モルドバ/モルドバ共和国
オスマン帝国とロシアの抗争の地だったベッサラビア一帯。第二次世界大戦中にソ連が占領、社会主義国となる。1991年、ソ連解体に伴い独立した共和国となる。現在もルーマニア・ロシアとの国境紛争を抱える。1991年には親ロシアの「沿ドニエストル共和国」が分離独立を宣言した。
モルドバ共和国 GoogleMap
オスマン帝国とロシア帝国の抗争の地
かつてこの一帯は、ベッサラビアと言われ、オスマン帝国、ロシア帝国などの争奪の対象となった。14世紀後半からはモルダヴィアのモルドヴァ公(現在のルーマニア)が支配したが、15世紀からはオスマン帝国の宗主権の下におかれた。18世紀から南下政策を実行し始めたロシアが進出し、1812年にロシアがオスマン帝国から奪った。クリミア戦争でロシアが敗れたため、1856年のパリ条約では南部がモルドバに割譲されたが、露土戦争後の1878年、ベルリン条約で再びロシア領となった。
ロシア革命が起こり、ロシア帝国が倒れると、1918年にルーマニアが占領し、併合を宣言した。ロシア革命政府はそれを認めず、対立が続く。1920年のパリ条約でルーマニアの領有が国際的に承認される。第二次世界大戦中の1940年、ソ連は独ソ不可侵条約の秘密協定に基づき、ベッサラビアを占領して、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国を創設した。
ソ連からの分離独立
1947年、連合国とルーマニアの協定で、ソ連帰属が承認される。その後ソ連邦(ソ連)の一員として存続したが、1989年の東欧革命の影響を受け、ソ連からの分離運動が活発となり、1991年国名を「モルドバ共和国」に変更し、12月に独立国家共同体(CIS)に加盟した。1994年には新憲法が制定され、民主化、市場経済導入が進んだが、2001年には共産党が議会で多数を占め、大統領も出した。沿ドニエストル問題
しかし、トニエトストル川東岸一帯にはロシアからの移住者が多く、かれらはロシアとの分離を認めず、モルドバからの「沿ドニエストル共和国」の独立を宣言、1991年には武力衝突に発展した。現在もドニエストル川東岸は事実上「沿ドニエストル共和国」が統治しており、中央政府の支配は及ばす、全欧安全保障協力機構(OSCE)が調停に当たっているが、対立は続いている。沿ドニエストル共和国の支配地域では公然とロシア語が話され、親ロシアの姿勢を明らかにしており、隣接するウクライナとの関係はよくない。しかし、その支配地はドニエストル川とウクライナに挟まれた狭い帯状であるため、経済的に封鎖されると自存できない恐れがある。NewS モルドバに女性大統領登場
2020年11月、モルドバで初の女性大統領としてマイア=サンドア(48歳)が就任した。彼女はモルドバに生まれアメリカ、ハーバード大学ケネディ行政大学院に留学、母国語ルーマニア語以外に英語、ロシア語、スペイン語もあやつる。2012年に帰国して政界入り親露派の社会党ドドン政権に対する野党として改革を主導、19年に連立内閣の首相となった。ルーマニアとウクライナの間に位置し、ロシアと欧州の間で揺れてきた小国の「統合と経済の立て直し」を目標に掲げ、20年11月に大統領に選出された。EUとロシアの双方とも対話を重視してバランスのとれた外交を目指すとしているが、国内のロシア系住民が一方的に独立を宣言している「沿ドニエストル共和国」に駐留するロシア軍の撤収などを要求しており、微妙なかじ取りが求められそうだ。<毎日新聞 11/25 東京朝刊> → 毎日新聞ネットニュースウクライナ危機が及ぶか
2022年2月24日、プーチン大統領のロシアがウクライナに侵攻、ウクライナはロシアの侵略によって危機に陥った。プーチンはウクライナ東部のドネツク、ルハンスク州のロシア人がウクライナのネオナチに迫害されたから救出するのだ、と弁明し、戦争ではなく特別軍事行動であると言いながら、2ヶ月以上攻撃を続け、多くの死者と避難民が出ている。国境を接するモルドバにもウクライナ人が避難民したが、そのモルドバでも危機が持ち上がっている。それは、モルドバ東部のロシア系住民が独立を宣言して沿ドニェストル共和国と称しており、そこには少数ながらロシア軍が駐屯している。ロシア軍はウクライナ南部の戦線を拡大し、沿ドニェストル共和国と連絡するルートを確保して、ウクライナ南部を含むノヴォロシア(新ロシア)共和国として独立させる構想をもっているのではないか、と見られてる。4月末には沿ドニェストル共和国の実効支配している地域で爆発が続いており、ロシアはそれをロシア人に対する攻撃だと非難し、モルドバおよびウクライナは、ロシアの自作自演ではないかと疑っている。ウクライナ「戦争」が長期化することで、戦火がモルドバにも拡大する恐れがある。しかし、ロシア人の民族主義、大ロシア主義の復活を感じさせるこの動きに正義があるとは思えない。18~19世紀にロシア、ルーマニア、オスマン帝国の抗争の地だったベッサラビアが再び戦乱の地にならないことを願う。<2022/4/30 記>