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ハノーヴァー朝/ハノーファー/ウィンザー朝

1714年、イギリスのステュアート朝断絶により、ドイツのハノーファー選帝侯を国王に迎えた。これによって名誉革命後の国王は政治には関与しない責任内閣制が確立した。この間、イギリスは産業革命が進行すると共に、植民地帝国として繁栄(第一帝国)したが、アメリカ独立戦争・フランス革命とナポレオン戦争の難局を経て、資本主義経済成長させ、19世紀前半のヴィクトリア朝(第二帝国)の繁栄を実現させた。1901年からサックス=コーバーグ=ゴータ朝となり、第一次世界大戦中にウィンザー朝に改称、2022年にエリザベス2世が死去してチャールズ3世が継承した。

イギリスのハノーヴァー朝

 1701年、ステュアート朝ウィリアム3世の時に制定された王位継承法に基づいて、1714年アン女王が継嗣がなく没したとき、ドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージがイギリス王ジョージ1世として即位した。ここからハノーヴァー朝 Hannover (註)という。この王朝はつまり、イギリス国王でありながら、海を隔てたドイツの一部のハノーヴァー選帝侯国の君主であるという、同君連合であった。 → イギリス(6)  イギリス第一帝国
ハノーヴァー朝系図

ドイツから国王を迎える

 1701年王位継承法とは、共同統治者であったウィリアム3世とメアリ2世には継嗣が無く、またメアリの次の国王を予定されていたアンの子供も死んでしまっていて、王位継承を巡って争いが起きることが予想されたので、安定的な継承原則を定めておく必要があったところから、「ステュアート朝の血を引く、新教徒であること」とされた。それによってジェームズ1世の孫娘ソフィ-がドイツのハノーファー選帝侯エルンスト=アウグストとの間にもうけたゲオルクが王位を継承することになり、ジョージ3世として迎えられた。
(註)ハノーヴァーは英語読み。ドイツではハノーファーと発音し、ジョージもゲオルクという。従ってドイツではハノーファー選帝侯ゲオルクが正しい表記であるが、ここでは混乱を避けてイギリス国王となってからのハノーヴァー朝ジョージ1世の表記と合わせた。

ドイツのハノーファー王国

 ドイツのハノーファーというのは、ドイツ北西部のブラウンシュヴァイク侯国からわかれ、1692年、エルンスト=アウグスト(ジョージ1世の父)の時に選帝侯となった。1714年からはイギリスと同君連合として続き、ナポレオン戦争中にヴェストファーレン公国に併合されたが、ナポレオンの没落によって独立を回復し、ウィーン会議で王国に昇格、ドイツ連邦を構成する領邦の一つとなった(イギリスとの同君連合であるのに、ドイツ連邦を構成していることに注意)。
 1830年にフランスの七月革命が起こり、ヨーロッパ各国でも自由主義改革の動きが出てくると、ハノーファー王国はイギリスと同君連合であったため、立憲君主制・議会政治を受け入れやすかったことから、1833年に自由主義的憲法が制定された。ところが、1837年、イギリスでヴィクトリア女王が即位すると、ドイツでは女性君主が認められなかったため、同君連合は解消された。その時、新たにハノーファー国王となったエルンスト=アウグスト(初代選帝侯と同名)は1833年に定められた自由主義的な憲法を廃棄し、君主権と身分制議会の復活を一方的に決めた。
 それに対してグリム兄弟を含むゲッティンゲン大学の七人の教授が抗議声明を出して解雇されるという、「ゲッティンゲン七教授事件」が起こった。これはウィーン体制時代の自由主義運動を抑圧する動きの一つだった。ハノーファー王国はその後も王の反動的施策で動揺が続いたが、約十年後の1848年革命の波がドイツにも及び、1848年3月18日ベルリン三月革命が起きると、ハノーファーでも民衆運動が起こって時宗主義内閣が成立した。
 しかし、フランクフルト国民議会が決裂した後、台頭したプロイセンとの対立がおこり、1866年の普墺戦争でオーストリア側についたため、敗れてプロイセン王国に併合され、消滅した。

議院内閣制の成立

 ジョージ1世はイギリス王位とハノーヴァー選帝侯の地位を兼ねた。ジョージ1世は英語をほとんど解せず、しかもロンドンに馴染まずにハノーヴァーに滞在することが多かった。イギリス国政に関与することが少なかったので、イギリスの政党政治が定着し、議院内閣制(責任内閣制)の原則が確立していった。ジョージ1世の時、国政全般を蒔かされたのが、ホィッグ党に属する政党政治家、ウォルポールであり、そのもとで政党政治が定着した。

ハノーヴァー朝の国王

 ハノーヴァー朝はジョージ1世(1714~27年)の後、ジョージ2世(1727~60年)、ジョージ3世(1760~1820年、アメリカの独立、フランス革命、産業革命の時代)、ジョージ4世(1820~30年)、ウィリアム4世(1830~37年)と続き、19世紀後半のヴィクトリア女王時代(1837~1901)に、大英帝国(第二帝国)の繁栄期を迎える。
 なお、ヴィクトリア女王から、ハノーヴァー公の地位は女性の相続が認められなかったのでイギリス国王単独となった。ヴィクトリア女王とアルバート公の間に生まれたエドワード7世の即位した1901年から王朝名はサックス=コーバーグ=ゴータ朝(ドイツ語ではザクセン=コーブルク=ゴータ)に代わったとされることもあるが、日本では通常、1917年までをハノーヴァー朝とすることが多い。
 ヴィクトリア女王の次は、エドワード7世(1901~10年。即位したときすでに60歳)、ジョージ5世(1910~36年)となり、第一次世界大戦を迎える。

ウィンザー朝

 イギリスの王朝でありながら、ハノーヴァー朝(およびサックス=コーバーグ=ゴータ朝)はドイツの家系を継承するものであったので、第一次世界大戦が始まった後の1917年、ジョージ5世のときにドイツ風の王朝名を改めることとなり、王宮の所在地にちなんだウィンザー朝となった。第一次世界大戦後、大英帝国のかつての栄華が薄れてきたことが明確になった時期、1936年に王位を継承したエドワード8世は、ウォリス=シンプソンという二度の離婚歴のある愛人と結婚することを決意し、王位を放棄した。彼はラジオで王位放棄を国民に告白し「王冠を賭けた恋」として世界中にセンセーションをまきおこした。

Episode 王冠をかけた恋

 謹厳実直な国王ジョージ5世の皇太子としてエドワードは明るく活発な青年でスポーツ好き、国民に人気が高かった。第二次世界大戦では戦地に赴こうとしたが陸軍大臣キッチナーに止められた。彼はまた恋多き青年としてたくさんの女性と交際していたが、最も真剣に愛した女性、ウォリス=シンプソンは二度の離婚歴のある人妻だった。41歳で即位の機会が回ってきたエドワードは、即位して彼女と正式に結婚しようと望んだ。
(引用)問題は驚くほど単純だった。すなわち、英国国教会の首長でもある国王が、彼女自身に責任がなかったとはいえ、二度の離婚経験を持つ女性と結婚し、彼女を王妃にすることが可能かどうかという点だった。シンプソン夫人の人となりが知れ渡るにつれて、彼女の人気は下がった。彼女はついに南フランスに逃げ出したが、そこでも白い目で見られた。ボールドウィン(首相)は、国王が彼女を王妃にできないことを知っていた。英国民が納得しないとわかっていたからだ。一時は貴賤結婚の可能性も検討された。つまり、ウォリス=シンプソンは国王の妻となるが、王妃にはならないという方法である。だがボールドウィンと内閣は、それを受け入れるつもりはなかった。どのみち、そのような形の結婚は、法的にも、憲法上からいっても、妥当かどうか疑わしかった。
 すったもんだのうちに週が明けると、さすがのエドワードも、ウォリス=シンプソンと結婚し、なおかつ国王を続けることに、充分な支持は得られないと悟った。12月11日に彼は退位した。英国王としては初めてのことだった。ラジオ放送による彼の退位声明は、彼自身によってきわめて率直な言葉遣いで書かれ、ことに次の一節は長く人びとの記憶に残った。「どうかわかってもらいたい。私の愛する女性の助力と支えなしに、重責を担い、国王としての務めを満足に果たすことは、とうてい不可能なのだ」<ケネス・ベイカー/森護監修/樋口幸子訳『英国王室スキャンダル史』1997 河出書房新社 p.241-242>
 退位後はウィンザー公に叙爵されて「殿下」と呼ばれ、フランス政府から免税措置を受けたパリ郊外の家で、ただぶらぶらして日を送った。しかし夫人は「妃殿下」と呼ばれることはなく、寂しい人生の夕暮れの時を過ごした。<このあたり、詳しくは小林章夫『イギリス王室物語』1996 講談社現代新書 をご覧下さい。>

Episode 国王のスピーチ

 王位は弟のヨーク公に回ってきた。弟ヨーク公ジョージは兄と違って控えめでおとなしく、おまけに子どの頃から吃音という悩みをかかえていた。国王にならなければならないと知ったとき、彼は泣いたという。彼がジョージ6世として国王となった即位のスピーチで大失敗してから、妻と言語治療士の助力でそれを克服し、第二次世界大戦の困難に立ちむかう姿は映画『英国王のスピーチ』で描かれ、評判となった。国王を支えたこのジョージ6世の妻、つまりエリザベス王妃の賢明な励ましが印象深く描かれていた。この頃の国王には、首相指名権はまだなかば実効ある国王大権として残っていた。1940年、ネヴィル=チェンバレン首相が退陣したとき、悩んだ末であったが次の首相にチャーチルを指名した。ナチス・ドイツ空軍によるロンドン爆撃が激しくなっても、国王夫妻は疎開しようとせず、家族とともにロンドンに残ったので、二人に対する国民の信頼感は強まった。1952年、ジョージ6世は肺がんのため57歳で死去、チャーチルは葬儀のとき、ライラックの花束にただ一言「勇者へ」と書き添えた。次に、1952年に即位(即位式は1953年)したのが、エリザベス女王(2世)である。   → イギリス(13)

エリザベス女王の死去

 2022年9月8日、エリザベス女王(エリザベス2世)は96歳で死去した。1952年に即位したので、在位は70年となり、イギリスではヴィクトリア女王の64年をうわまわり、第一位である。世界史上の君主の最長在位期間はルイ14世(1643年~1715年)で72年。それには及ばなかった。エリザベス2世は、本国の女王だったばかりではなく、イギリス連邦(正確にはコモンウェルス)のなかのイギリス王を元首としている立憲君主国であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど16カ国でも女王であった。夫のエジンバラ公フィリップ(元ギリシア国王の子息)との間の長子がチャールズ3世として王位を継承した。 → エリザベス女王国葬 AFPbb-news 2022/9/20

Episode 不倫を乗り越え王妃に

 エリザベス2世の長男チャールズは長い皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)時代を送っていた。1981年に結婚した貴族の娘ダイアナ=スペンサーは、その美貌で忽ち世界的な人気者になり、その夫は影の薄い存在となった。しかしチャールズには青年のときから親密な関係にあった女性カミラ・シャンドがいた。チャールズはダイアナとのあいだにウィリアムとヘンリーをもうけたたが、その間も人妻カミラとの不倫関係を続けていた。やがてそのことはダイアナの知るところとなり、二人の仲は急速に冷却した。このスキャンダルはマスコミにも嗅ぎつけられ、連日のように紙面、テレビを賑わした。
 チャールズとダイアナは1992年に別居し、1996年には離婚が成立した。その後のダイアナは奔放な生活を送るうち、1996年8月31日に愛人と乗った車がパパラッチに追われて衝突し、事故死した。カミラも離婚していたものの、死後もダイアナの人気が高いため、チャールズとカミラは人びとから冷たいまなざしで見られていた。ようやくほとぼりがさめたかのように、2005年4月、チャールズとカミラは結婚式を挙げた。エリザベス女王、ウィリアムとヘンリーのダイアナの息子たちも結婚式に参加して、二人は許され晴れて夫婦となった。そして2022年、エリザベス女王の死去にともない、9月22日にチャールズは73歳にして即位し、カミラは正式にイギリス王妃となった。 → イギリス新国王チャールズ3世の戴冠式挙行 AFPbb-news 2023/5/7
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書籍案内

池上俊一
『王様でたどるイギリス史』
2017 岩波ジュニア新書

ケネス・ベイカー
森護監修/樋口幸子訳
『英国王室スキャンダル史』
1997 河出書房新社

ヘンリー8世からダイアナ妃まで、なぜイギリス王室にはスキャンダルが多いのか。王室と政府、社会の関係を戯画を題材として探った真面目な本。

小林章夫
『イギリス王室物語』
1996 講談社現代新書

DVD案内

コリン=ファース主演
『英国王のスピーチ』
監督:トム・フーパー