国王の戴冠式が行われたとき、巨大なダイヤモンドで飾られた王冠が使われるのではないか、とひとしきり話題になった。このイギリス王室の王冠を飾るダイアモンドがインド産であり、かつてインドを植民地支配したイギリスの王室の所有になっていることはよく知られている。このダイヤモンドは「コ・イ・ヌール」あるいは「コーヒヌール」というのだそうだが、それがイギリス国王のものになったのにはどのような経緯があったのだろうか。単純に想像すれば、インド大反乱でムガル皇帝を退位させたイギリスが、直接奪い取ったと思いがちだが、実はそうではないようだ。ちょっと複雑な経緯があるのだが、世界史の勉強にもなりそうなので、述べてみよう。
ムガル帝国 このダイヤの原産地ははっきりしないが、おそらくインドのビシャプール鉱山だろう。18世紀以後、ブラジルやアフリカでダイアモンド鉱が発見されるまで、世界ではその産地はインドしか知られていなかった。早くも『マハーバーラタ』にこのダイヤが出てくるらしいですが、これはおそらく伝説に過ぎないでしょう。たしかなところはムガル帝国初代のバーブルが戦利品として所有したことが『バーブル・ナーマ』にでており、それ以来ムガル皇帝の所有する宝物となったことだ。その第5代皇帝シャー=ジャハーン(そう、あのタージ=マハルを造営した人)はなんとそのダイヤを自分の玉座の装飾にはめ込んだ。この豪勢な玉座は「クジャクの玉座」という。
ナーディル=シャー そのダイヤを狙っている男がいた。それが隣国イランでアフシャール朝を建国して意気の上がるナーディル=シャー。彼は1739年、一気にムガル帝国に攻め込んだ。そのころムガル帝国は全盛期の皇帝アウラングゼーブも亡くなり、落日の一途を辿っていた。ナーディル=シャーは難なく都デリーに入城して略奪に励む。もちろん狙いはあのダイヤだ・・・というのは想像の域を出ないが、ナーティル=シャーは玉座そのものには目をくれずに破壊してはめ込んであったダイヤを抜き取り、意気揚々と引き上げた。デリーに居座って支配しようとした形跡はないので、どうやら目的はこのダイヤだったようだ。もっともこのとき、デリーでは2万とも3万ともいう人が虐殺されているから、この上ない迷惑な話です。これによって、もはや皇帝の権威は完全に失墜し、インド各地に独立政権が生まれ、さらにイギリス・フランスによる蚕食がはじまり、ムガル帝国は滅亡に向かっていった。
ドゥッラーニー朝 ナーディル=シャーが「これは光の山だ!」と感嘆したことから、「光の山」を意味するペルシア語で「コ・イ・ヌール」と言われるようになったこのダイヤはその後どうなったか。アフシャール朝も長続きせず、アフガン人の軍人アフマド=シャー=ドゥッラーニーが興したドゥッラーニー朝に取って代わられた。この王朝でもすさまじい権力闘争が繰り返されたが、それがダイヤの所有権をめぐっての争いだったわけではないだろうが、結局分裂し、敗れた一方がダイヤを握りしめたまま、インドのパンジャーブに亡命、そこを治めていたシク王国の王に命と引き換えに譲り渡した。
シク王国 このシク王国は、1799年にランジット=シンが建国、パンジャーブ地方でラホールを都に勢力を強めていたが、いよいよインド植民地支配を拡大しつつあったイギリスの侵攻に脅かされるようになっていた。1845年から2次にわたるシク戦争を戦ったが、ついに1849年に降伏、これでイギリスのインド支配はほぼ完成した。このとき、シク王国のわずか10歳の国王ドゥリープ=シングは降伏文書に署名、降伏の証しとて「コ・イ・ヌール」をヴィクトリア女王に献上しただったのだ。
イギリス王室へ こうしてこの巨大なダイヤモンドはイギリス王室のものとなった。1857年、インド大反乱を鎮圧したイギリスは、ムガル帝国の最後の皇帝を捕らえてビルマに流刑とし、その20年後の1877年、イギリス国王がインド皇帝を兼ねる「インド帝国」とした。このダイヤはもとは186カラットだったが、1852年に105カラットに削られて歴代の戴冠式で王妃が戴く冠の正面に据え付けられた。まさに大英帝国の繁栄を象徴する逸物となったわけだが、やがてそれはイギリスにとって重しとなっていく。イギリス王室での面白い話が続くが、これ以降はウィリアム・ダルリンプルとアニタ・アナンドの美しい本、『コ・イ・ヌール:なぜ英国王室はそのダイヤモンドの呪いを恐れたのか』 (創元ライブラリ)をぜひお読みください。
エリザベス女王は・・・ 第二次世界大戦後の1952年、イギリス人の歓呼の声に迎えられてエリザベス2世が即位した。しかし、この新女王は「コ・イ・ヌール」を掲げた冠を戴くことはなかった。さて、何故、新女王はこの「コ・イ・ヌール」をつけた冠を使わないのだろうか。なかには「王冠ののろい」などと言う人も居ますが、エリザベス女王が使わないことを決断したのは、言うまでも無く、その直前の1947年に独立したインド共和国を刺激しないためであった。すでにインドからはこのダイヤモンドの返還要求が出されていた。イギリスがインドに返さない理由は、譲り受けたシク王国のあったパンジャブは今はインドではないから、というもののようだが、とすると当然パキスタンから返還要求が出される。事実、パキスタンも、さらにかつて一時的であったとはいえ所有していたドゥッラーニー朝がアフガン人の王朝だったことから、アフガニスタンも返還を要求する権利があると言っているそうです。となるとイギリス国王もこれ見よがしにこれをかぶって戴冠式というわけにはいきません。そして2023年、世界が注目する中、国王チャールズ3世のカミラ夫人、ではなく王妃の頭にもそれは見ることができなかった。現在どこにあるのかというと、ロンドン塔の一角に保管され公開されているそうです。<ウィリアム・ダルリンプル/アニタ・アナンド/杉田七重訳『コ・イ・ヌール:なぜ英国王室はそのダイヤモンドの呪いを恐れたのか』 2023 創元ライブラリ などによる>
資料 1858年のヴィクトリア女王の宣言
神の恵みにより、大ブリテン、アイルランド、ならびにヨーロッパ(注1)・アジア・アフリカとオーストロアジア(注2)における植民地および属領の女王にして、信仰の守護者たるヴィクトリア。(中略)
ここにわれわれはインドの藩王に対し、東インド会社の権威により、またその下で彼らとの間になされたあらゆる条約や契約がわれわれにより承認され、厳正に遵守されることを宣言し、かつ彼らもそれを遵守することを望むものである。(中略)
われわれは諸藩王の権利・威信・名誉をわれわれのもの同様に尊重する。また彼らが、われわれ自身の臣民同様に国内の平安と良き統治によってのみ確保されるべき繁栄と社会的向上を享受することを願望する。
われわれは、われわれを他のすべての臣民に結びつけている同一の、義務を果たすべき責務によって、わがインド領内の住民と結びつけられているものと位置づけ、全能の神の祝福により、それらの義務を誠実かつ良心をもって果たすものである。
われわれはキリスト教の真理を固く信じ、感謝の念を持って信仰の慰めを認めつつ、同様にいかなるわが臣民に対してもわれわれの信仰を強要する権利や願望を否認する。(中略)(中略)
また、民族や宗教が何であれ、わが臣民はわれわれの公務において自由かつ隔てなく職を得られ、その職務は彼の教育、能力および、しかるべく示される誠意によって資格づけられることが、われらの更なる意思である。
われわれは、インドの住民たちがその先祖から残された土地に対する深い愛着の念を理解し、尊重する。われわれはまた国家の公正な要請に従いつつ、関連するあらゆる権利とともにそれらの土地を擁護するべく願望する。さらに、法の制定と実施に当たり、全体としてインド古来の権利・慣例・慣習がしかるべく尊重されるべきであると考える。
(注1)ヨーロッパにあるイギリス領とはジブラルタル・マルタ島 (注2)オーストラリアとニュージーランド
<歴史学研究会編『世界史史料8』岩波書店 p.40-41>
スエズ運河の獲得
イギリスはさらにディズレーリ首相のもとで、1875年のスエズ運河株を買収を転機として帝国主義政策を採るようになった。スエズ運河を獲得したことで、「インドへの道」を確保したイギリスは、それまでのイギリス東インド会社やインド総督を通じた間接支配から、インド植民地に対する直接統治に乗り出すことになった。ヴィクトリア女王、インド皇帝を兼ねる
1877年1月1日、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることによって、インド帝国が成立した。これは、19世紀末の一連のイギリス帝国主義政策による植民地支配の典型的な事例である。インドのデリーで行われたヴィクトリア女王のインド皇帝としての戴冠式の様子は、インド総督のリットン卿からロンドンの女王に次のように報告された。
資料 1877年のヴィクトリア女王インド皇帝即位
1877年1月1日、帝国集会において。総督から女王陛下へ奏上いたします。インド女帝としての女王陛下の称号は、本日正午デリー平原にて、最上の威厳と荘厳さをもって宣言されました。集会の出席者は、随行団を従えた50名のインド土侯の他、全インドから集結した貴族たちの大集団であり、ヘラート(アフガニスタン)の汗(カーン)や将軍、ネパール、ヤルカンド(ウィグル)、シャム(タイ)、マスカットの大使、ゴアの知事と領事団であり、さらにはイギリス領インドにおけるあらゆる知事、副知事、および軍事、行政、司法各部の長が名をつらねました。その上、白人と現地人とを問わず、あらゆる階級に属する女王陛下の臣民が、膨大な数で参集いたいておりました。(下略)<歴史学研究会編『世界史史料6』岩波書店 p.227-228>
イギリスのインド支配
この後、インドはイギリス植民地帝国の最も重要な一部として、その帝国主義政策の基盤となり、綿花、茶、アヘンなどの商品作物生産に特化されていった。このイギリスの植民地支配は、1947年のインド・パキスタンの独立まで続くが、その間、インドの民族運動が次第に強まっていく。
インド帝国の周辺 イギリス帝国主義はインド周辺への強硬策をとり、翌1878年には第二次アフガン戦争をしかけ、戦闘では敗れながら外交交渉によってアフガニスタンを保護国化している。ビルマに対しても19世紀前半から圧力をかけており、1885年の第3次ビルマ戦争を起こし、翌年インド帝国に併合した。なおネパールは1815年に実質的に保護国化しており、スリランカ(セイロン島)も1815年にウィーン議定書で領有している。
Episode コ・イ・ヌール、イギリス王冠を飾る世界最大のダイヤモンド
コ・イ・ヌールとそれをつけた王妃冠
正面に取り付けられている
いずれもレプリカ
Wikimedia Commons による
2023年、イギリスでチャールズ国王の戴冠式が行われたとき、巨大なダイヤモンドで飾られた王冠が使われるのではないか、とひとしきり話題になった。このイギリス王室の王冠を飾るダイアモンドがインド産であり、かつてインドを植民地支配したイギリスの王室の所有になっていることはよく知られている。このダイヤモンドは「コ・イ・ヌール」あるいは「コーヒヌール」というのだそうだが、それがイギリス国王のものになったのにはどのような経緯があったのだろうか。単純に想像すれば、インド大反乱でムガル皇帝を退位させたイギリスが、直接奪い取ったと思いがちだが、実はそうではないようだ。ちょっと複雑な経緯があるのだが、世界史の勉強にもなりそうなので、述べてみよう。
ムガル帝国 このダイヤの原産地ははっきりしないが、おそらくインドのビシャプール鉱山だろう。18世紀以後、ブラジルやアフリカでダイアモンド鉱が発見されるまで、世界ではその産地はインドしか知られていなかった。早くも『マハーバーラタ』にこのダイヤが出てくるらしいですが、これはおそらく伝説に過ぎないでしょう。たしかなところはムガル帝国初代のバーブルが戦利品として所有したことが『バーブル・ナーマ』にでており、それ以来ムガル皇帝の所有する宝物となったことだ。その第5代皇帝シャー=ジャハーン(そう、あのタージ=マハルを造営した人)はなんとそのダイヤを自分の玉座の装飾にはめ込んだ。この豪勢な玉座は「クジャクの玉座」という。
ナーディル=シャー そのダイヤを狙っている男がいた。それが隣国イランでアフシャール朝を建国して意気の上がるナーディル=シャー。彼は1739年、一気にムガル帝国に攻め込んだ。そのころムガル帝国は全盛期の皇帝アウラングゼーブも亡くなり、落日の一途を辿っていた。ナーディル=シャーは難なく都デリーに入城して略奪に励む。もちろん狙いはあのダイヤだ・・・というのは想像の域を出ないが、ナーティル=シャーは玉座そのものには目をくれずに破壊してはめ込んであったダイヤを抜き取り、意気揚々と引き上げた。デリーに居座って支配しようとした形跡はないので、どうやら目的はこのダイヤだったようだ。もっともこのとき、デリーでは2万とも3万ともいう人が虐殺されているから、この上ない迷惑な話です。これによって、もはや皇帝の権威は完全に失墜し、インド各地に独立政権が生まれ、さらにイギリス・フランスによる蚕食がはじまり、ムガル帝国は滅亡に向かっていった。
ドゥッラーニー朝 ナーディル=シャーが「これは光の山だ!」と感嘆したことから、「光の山」を意味するペルシア語で「コ・イ・ヌール」と言われるようになったこのダイヤはその後どうなったか。アフシャール朝も長続きせず、アフガン人の軍人アフマド=シャー=ドゥッラーニーが興したドゥッラーニー朝に取って代わられた。この王朝でもすさまじい権力闘争が繰り返されたが、それがダイヤの所有権をめぐっての争いだったわけではないだろうが、結局分裂し、敗れた一方がダイヤを握りしめたまま、インドのパンジャーブに亡命、そこを治めていたシク王国の王に命と引き換えに譲り渡した。
シク王国 このシク王国は、1799年にランジット=シンが建国、パンジャーブ地方でラホールを都に勢力を強めていたが、いよいよインド植民地支配を拡大しつつあったイギリスの侵攻に脅かされるようになっていた。1845年から2次にわたるシク戦争を戦ったが、ついに1849年に降伏、これでイギリスのインド支配はほぼ完成した。このとき、シク王国のわずか10歳の国王ドゥリープ=シングは降伏文書に署名、降伏の証しとて「コ・イ・ヌール」をヴィクトリア女王に献上しただったのだ。
イギリス王室へ こうしてこの巨大なダイヤモンドはイギリス王室のものとなった。1857年、インド大反乱を鎮圧したイギリスは、ムガル帝国の最後の皇帝を捕らえてビルマに流刑とし、その20年後の1877年、イギリス国王がインド皇帝を兼ねる「インド帝国」とした。このダイヤはもとは186カラットだったが、1852年に105カラットに削られて歴代の戴冠式で王妃が戴く冠の正面に据え付けられた。まさに大英帝国の繁栄を象徴する逸物となったわけだが、やがてそれはイギリスにとって重しとなっていく。イギリス王室での面白い話が続くが、これ以降はウィリアム・ダルリンプルとアニタ・アナンドの美しい本、『コ・イ・ヌール:なぜ英国王室はそのダイヤモンドの呪いを恐れたのか』 (創元ライブラリ)をぜひお読みください。
エリザベス女王は・・・ 第二次世界大戦後の1952年、イギリス人の歓呼の声に迎えられてエリザベス2世が即位した。しかし、この新女王は「コ・イ・ヌール」を掲げた冠を戴くことはなかった。さて、何故、新女王はこの「コ・イ・ヌール」をつけた冠を使わないのだろうか。なかには「王冠ののろい」などと言う人も居ますが、エリザベス女王が使わないことを決断したのは、言うまでも無く、その直前の1947年に独立したインド共和国を刺激しないためであった。すでにインドからはこのダイヤモンドの返還要求が出されていた。イギリスがインドに返さない理由は、譲り受けたシク王国のあったパンジャブは今はインドではないから、というもののようだが、とすると当然パキスタンから返還要求が出される。事実、パキスタンも、さらにかつて一時的であったとはいえ所有していたドゥッラーニー朝がアフガン人の王朝だったことから、アフガニスタンも返還を要求する権利があると言っているそうです。となるとイギリス国王もこれ見よがしにこれをかぶって戴冠式というわけにはいきません。そして2023年、世界が注目する中、国王チャールズ3世のカミラ夫人、ではなく王妃の頭にもそれは見ることができなかった。現在どこにあるのかというと、ロンドン塔の一角に保管され公開されているそうです。<ウィリアム・ダルリンプル/アニタ・アナンド/杉田七重訳『コ・イ・ヌール:なぜ英国王室はそのダイヤモンドの呪いを恐れたのか』 2023 創元ライブラリ などによる>