パリ講和会議/パリ条約(1856)
1856年のクリミア戦争を終結させた講和会議、およびそこで締結された講和条約。オスマン帝国の領土保全が図られ、ロシアの南下政策が阻止された。
クリミア戦争の講和会議であるパリ講和会議の結果、1856年3月30日に締結された講和条約。敗戦国ロシアと勝利国イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、サルデーニャ、オスマン帝国の間で締結。ロシアの南下政策を阻止するのが目的。結果的にイギリスの主張する方向でオスマン帝国(トルコ)の領土保全が図られた。
このパリ講和会議は、1815年のウィーン会議以来の大規模な国際会議(多国間会議)であり、ウィーン体制崩壊後のヨーロッパの再編の過程で重要な意味をもっていた。大筋では、東方問題で列強のバランスを崩す恐れのあるロシアの巨大化を、その南下政策を制限することで阻止することが課題であった。また副産物として、途中から参戦したサルデーニャ王国の国際的地位の向上が見られた。
パリ講和会議の結果として締結されたパリ条約の主な内容は次のようなものである。
しかし、アレクサンドル2世は態勢を回復した1870年代、ふたたび南下政策を強め、バルカン進出を図って1877年に露土戦争を起こした。この戦いで勝利して、1878年にサン=ステファノ条約を締結、オスマン帝国の領土の割譲を受けたが、イギリスはロシアの行動をこのパリ条約違反であると非難して問題化した。ロシア・イギリス間の仲介に当たったビスマルクが同年ベルリン会議を開催、その巧妙な外交によりロシアの南下政策はふたたび抑えられることとなる。
このパリ講和会議は、1815年のウィーン会議以来の大規模な国際会議(多国間会議)であり、ウィーン体制崩壊後のヨーロッパの再編の過程で重要な意味をもっていた。大筋では、東方問題で列強のバランスを崩す恐れのあるロシアの巨大化を、その南下政策を制限することで阻止することが課題であった。また副産物として、途中から参戦したサルデーニャ王国の国際的地位の向上が見られた。
パリ講和会議の結果として締結されたパリ条約の主な内容は次のようなものである。
- オスマン帝国(トルコ)の領土尊重。
- 1841年のダーダネルス=ボスフォラス海峡閉鎖と黒海中立化の確認。
- ドナウ川自由航行の原則と航行国際監視委員会の設置。
- ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに譲る。
- モルダヴィア・ワラキア(この二公国が後のルーマニアとなる)、セルビアの自治の承認など。
ロシアの改革と南下政策の再開
これによってロシアの南下政策はいったん抑えられることとなった。1860年代のロシアはアレクサンドル2世による農奴解放令やゼムストヴォ開設などの内政改革にむかう。また黒海方面の南下政策が頓挫したため、関心はシベリアから極東方面に向かった。しかし、アレクサンドル2世は態勢を回復した1870年代、ふたたび南下政策を強め、バルカン進出を図って1877年に露土戦争を起こした。この戦いで勝利して、1878年にサン=ステファノ条約を締結、オスマン帝国の領土の割譲を受けたが、イギリスはロシアの行動をこのパリ条約違反であると非難して問題化した。ロシア・イギリス間の仲介に当たったビスマルクが同年ベルリン会議を開催、その巧妙な外交によりロシアの南下政策はふたたび抑えられることとなる。
サルデーニャ王国の国際的地位向上
このときイタリア統一運動(リソルジメント)の過程にあったサルデーニャ王国の首相カヴールは、直接的な利害が無かったにもかかわらずナポレオン3世のフランス側に、1855年に参戦、パリ講和会議にも参加してその国際的地位を高めるとともに、ナポレオン3世の信頼を得ることに成功した。両者の関係は、1858年のプロンビエール密約へと発展し、それによってカヴールは1859年4月、オーストトリアに宣戦布告し、イタリア統一戦争(第2次イタリア=オーストリア戦争)を開始した。この戦争はナポレオン3世が途中、単独講和に転換したため中断され、頓挫したが、その後もサルデーニャがイタリア統一の主導権を握ることとなった。