インディラ=ガンディー
インドのネール首相の娘。国民会議派政治家として1966年、首相となり、社会主義的な改革を実施したが次第に強権政治となり、75~77年には非常事態宣言によって反対派を弾圧した。総選挙で落選しいったん政権から退いたが、80年に首相に再任、パンジャーブで自治要求を強めたシク教徒を弾圧したため、84年に暗殺された。
インド独立の指導者ネルーは1964年に死去、インド共和国の後継首相となったシャーストリも66年1月に急死した。国民会議派は急遽、ネルーの一人娘のインディラ=ガンディーを首相候補として選出し、後継首相となった。彼女は、イギリス留学(オックスフォード大学卒業)から帰国してから父と行動を共にし、42年にパールスィー系のフィーローズ=ガンディー(あのガンディーとの直接の縁故は無い*)と結婚、59年に夫が死去してからは、首相としてのネルーの秘書役を務めていた。*ガンディーという姓を名乗ったことについてはこの項の末尾で別な説明を紹介します。
インドの首相となったインディラ=ガンディーは就任演説で、政教分離主義、民主主義と社会主義の推進を掲げ、ネルーの政治姿勢を継承、国民会議派左派の立場を明確にしたため、同派は左派と右派に分裂した。また西ベンガル州とケーララ州ではでは共産党(マルクス主義系)を含み連立政府が成立、マドラス州ではドラヴィダ進歩連盟が選挙で勝利するなど、反政府勢力が台頭した。
この間、71年にソ連との平和友好条約を締結したが、東パキスタンの独立を巡りパキスタンとの関係は悪化し、71年に第3次インド=パキスタン戦争が再燃した。インディラ=ガンディー政権は東パキスタンを軍事支援し、その結果、バングラデシュとして独立した。この勝利はインディラ=ガンディーの人気を高めることとなり、自信を深めた政権はさらに強権的となっていった。
くつろぐインディラ=ガンディー一家
(左が長男ラジブ、右は次男サンジェイ) 『南アジア史』山川出版 世界各国史 p.457
1966年、インディラ=ガンディー政権は二言語のパンジャーブ州を分割してパンジャーブ語地域をパンジャーブ州、ヒンディー語地域をハリヤーナー州とした。パンジャーブ州では経済力を強めたシク教教徒が自治権を要求するようになった。80年代になるとシク教徒の自治要求運動は無差別のテロ行為にまで発展、アムリットサール(インド独立運動の起点となった1919年のアムリットサール事件が起きたところ)のシク教徒の総本山ゴールデン=テンプルはその拠点と化した。政権に復帰したインディラ=ガンディー政権は、1984年6月5日、「青い星作戦」と呼ぶ武力制圧に乗り出し、シク教徒300人、政府側90人が死亡した。シク教団は制圧されたが、インディラ=ガンディーはその年1984年10月31日、首相官邸で執務に向かう途中、復讐の機会を狙っていたシク教徒の護衛兵に射殺された。
ネルー王朝 国民会議派が後継首相として選んだのは、インディラの長男のラジブ=ガンディーであった。こうして、インドではネルー→インディラ=ガンディー→ラジブ=ガンディーと親子三代が政権を継承することとなったため、「ネルー王朝」などとも言われた。しかし、息子のラジブは、汚職事件で人気を落として総選挙で敗れて退陣、再起をめざした選挙戦のさなか1991年5月21日、タミル人の過激派によって襲撃され、ガンディー母子はともに不慮の死を遂げることとなった。
インドの首相となったインディラ=ガンディーは就任演説で、政教分離主義、民主主義と社会主義の推進を掲げ、ネルーの政治姿勢を継承、国民会議派左派の立場を明確にしたため、同派は左派と右派に分裂した。また西ベンガル州とケーララ州ではでは共産党(マルクス主義系)を含み連立政府が成立、マドラス州ではドラヴィダ進歩連盟が選挙で勝利するなど、反政府勢力が台頭した。
強権政治
それらの動きに対してインディラ=ガンディーは、1970年から「貧困の追放」を掲げ、「緑の革命」と称する農業改革を開始し、社会主義的な色彩を強くした。しかしその政策実行には独断専行が目立つようになり、反対派を排除して自派候補者を州議会選挙レベルにまで押しつけるなど、次第に強権的な姿勢を強めていった。この間、71年にソ連との平和友好条約を締結したが、東パキスタンの独立を巡りパキスタンとの関係は悪化し、71年に第3次インド=パキスタン戦争が再燃した。インディラ=ガンディー政権は東パキスタンを軍事支援し、その結果、バングラデシュとして独立した。この勝利はインディラ=ガンディーの人気を高めることとなり、自信を深めた政権はさらに強権的となっていった。
非常事態宣言
1974年4月にはインフレ、汚職、失業、教育制度の不備などに対する民衆の抗議活動が盛り上がり、1974年5月18日には国民的人気の回復を狙って地下核実験を行い、国際的な批判を受けることになった。政権批判が全国的な大衆運動として盛り上がる中、インディラ=ガンディー政権は1975年6月、非常事態宣言を行い、言論・集会・結社の自由を大幅に制限、新聞・雑誌・テレビに対する事前検閲を実施、さらに大衆運動の指導者は野党指導者を反政府活動を先導したとして逮捕した。逮捕者は約700人に及んだ。この非常事態宣言は77年まで続いたが、その間、政権はオールドデリーなどの都市のムスリム低所得者層のスラムを強制的に撤去したり、農村の貧困の原因を除去すると称してナスバンディーといわれる強制断種による人口削減策を強行した。ナスバンディーの犠牲者は非常事態宣言期間に1000万人を突破したといわれている。Episode ネルーが生きていたら・・・
インディラ=ガンディー首相の非常事態宣言のもと、その強権政治によって大衆の間から冗談も笑いも姿を消したかにみえたが、実際には逆であった。デリーでは「パンディットジーが存命であったら、今頃、かれは娘インディラに獄中から手紙を書いているだろう」という、ジョークを聞くことがあった。これは1930年代、ネルーは獄中から世界史物語としてインディラ宛に手紙を書き綴り、それが一本化されて歴史書となり、世界的な賞賛を浴びた。パンディットジー(学者さん)とはネルーへの敬愛を込めた呼び方である。<中村平治『インド史への招待』1997 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 p.165>国民会議派敗北と政界復帰
1977年、汚職などへの批判が高まるとインディラ=ガンディーは議会を解散、選挙に打って出て信任を得ようとしたが、裏目に出て自ら落選し、国民会議派も敗北、独立以来30年続いたインド連邦の国民会議派政権が初めて中断されることとなった。しかし代わって政権を取ったジャナター党は派閥抗争に明け暮れ、早くも翌78年には補欠選挙でインディラ=ガンディーは国会議員に選出され、80年の総選挙では国民会議派が圧勝して政権に復帰した。パンジャーブ問題と首相暗殺
くつろぐインディラ=ガンディー一家
(左が長男ラジブ、右は次男サンジェイ) 『南アジア史』山川出版 世界各国史 p.457
ネルー王朝 国民会議派が後継首相として選んだのは、インディラの長男のラジブ=ガンディーであった。こうして、インドではネルー→インディラ=ガンディー→ラジブ=ガンディーと親子三代が政権を継承することとなったため、「ネルー王朝」などとも言われた。しかし、息子のラジブは、汚職事件で人気を落として総選挙で敗れて退陣、再起をめざした選挙戦のさなか1991年5月21日、タミル人の過激派によって襲撃され、ガンディー母子はともに不慮の死を遂げることとなった。
Episode インディラがガンディー姓となった理由
(引用)しばしば誤解されているが、国民会議派を支配するこの「ガンディー家」とインド独立の父マハトマ・ガンティーの間に直接の血縁関係はない。ネルーの娘インディラがネルーに批判的な異教徒のジャーナリストと恋愛結婚し、そのジャーナリストがヒンドゥー教徒でなかったことを心配したマハトマ・ガンディーが、インディラ夫妻に「ガンディー」姓を与えたというのが事実のようである。しかし、教育水準の低いインドの一般大衆はこの事実を知らない。<近藤正規『インド――グローバル・サウスの超大国』2023 中公新書 p.19>なおインディラの夫が「異教徒」というのは、上述のようにパールスィー系、つまりゾロアスター教徒だったことを指している。