再保障条約/二重保障条約/独露再保障条約
1887年、ビスマルク時代のドイツがロシアとの間で締結した秘密軍事条約。1890年に消滅した。
再保障の意味
1887年、ドイツとロシアの間で締結された条約。Treaty of Reinsurance 。再保障(Reinsurance)とは、保障を二重にすることなので二重保障条約ともいう。一般にはドイツ・ロシア間の条約なので「独露」をつける。具体的内容は、ドイツがフランスと戦争となった場合はロシアは中立を守り、ロシアがオーストリアまたはイギリスと戦争になった場合はドイツは中立を守ることを約束するという軍事同盟であった。またドイツはロシアのバルカンへの介入を認めた。
これは、ドイツは1879年にオーストリアとの間で独墺同盟を結び、ロシアがオーストリア・ドイツのいずれかを攻撃してきた場合は両国は共同して戦い、フランスがドイツを攻撃した場合はオーストリアは中立を守る、というきていであったので、ドイツはオーストリアとロシアとの間で二重に同盟を結んだことになり、しかもオーストリアとロシアはバルカンで利害が対立していたので、ドイツがそれぞれの国との同盟は矛盾することになる。そのため、いずれも秘密軍事同盟として締結した。
ビスマルクの安全保障構想
ドイツ帝国の成立を普仏戦争の勝利によって実現させたビスマルクは、その後も、フランスを孤立化させるため、列強とのさまざまな同盟関係を結ぶというビスマルク外交を展開した。その重要な柱が、ドイツの東に位置するロシアとの同盟関係によって、少なくとも中立にしておくことであった。そのためにまずオーストリアを加え三帝同盟を結成したが、1877年の露土戦争でロシアがバルカン半島に進出したことでオーストリアとの関係が悪化し、解消してしまった。さらにベルリン会議におけるビスマルクの調停は、ロシアに不利なものに終わったため、ロシアはドイツから離れフランスに接近し、ドイツにとっては東西両面に敵を持つという不利な情勢となった。そこでビスマルクは、急きょオーストリアに働きかけ、1879年に独墺同盟を結んだ。独露再接近の事情
それでもドイツの安全保障には不十分と考えたビルマルクは、1881年、ロシア・オーストリア=ハンガリーに働きかけ、新三帝同盟(三帝協商ともいう)を結成した。さらに翌1882年には独墺同盟に、フランスのチュニス進出に反発したイタリアを組み込んで三国同盟とした。こうして、三帝同盟と三国同盟という二つの同盟網を組み合わせて、ヨーロッパの安全保障を維持しようとしたのがビルマルク外交であったが、それにはオーストリアとロシア、オーストリアとイタリアという潜在的な敵対関係を含むという無理があった。果たせるかな、オーストリアとロシアは再びバルカンのブルガリア問題で対立し、新三帝同盟は1887年に延長されることなく消滅した。ビスマルクはそれでもロシアとの提携に固執し、新たにロシアとの二国間同盟を働きかけた。ロシアはアジアでイギリスと対立し、バルカン問題でオーストリア=ハンガリー帝国と対立しているので、ドイツとは事を構えることは出来なかった。そのような二国の利害が一致して同じ1887年、独露間の再保障条約が成立した。
再保障条約の消滅
この条約は1890年に期限が切れたが、その年にビスマルクを辞任させたドイツ帝国のヴィルヘルム2世は、その継続を認めず、再保障条約は消滅した。そのためロシアはドイツに気兼ねせずにフランスに接近するようになり、ビスマルクの恐れたことが現実のものとなる。このような自らの外交構想が崩れたことを受けて、ビスマルクは同年、ヴィルヘルム2世に辞表を提出した。参考 秘密外交の限界
ビスマルクのドイツがロシアとの間で独露再保障条約を結んだことは、一方でオーストリア=ハンガリーとの間で独墺同盟・三国同盟を結んでいた。オーストリアが対立しているロシアとドイツが結ぶことは信義にもとることになるので、この同盟は存在を公表しない秘密条約として結ばれた。安全を保障するための同盟とは言うものの、本質は互いには戦争しないが、どちらかが第三国から攻撃されたら援助するという「軍事同盟」であるからだ。独墺同盟・三国同盟も公然たるものではなく、秘密条約として締結されていた。このような秘密条約はビスマルクの得意とするところであったが、ビスマルクだけでなく、すでに見たようにナポレオン3世とカヴールのプロンビエール密約など、19世紀には秘密外交が横行していた。ビスマルク外交とはこのような秘密外交と秘密軍事同盟で列強間のバランスを維持していこうというものだったが、軍事同盟は敵対する国に存在を分からせないと抑止力にならないわけだから、事実上は公然とされたようだ。しかし、信義も何もなく秘密外交をかさねれば必ず矛盾が生じる。ビスマルク後は、帝国主義間の衝突を軍事同盟によってバランスをとることで回避しようとされていたが、秘密外交は依然として続いていた。この軍事同盟間のバランスが、思わぬ穴から崩れて世界大戦となってしまった。
第一次世界大戦の惨禍を経験した人類が、秘密外交や軍事同盟を否定して、集団安全保障体制を構築しようとしたのが国際連盟であった。その理念はファシズムの台頭で破られ、再び秘密外交が横行し独ソ不可侵条約の秘密条項に代表されるような災禍をもたらした。国際連盟や国際協調主義は、不幸にして第二次世界大戦を防ぐことができなかったが、その弱点を補う措置を執って国際連合を軸とした集団安全保障をめざしたのが、戦後だった。21世紀の現在、前世紀の苦難を忘れずにいたい。現在においてもややもすれば「国益」を優先して秘密外交に走り、強国との軍事同盟に拠って安全を得ようという外交が見られるが、人類はそのような段階は卒業しているということを世界史の学習で理解しよう。