再保障条約/二重保障条約/独露再保障条約
1887年、ビスマルク時代のドイツがロシアとの間で締結した秘密軍事条約。オーストリアに対する安全保障と重なるので再保障、あるいは二重保障条約という。ビスマルク外交の根幹の一つであったが、1890年にヴィルヘルム2世によって延長が拒否され、ビスマルク退陣につながった。
再保障の意味
1887年、ドイツとロシアの間で締結された条約。Treaty of Reinsurance 。再保障(Reinsurance)とは、保障を二重にすることなので二重保障条約ともいう。一般にはドイツ・ロシア間の条約なので「独露」(または露独)をつける。具体的内容は、ドイツがフランスと戦争となった場合はロシアは中立を守り、ロシアがオーストリアまたはイギリスと戦争になった場合はドイツは中立を守ることを約束するという軍事同盟であった。またドイツはロシアのバルカンへの介入を認めた。
これは、ドイツはオーストリアとの間で独墺同盟を結んでおり、そこではロシアがオーストリア・ドイツのいずれかを攻撃してきた場合は両国は共同して戦い、フランスがドイツを攻撃した場合はオーストリアは中立を守る、という規定であったので、ドイツはオーストリアとロシアのそれぞれと間で二重に同盟を結んだことになろ。しかもオーストリアとロシアはバルカンで利害が対立していたので、ドイツがそれぞれの国との同盟することは矛盾していた。そのため、いずれも秘密軍事同盟として締結したのだった。
ねらいは明白で、ドイツとロシアの軍事同盟を結ぶことによって、フランスを牽制し、ロシアとフランスの同盟を阻止することにあり、フランスを孤立させておくという、ビスマルク外交の重要な一環であった。当時は光栄ある孤立を掲げていたもう一つの強国イギリスを牽制することを狙った。
ビスマルクの安全保障構想
ドイツ帝国の成立を普仏戦争の勝利によって実現させたビスマルクは、その後も、フランスを孤立化させるため、列強とのさまざまな同盟関係を結ぶというビスマルク外交を展開した。その重要な柱が、ドイツの東に位置するロシアとの同盟関係によって、少なくとも中立にしておくことであったので、まずオーストリアを加えて三帝同盟を結成した。ドイツとロシアの関係は、露土戦争後の1878年に開催されたベルリン会議では、ビスマルクは「公正なる仲介人」と称しながら、ロシアがサン=ステファノ条約で獲得した権益を廃棄させたことに不満を持った。ドイツ=ロシア関係の回復 ロシアがドイツから離れフランスに接近する動きを見せると、ドイツにとっては東西両面に敵を持つという不利な情勢となるので、ビスマルクは急きょオーストリアに働きかけ、1879年に独墺同盟を結んだ。それでもドイツの安全保障には不十分と考えたビルマルクは、1881年、ロシア・オーストリア=ハンガリーに働きかけ、新三帝同盟(三帝協商ともいう)を結成した。
さらに翌1882年には独墺同盟に、フランスのチュニス進出に反発したイタリアを組み込んで三国同盟を成立させた。こうして、ドイツ帝国を軸とした三帝同盟と三国同盟という二つの同盟網を組み合わせて、ヨーロッパの安全保障を維持しようとしたのがビルマルク外交の仕上げとなった。しかし、それにはオーストリアとロシア、オーストリアとイタリアという潜在的な敵対関係を含むという無理があった。果たせるかな、オーストリアとロシアは再びバルカンのブルガリア問題で対立し、新三帝同盟は1887年に延長されることなく消滅した。
ビスマルクはそれでもロシアとの提携に固執し、新たにロシアとの二国間同盟を働きかけた。ロシアはアジアでイギリスと対立し、バルカン問題でオーストリア=ハンガリー帝国と対立しているので、ドイツとは事を構えることは出来なかった。そのような二国の利害が一致して同じ1887年、独露間の再保障条約が成立した。
ドイツ=ロシア関係の悪化 ビスマルクの親露路線は、その外交抗争の重要な柱であったが、必ずしもドイツ国内で支持されていたわけではなかった。ロシアに対する反発の一つは経済関係で、ドイツがロシアから穀物を輸入することが、穀物価格が低下したことで、ドイツ国内の穀物生産者=ユンカー(地主貴族)の利益に反したことだった。もう一つがドイツがロシアの国債を引き受けていたが、それはロシアの鉄道建設の資金とされていたので、ドイツ軍部の中枢にはそれがロシアの軍事力の増強につながるとして反対する声があった。ユンカーの反露的傾向に押され、ビスマルクは早くも1887年11月にロシア国債の引き受けを阻止する処置をとった。それに対してロシアは反発し、フランスへの接近の動きが出てきた。
再保障条約の不更新
この条約は1890年に期限が切れることになっていたので、それを更新するかどうかが問題となった。ビスマルクは当然更新すべきであると主張したが、1888年に即位した新皇帝ヴィルヘルム2世は、更新に難色を示した。ビスマルクを退任させ、親政を行おうとしたヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法の延長問題でも対立を深めていた。新皇帝の背後には、ロシアからの安価な穀物の流入などに反対するユンカー(土地貴族)や、ロシアとの戦争に備えるべきであるとする軍の主張などがあった。新皇帝の共用によって、1890年3月18日、ビスマルクは辞任した。迷走した「新航路」 ロシア側ではアレクサンドル3世が継続を要求したこともあってので、3月、ヴィルヘルム2世は当初は更新を約束し、「航路はもとのとおり、全速力前進」と表明した。しかし、わずか数日後の3月27日に独露再保障条約の不更新に転じた(軍の要請が強かったものと思われる)。このことからヴィルヘルム2世の外交政策は「新航路」と言われるようになったが、それはビスマルク外交から転換する内容となった。その結果、独露再保障条約は、1890年6月18日に正式に失効した。
露仏同盟へ その反動としてロシアは急速にフランスに接近が急速になり、1891年から露仏同盟が段階的に締結されるようになり、最終的に1894年1月にの締結に至る。
蛇足 秘密外交の限界
ビスマルクのドイツがロシアとの間で再保障条約を結んだことは、一方でオーストリア=ハンガリーとの間で独墺同盟・三国同盟を結んでいたので、信義にもとることになる。そのためこの同盟は存在を公表しない秘密条約として結ばれた。安全を保障するための同盟とは言うものの、本質は互いには戦争しないが、どちらかが第三国から攻撃されたら援助するという「軍事同盟」であった。独墺同盟・三国同盟も公然たるものではなく、秘密条約として締結されていた。このような秘密条約はビスマルクの得意とするところであったが、ビスマルクだけでなく、すでに見たようにナポレオン3世とカヴールのプロンビエール密約など、19世紀には秘密外交が横行していた。ビスマルク外交とはこのような秘密外交と秘密軍事同盟で列強間のバランスを維持していこうというものだったが、軍事同盟は敵対する国に存在を分からせないと抑止力にならないわけだから、事実上は公然とされたようだ。しかし、信義も何もなく秘密外交をかさねれば必ず矛盾が生じる。ビスマルク後は、帝国主義間の衝突を軍事同盟によってバランスをとることで回避しようとされていたが、秘密外交は依然として続いていた。この軍事同盟間のバランスが、思わぬ穴から崩れて世界大戦となってしまった。
第一次世界大戦の惨禍を経験した人類が、秘密外交や軍事同盟を否定して、集団安全保障体制を構築しようとしたのが国際連盟であった。その理念はファシズムの台頭で破られ、再び秘密外交が横行し独ソ不可侵条約の秘密条項に代表されるような災禍をもたらした。国際連盟や国際協調主義は、不幸にして第二次世界大戦を防ぐことができなかったが、その弱点を補う措置を執って国際連合を軸とした集団安全保障をめざしたのが、戦後だった。21世紀の現在、前世紀の苦難を忘れずにいたい。現在においてもややもすれば「国益」を優先して秘密外交に走り、強国との軍事同盟に拠って安全を得ようという外交が見られるが、人類はそのような段階は卒業しているということを世界史の学習で理解しよう。