モルダヴィア
14世紀にモルダヴィア公国が存在した。現在のルーマニア北東部とモルドバを合わせた地域。現在はプルート川の西がルーマニア、東がモルドバに属している。
モルダヴィアのおよその位置
赤い色は現在の国名・国境 YahooMap で作成
オスマン帝国による支配
1359年にモルダヴィア公国が成立したが、14世紀末にはポーランドの宗主権を受け入れ、さらにバルカン進出を進めドナウ川を越えたオスマン帝国が、ワラキアからさらに北上して、1420年にのにモルダヴィアも征服した。ただし、オスマン帝国はドナウ川以北の地は直轄領とせず、1456年以降は宗主国として貢納をトラキアとモルダヴィアに課すようになった。その統治はオスマン帝国の中枢を担ったギリシア人エリート層(ファナリオテスという)が公(ホスポダール)に任命されて行われた。シュテファン大公の抵抗 15世紀後半のモルダヴィア公国で果敢にオスマン帝国支配に抵抗したのがシュテファン大公(ステファン3世)だった。シュテファンはハンガリー、ポーランド、ヴェネツィアと同盟してメフメト2世が派遣したオスマン帝国軍に抵抗した。1475年のモルダヴィア東部でのヴァスルイの戦いにはオスマン軍を破り、ローマ教皇から「キリスト教の闘士」と称賛されている。オスマン帝国は海軍を派遣、クリミア半島のクリム=ハン国を保護国とするとともにモルダヴィアの黒海海岸やドナウ下流地域の支配を強化した。大公はなおも抵抗を続けたが、1480年にやむなくオスマン帝国と協定を結び、貢納金の納付を受諾した。背景にはそれまでオスマン帝国と黒海の貿易をめぐって争っていたヴェネツィアが79年に和睦したことがあげられる。オスマン帝国は黒海沿岸に権益を持っていたジェノヴァをも追い払い、黒海を「オスマンの海」として支配するようになった。モルダヴィアも1538年に最終的にオスマン帝国の属国となった。
ロシアの保護国
18世紀以降、オスマン帝国の衰退に伴い農民反乱が起き、一時自立したが、19世紀になるとロシアの南下政策によってその勢力が及んできて、1829年にはその保護国となった。約300年にわたったオスマン帝国を宗主国としていた時代は終わったが、新たにロシアがその保護国として現れた。オスマン帝国の勢力も排除されたわけではなく、しばらくはこの地域はロシア帝国とオスマン帝国の間にあって揺れ動くこととなる。1848年革命が起こり、ヨーロッパでの「諸国民の春」という民族運動がこの地に及び、南のワラキア公国との統一と独立を求める運動が強まった。
クリミア戦争 1853年のクリミア戦争でロシアが敗れ、1856年にパリ講和会議の結果、パリ条約が成立すると、モルダヴィアはワラキアはロシアの保護国から脱し、オスマン帝国を宗主国とする自治公国であることに戻った。またプルート川以東のベッサラビアをロシアから獲得した。ヨーロッパ列強はまだ、ロシアを抑えるにはオスマン帝国の安定をはかることが必要と考えていたのだった。
ワラキアとの統一
同じルーマニア人の国家であるという自覚に立ち、ワラキアとの統一を進める運動はさらに続き、1859年1月に両公国の暫定議会がクザ公を同一の君主として統一することを決議し、実質的な統一を遂げた。さらに、1861年11月にオスマン帝国もそれを勅令で認めて二公国は一人の公、一つの政府と議会をもつルーマニア公国となった。ルーマニア公国は露土戦争後の1878年、ベルリン条約でルーマニア王国として正式に独立し、第一次世界大戦・第二次世界大戦でその領土の変遷を遂げながら、現在のルーマニアになっていく。
注意 モルドヴィア共和国とは別 モルダヴィア(Moldavia)公国は、現在のルーマニア共和国とモルドバ共和国の前身である。モルドバ(Moldva)はモルドヴァとも表記するが、それはルーマニア語・モルドバ語の表記で、ロシア語ではモルダヴィアという。ソ連邦の一員だった時代には「モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国」が正式国名だった。従って現在はモルドバあるいはモルドヴァと表記するのが正しいが、歴史的地名としては一応、モルダヴィアのままにしておく。
ややこしいことに、現在、モルドヴィア(Mordovia)共和国というのがある。こちらは日本語では区別がつかないが、綴りが違う(lとrなど)ことからわかるように、全く別物。ロシア連邦を構成する一つの共和国で、モスクワの東南、約300kmのところにある。モルダヴィア・モルドバとは歴史的にも人種的にも全く関係がない。つまり、モルダヴィアとモルドヴィアはきちんと分けなければならないわけです。