デカルト
17世紀の哲学、科学に大きな影響を与えた、大陸合理論の中心人物。フランス人であるが、三十年戦争時代のオランダなどで活動した。
デカルト
彼の自己存在から真理を演繹的に認識していく方法は、合理論哲学の潮流として、ライプニッツやパスカルなどヨーロッパ大陸で継承され、「大陸合理論」(それに対してフランシス=ベーコンに始まる「イギリス経験論」があった)が展開されていく。彼の合理的認識の根幹にあるのは数学的合理性であり、x軸とy軸によって現すデカルト座標を導入するなど、直線や曲線を代数方程式で表す新しい数学を生み出し、次の微積分法の基礎を築いた、といえる。その著作には他に、1641年の『省察』、1644年の『哲学原理』などがある。晩年にはスェーデンの女王クリスティナに招かれてストックホルムに赴き、1650年にその地で没した。
『方法序説』(方法叙説)
このデカルトの主著『方法序説』(または方法叙説)Discours de la Méthode は1637年に出版された、正確には「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法序説」といい、『屈折光学』、『気象学』、『幾何学』の科学書三部作の序文として書かれたもので、「良識はこの世の中でもっとも公平に分け与えられているものである」と言う有名な言葉に始まる。当時は学問的書物はラテン語で書かれるのが普通であったが、この書はフランス語で書かれた。哲学の本をフランス語で書いた最初の書物であり、彼自身が同書の最後で、「わたしが自分の国のことばであるフランス語で書いて、私の先生たちのことばであるラテン語で書かないのも、自然(生まれつき)の理性だけをまったく純粋に働かせる人たちのほうが、古い書物だけしか信じない人たちよりも、いっそう正しくわたしの意見を判断してくれるだろうと期待するからである」<谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫 p.101>と言っている。文庫本でも本文100ページあまりの小著であり、言葉は平易であるが、哲学書としてはその論旨を追うのはかなり骨が折れる(少なくとも私には)。それでもほぼ、デカルトが自己の思索の過程を自伝的に述べているので、訳注を頼りに読み進めれば歴史資料としてはなんとか読み通すことができよう。以下、同書から世界史の材料となりそうなところを抜粋しておく。
学問を捨て世界という書物へ
デカルトは1596年、フランス中部のトゥーレーヌ州ので法服貴族(高等法院の裁判官を務める非世襲の貴族)の家に生まれ、10歳からラフレーシのイエズス会学校で教育を受けた。そこで神学、スコラ哲学などをはじめ様々な学問を学んだ。しかし書物を通しての教育から学んだことに疑問を持つようになった。(引用)わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し、青春の残りをつかった次のことをした。旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまな経験を積み、運命の巡り合わる機会をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすことだ。・・・<谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫 p.17>つまり、今風に言えば、デカルトは「自分探しの旅」第一号の旅人だった。
三十年戦争の時代
22歳になった1618年、デカルトはオランダに渡り、軍隊に入った。ちょうどその時、ドイツに三十年戦争が勃発した。オランダは新教国で旧教国スペインからのオランダ独立戦争はいったん休戦していたが事実上の独立を果たしていた。旧教徒であってもスペインと戦いを始めたフランス人だったので受けいれられたのであろう。デカルトはナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わったが、そこでは戦術上の数学や力学の研究が盛んで、彼はあるとき数学の難問を解いて人を驚かせたという。ボヘミアの新教徒の反乱から起こった三十年戦争がドイツ各地に広がると、翌年デカルトはドイツに向かい、旧教軍に加わった。ドナウ河畔のウルムの町で新旧両軍が対峙し戦闘休止状態となったとき、デカルトは宿舎の中に籠もって思索を続けるうち、11月10日、ある霊感に打たれた。そこで得たことは数学という純粋な学問において問題を解く方法には原理がある、というもので、それはわずか4つの規則だけだと悟った。その4つの規則とは、①即断と偏見を避け明証的な真のみを受けいれる、②問題をできるだけ小部分に分割すること、③単純なことから複雑な事への順に従った思考、④最後に見直し枚挙する、ということであった。われ思う、ゆえに我あり
デカルトは1620年3月ごろ軍隊を辞めてドイツを去り、しばらくフランスやイタリアを旅しながら数学や光学の研究をつつけた。1628年からはまたオランダに戻り、アムステルダムに居を構え、そこで21年間研究をつづけた。その間、1633年にガリレイの地動説を論じた著作がローマ教皇庁の宗教裁判によって有罪とされたことに大きな衝撃を受け、彼自身が天体を論じた著作『世界論』の出版を自粛した。この間デカルトは、先の数学上の原理を、人間の生き方の原理、つまり哲学の原理に高めることができないか、思索を続けた。そしてあらゆることを疑い、排除していった結果、一つの結論にいたり、それを第一原理としてあらゆることをそこから演繹していく方法論に行き着いた。それが「われ思う、ゆえに我あり」ということであった。(引用)ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念の中にまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。・・・しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとするその間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(ワレ惟ウ、故ニワレ在リ)」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受けいれられる、と判断した。<谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫 p.45-46>
フランスからスウェーデンへ
1640年代には、当時ピューリタン革命の難を避けてフランスに亡命していたホッブズなどとも論争したり、ヨーロッパ各地の哲学者との交流が続いて、デカルトの名声は高まった。デカルトは『方法序説』で、「神の存在」をも哲学的に論証することができると主張していたが、それは新教国オランダのカルヴァン派神学との論争を産み、ライデン大学などでデカルトを排斥する動きが強まっていった。迫害を避けてフランスに戻ったデカルトを迎えたパリはフロンドの乱(1648~53)で混乱しており、デカルトはアムステルダムに戻らざるをえなかった。デカルトとの熱心な手紙の交換をつづけていたその信奉者の中にスウェーデンの女王クリスティーナ(スェーデン国王グスタフ=アドルフの娘で、1632年、三十年戦争のさなかに父が戦死したので6歳で王位についた。イギリスのチャールズ1世の姪にあたる)がいた。クリスティーナはデカルトから直接教えを受けたいと考え、彼をストックホルムに招いた。デカルトはクリスティーナと濃密な問答を重ねたが、ストックホルムの寒気が禍して肺炎にかかり半年後の1650年に没した。
デカルトの警句
デカルトは冒頭でも紹介したように人文学の価値には否定的だった。歴史を学ぶことにも、こんな警句をものしている。(引用)・・・わたしは、語学ばかりか、古い本を読むことにも、そこに書かれた歴史や寓話にも、もう十分に時間を費やしたと思った。というのも、ほかの世紀の人々と交わるのは、旅をするのと同じようなものだからだ。・・・けれども旅にあまり多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう。また、過去の世紀になされたことに興味をもちすぎると、現世紀に行われていることについて往々にしてひどく無知なままとなる。そのうえ寓話は、実際にありえない多くの出来事を、ありうるがごとく想像させる。・・・そこから手本を引き出して自分の生き方を律する人たちは、われらが騎士物語に出てくる遍歴騎士のような奇行におちいり、身の程知らずの計画をもくろみかねない。<谷川多佳子訳『方法序説』岩波文庫 p.13-14>