パレルモ
南イタリア、シチリア島の中心都市。9世紀にイスラーム教国の支配する都市として発展。1072年、ノルマン朝の都となり、諸文明が融合が進み、12世紀ルネサンスの一つの中心地となった。
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アラブ人によるパレルモ建設
8世紀末、チュニジアでアッバース朝から自立したアグラブ朝の勢力は、地中海の対岸のシチリア島に及ぶようになった。878年にはシチリア島はイスラーム勢力に征服され、パレルモはその支配の中心地とされるようになった。(引用)パレルモの町が歴史の表舞台に飛び出すのは、9世紀にアラブ人が侵入してきてからだ。彼らはやがてシチリア全土を征服し、この島を農業・商業で栄える豊かなイスラム教国につくり変えた。その首都となったパレルモはスペインのコルドバに比肩される大都市に成長する。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.43>
地中海貿易
シチリア島にはアラブ人によって潅漑技術と同時に様々な農作物が移植された。特に絹はシチリアの特産となり、パレルモから盛んに東方に輸出された。その他、スカーフ、衣服、絨毯などが東方に輸出され、東方から亜麻、染料、胡椒、陶器などが輸入された。パレルモがイスラーム教徒がシチリアを支配していた11世紀に、地中海貿易の中継地となってイスラーム商人がスペイン、チュニジア、モロッコ、エジプトなどと交易を行った。<高山博『同上書』 p.155-156>イスラーム文化
現在のパレルモには、多くのイスラーム風(アラブ風)の建物がある。しかしこれらはアラブ人の時代のものではない。(引用)南国の植物に囲まれたこれらの異国風な建物を見ていると不思議な感覚に襲われる。ここは、本当にヨーロッパなのだろうか。イタリアのどの都市とも違う。むしろ、イスラム文化圏に属する北アフリカのモロッコや、あるいはスペイン南部のグラナダやコルドバを思い浮かべてしまう。しかし、これらの遺跡は、実は、イスラム教徒たちがこの町を支配していた時代のものではない。アラブ人の後シチリアを征服したノルマン人の時代に築かれたものなのである。パレルモを歴史の中心に引っ張り出したアラブ人たちの遺跡はほとんど残っていないが、ノルマン期に作られた数々の建築物がイスラム文化の影響を色濃く漂わせているのである。<高山博『同上書』 p.13>
ノルマン人の侵入
第2次民族大移動といわれるノルマン人の活動の一つとして1072年、ノルマンディ出身のルッジェーロ1世がシチリアに進出してイスラーム教徒から奪い、その子ルッジェーロ2世の時にノルマン朝が1130年に成立すると、その宮廷がパレルモにおかれた。このシチリア王国の成立が、両シチリア王国の起源とされることも多い。パレルモのイスラーム教徒 ノルマン人の統治する12世紀のパレルモについて、次のような説明がある。
(引用)キリスト教徒たちはこの町を「パラールマ(パレルモ)」と呼び、イスラム教徒たちは単に「都(マディーナ)」と呼んでいたが、ここには多くのイスラム教徒が暮らしており、彼ら専用のモスクが町中にいくつもあった。イブン=シュバイルは、このパレルモの町並みをコルドバ風と呼んでいるが、コルドバと同様に新市街のまん中に「古い城砦」と呼ばれる旧市街がいくつも建てられており、そそり立つ望楼は優美さを競っていたという。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.148>
イスラーム文明の西欧への橋渡し
このようにパレルモには、古代ローマ・ゲルマン・ビザンツ・イスラーム・キリスト教の文化が混在する、独特な文化が形成された。特に、12世紀のパレルモはヨーロッパにとって最も先端的な文化の発信地であり、イスラーム文化と、それを媒介としたギリシア・ヘレニズム文化がヨーロッパに伝えられる上でのイベリア半島のトレドなどと並んで重要なルートであった。ここからヨーロッパにおける12世紀ルネサンスが生まれた。12世紀のパレルモのルッジェーロ2世の宮廷に仕えた、アラブ人の地理学者にイドリーシーがいる。彼はキリスト教世界の地理学者に先んじで、世界地図を作成した。支配者の交替
シチリア王国の王位はノルマン朝が断絶したことから、1194年からドイツ系のシュタウフェン朝・フリードリヒ2世がシチリア王国を統治するが、パレルモはその時期にも宮廷が置かれたため、ヨーロッパの最も先進的な都市として繁栄した。しかし、シュタウフェン朝は後継者が断絶するなど混乱し、1266年にフランスのアンジュー伯シャルルがシチリアに侵攻、両シチリアを支配するようになった。このフランス人による南イタリア支配は住民との軋轢を生み、1282年にはフランス人に対して反撃したシチリアの晩祷事件が起きている。フランス兵の侮辱的な行為に怒ったパレルモ市民が蜂起したもので、ナポリはフランス兵を派遣して鎮圧をはかったが成功せず、島民はスペインのアラゴン王に介入を要請、シチリアをめぐるフランスとスペインの争いに転じた。結果的に1302年、アラゴン王がシチリア王を兼ね、アンジュー家はナポリ王国を支配することで和議が成立、両シチリア王国は分離することとなった。
続く外国人支配
その後、アラゴン王国は1442年にはナポリ王国を併合、正式にに両シチリア王国と称した。アラゴン王国は1479年にはスペイン本土のカスティリヤ王国と合併してスペイン王国となるので、シチリアもスペイン王国に組み込まれることとなった。シチリア島とパレルモでは、長いスペイン支配が続いたのち、ナポレオンが本国スペインを征服する事態となると、地中海進出を狙うイギリスがシチリア島に進出、スペインに変わって軍事支配することとなった。そのナポレオンが没落したのちのウィーン会議では、シチリアはスペインに返還されることなく、復活したナポリ王国のブルボン王家が王位を兼ね、再び両シチリア王国といわれるようになった。このスペインやフランスを本国とする外国支配は、ナポリに置かれた統治機関によってシチリア島統治が行われた。
近代のパレルモ
1848年のパレルモ蜂起
ウィーン体制のもとで自由主義・民族主義・憲法制定を求める民衆蜂起がイタリアでもしばしば起こっていたが、いずれもオーストリア軍の介入で鎮圧されていた。シチリア島では両シチリア王国とはいいながら本土のナポリのブルボン王家による支配が続いており、島民の不満が高まっていた。そのような不満が1848年の1月にパレルモで爆発、それが全ヨーロッパに広がった1848年革命の口火を切る動きとなった。(引用)1848年1月12日、パレルモにおける両シチリア王フェルディナンド2世の誕生祝いの祭りは、シチリアの独立を独立憲法を要求する急進分離主義者の煽動のもとに暴動にかわった。その運動は自由と独立を象徴する三色旗を掲げ、憲法を獲得したのち独立のシチリアとイタリア自由連邦へ参加することを目標としていたが、農民や山賊団、そしてのちにマフィアに成長する右翼の暴力組織までが暴動に加わっており、実際にそれを支えたエネルギーは、ナポリ政府の虐政に反発したシチリアの分離主義的愛郷心と絶望的な貧困に追いつめられた人びとの土地とパンを求めての一揆的衝動であった。海港からする王国軍の17日間にわたる砲撃に堪えたのち、1月30日パレルモ市民は駐屯していた王国軍隊をその市から追い出すことに成功した。<森田鉄郎『イタリア民族革命の使徒マッツィーニ』1984 清水新書 p.123-124>国王フェルディナンドはパレルモの暴動をオーストリア軍の援軍で抑えようとした、ローマ教皇ピウス9世がオーストリア軍の領内通過を許さないので、やむなく人民の要求に譲歩して1月29日、憲法を許すことを布告した。2月10日正式に憲法が発布されると他のイタリア諸邦の立憲運動を大いに勇気づけ、トスカーナ大公国(フィレンツェ)ではレオポルド2世が2月17日に、サルデーニャ王国ではカルロ=アルベルト国王が3月5日に憲法の発布に踏み切った。ピウス9世は「自らがひき起こした民族的興奮の急進化していく事態にたじろぎ、教皇俗権と革新政治との矛盾にも気づいて」はいたが、もはやローマ市民の興奮をおさえるすべもなく、おりからフランスの二月革命の知らせに怯え、3月15日にかれもまた憲法制定を許した。これらのイタリア諸邦で制定された憲法は、フランスではこの時否定された1830年憲法と同じで専制政治を否定しているものの保守的なものであったが、急進的民主主義を抑える防塁として、君主たちにとっても必要とされたのだった。
パレルモの暴動はイタリア各地に飛び火し、ミラノとヴェネツィアでも市民が蜂起し、共和政を宣言した。その情勢を見たサルデーニャ王国のカルロ=アルベルトは北イタリアの解放の好機と捉えオーストリアに宣戦布告(第一次イタリア=オーストリア戦争)したが、態勢を整えたオーストリア軍が反撃してこれらのイタリアの独立と統一を目指す運動はいずれも抑えられてしまった。
ガリバルディによる占領
19世紀後半(1850年代以降)になると、イタリア統一の主役はサルデーニャ王国の首相カヴールが担うようになった。しかし、1859年のイタリア統一戦争(第2次イタリア=オーストリア戦争)は不完全なかたちで終わり、イタリア統一はできなかった。そのような中、1860年5月に、ガリバルディが千人隊(赤シャツ隊)という義勇兵を組織して、シチリア島に上陸、パレルモを市街戦を制してブルボン軍を撃退して、シチリアを占領するという事態となった。ガルバルディ軍はさらにナポリを占領し、これによって両シチリア王国は消滅した。その後、シチリア島・イタリア南部ではサルデーニャへの併合を決める住民投票が行われ、圧倒的多数で併合が承認され、それをうけてガリバルディが征服地をサルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上するというかたちで、イタリアの統一(リソルジメント)が一歩大きく前進した。