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ナイティンゲール

イギリス人。19世紀中頃、最初の従軍看護婦としてクリミア戦争に参加。野戦病院での看護を経験して、病院・看護の改革を志す。近代看護と看護教育の創始者である。

ナイティンゲール
Florence Nightingale
1820-1910
 フローレンス=ナイティンゲール Florence Nightingale (1820-1910) は、クリミア戦争に従軍して看護婦として活躍し、国際赤十字創設のきっかけとなった女性としてあまりにも有名である。そのイメージは、戦場でけなげに駆け回り、負傷した兵士を助けた、といったものだが、その伝記を読んでみると、彼女の本領はそんなことではなかった。彼女の生涯には、二つの戦いがあったのだ。イギリスの豊かなジェントルマンの長女として生まれながら、両親や姉の反対を押し切って当時は上流の子女がなるものではないとされていた看護婦の道を選んだという家族や社会の偏見との戦い。もう一つは戦場は男のもので女が入り込む余地はないと従軍看護婦を認めようとしなかったイギリスの軍隊との戦い、であった。
 わずか2年間のクリミア戦争での体験で得た衝撃は、兵士は戦場で死ぬのではなく、病院で病気になって死んでいるという現実だった。またロンドンの病院さえ、当時は医者を家に呼べない貧困者を収容するところであり、薄暗い病院でかえって病気を悪くして死んでいったのだった。そのことに気づいた彼女は、戦場の傷病兵の救済や看護婦の権利の確立に対する発言にとどまらず、病院・医療のあり方や公衆衛生のあり方にも発言していたのだった。敵は社会や軍隊だった。以下、バーバラ=ハーメリンクという人の『ナイチンゲール伝』(1979 西田晃訳 メヂガルフレンド社刊)と長島伸一『ナイチンゲール』(1993 岩波ジュニア新書)から要約した。

家族との戦い

 名前の通りフィレンツェで生まれたが、両親はイギリス人で、長い新婚旅行の途中だった。父のウィリアムはジェントリ階層で財産家だったので、イギリスに戻ったフローレンスも何不自由なく生活することができた。父と母は彼女を社交界にデビューさせ、幸せな結婚をさせることを望んだが、一風変わった少女であったフローレンスは17歳の時「神のお告げ」を受けたと言い出し、貧しい人たちの役に立つ生き方をぼんやりとだが考えるようになった。やがてこの親子のズレは決定的になっていく。フローレンスが看護婦になりたいと言い出したのだ。

看護婦の地位

 看護婦といっても現在のようなイメージではない。1840年代のイギリスでさえ、まだ看護婦の仕事は確立していなかった。看護婦どころか、現在のような病院も存在していなかった。上流階級の人々が病気になれば医者が家まできて診察し、家で療養し、亡くなっていたし、都市の下層階級の人々には家で看病する人がいなければ病院に入ることになるが、それは粗末なベットがぎっしりと並び、風通しが悪く、暖房もない建物で、衛生状態は極端に悪かった。つまり病院は極貧の人が最期に収容されて死を待つところにすぎなかった。看護婦はいたが、彼女たちは私生児を産んだり何らかの事情で家を出た人たちであり、病院に住み込んでいた。彼女たちの仕事は看護というより売春だった。患者たちはアルコールで憂さを晴らし、女を巡って争った。ロンドン警察は病院での殺人や争いをなくすために作られた。ナイティンゲールのような上流の女性が看護婦になるなど、考えられない時代だったのだ。彼女は両親や周辺の強い反対を押し切って、看護婦になろうとしたが、その道も開けず悶々とした青春を過ごした。美しかった彼女にはジェントルマンの青年の何人かが結婚を申し込み、彼女も好意を持った男性もいたが、彼女は結婚しなかった。断わられた青年の一人はその後自殺したという。彼女は看護婦となって医療を改革しようと決心し、その結果、生涯を独身で通すこととなる。

戦場へ

 彼女が初めて本格的に看護の経験を積んだのは、30歳の時、単身ドイツに行ってカイザーヴェルトの病院においてであった。紆余曲折の後、33歳となった1853年、ロンドンのハーリー街の病弱貴婦人のための療養施設で本格的な看護の仕事を開始した。翌1854年、イギリスがクリミア戦争に参戦すると、ロンドンの新聞タイムズが連日戦場の悲惨さを伝え、義捐金を募集し始めた。世論に押されて政府は義捐金を元に看護婦を派遣することにし、ナイティンゲールはそれに応募し、修道女と看護婦の総数38人の看護団を組織して、イスタンブルに向かった。ナイティンゲール自身は国教会信徒であっても宗教には寛容であったが、参加したカトリック修道女の中には看護よりも伝道を使命と考える者もいて、彼女はメンバーをまとめることに苦労することとなる。

スクタリ野戦病院の現実

 看護団は11月にイスタンブルに着き、対岸のスクタリの兵舎病院に入った。近くに陸軍病院があったが、9月にクリミアから送還されたコレラ患者で一杯になり、急きょトルコ軍砲兵隊の兵舎を転用し、10月末のバラクラヴァの戦闘で負傷した兵士を収容するために作られた兵舎病棟だった。急な険しい山道をのぼったところにあり、病院とは名ばかりの荒れはてた建物で、しかも周りにはテントや掘立小屋が立ち並んでいた。それらは兵士たちをあてこんだ飲み屋や売春宿だった。兵舎の部屋は掃除もされず、ノミがはね、ネズミが走り回り、ある部屋にはトルコ兵の死体が放置されていた。

軍との戦い

 しかし、現地にはさらに大きな敵が存在していた。それはロシア軍ではなくイギリス陸軍だった。イギリス陸軍は最初から戦場に看護婦を派遣することに大反対だった。理由は単純で、軍隊の気風が乱れる、ということにあった。そのため現地の将軍もナイティンゲールたちに冷淡というよりも拒絶の態度を隠さず、彼女たちの看護活動を許可しなかった。そのためナイティンゲールたちはこのスクタリの粗末な兵舎を病棟とするしかなかったのだった。病棟に前線から負傷兵が担ぎ込まれるようになっても、看護活動が認められないので、ナイティンゲールたちは病棟の掃除や三角巾を作る仕事くらいしか与えられなかった。ナイティンゲールは根気よく機会を待った。一緒に来た看護婦の中の一人は苦しんでいる兵士を目の前にしているのに看護活動ができないことに憤慨して帰国し、ナイティンゲールを誹謗する投書をしたことがあったり、彼女の苦悩は深くなっていった。1854年の冬、スクタリは厳しい寒さに襲われ、ナイティンゲールは運ばれてくる兵士が満足な看護も受けられないまま死んでいく中で、次第に心身に異常を来たすようになった。

病院の改革

 ところが、戦況の悪化から戦傷者は増える一方であった。ナイティンゲールが冷静に観察すると、兵士のほとんどは戦場のけがで死ぬのではなく、病院の手当が行き届かず、その環境の悪さから死んでいくのがほとんどだった。陸軍の軍医もついにおれてナイティンゲールたちの看護活動を認めた。それからのナイティンゲールの献身的な看護は、後世の語りぐさになるものだった。まずスクタリのシラミとノミ、ネズミの巣だったバラック病院を清潔にし、壁を白いペンキで塗り、風通りをよくして菌の繁殖を防いだ。看護婦たちには茶色い制服と白い看護帽をかぶせた。病院の内外にいる売春婦(兵士について歩き、生きるために売春する女たち)と区別するためだった。また、協力者を得て、彼女たちに仕事を与えるように援助した。またロンドンから志願してきた腕利きの料理人に頼んで病院の食事を一変させた。こうして白いシーツの上で横たわり、熱いスープを口にした兵士たちは、戦場から天国にきた思いを抱いたのだった。タイムズ紙の基金責任者で彼女の協力者であったマクドナルドは書いている。
(引用)(いささかの誇張でもなく、病院の中で)彼女は〝世話をする天使〟です。彼女のすらりとした体が、病棟を静かにすべるがごとくに通っていくと、すべての気の毒な人たちの顔が彼女を見て、感謝の思いでやわらぐのです。軍医たちが、夜になってみんな引き上げてしまい、静かさと暗さが数マイルに及ぶ打ちのめされた病人たちのベッドをおおうしじまの中で、フローレンスがただひとり、小さいランプを手にして、ひとりぼっちの見回りをしているのが見られるでしょう。<ハーメリンク『ナイチンゲール伝』p.92>

鳥嬢の苦悩

 ナイティンゲールの活動はタイムズ紙でロンドンに報じられ、ヴィクトリア女王も賞賛し、本国では彼女の名声は高まった。しかし、陸軍医務局はそれでも従軍看護婦の必要を認めなかった。軍医務局にとっては彼女は全くの嫌われ者で、〝鳥嬢〟とあだ名されていた。軍医たちは、鳥嬢が近づくとそそくさと席を立ってしまい、全く彼女は孤立した。ナイティンゲールは兵士が戦場ではなく病院で死んでいく現状を変えるには、軍の機構や制度、将軍たちの考えを変えなければならない、と思い詰めるようになった。そこで彼女は1855年5月、前線であるクリミア半島のバラクラヴァに赴いて、軍の改革と看護に関する権限を認めてもらおうとしたが、受け入れられず、とうとう彼女自身が倒れてしまった。しかしその年の9月8日、セヴァストーポリのロシア軍要塞が英仏軍によって占領され、ようやく戦争の山を越えた。ナイティンゲールは病をいやして再びクリミア半島に向かい、本国の陸軍次官バンミュア卿の支持を取り付けて、現地の病院の改革に立ち向かった。

ナイティンゲールの見た戦争

 クリミア戦争は、イギリスに戦争には勝ったが軍隊が深刻な問題をかかえていること、それが当時のイギリス社会の根底にある問題と結びついていることを明らかにした。ナイティンゲールはそのような戦争の実態を冷静に見つめ、1855年5月、つぎのように書いている。
(引用)戦争の真のおそろしさはなにか。それはちょっとだれにも想像できないでしょう。それは怪我でもなければ血でもなく、突発熱や体温低下や急性・慢性の赤痢でもなければ寒冷でも酷暑でも飢えでもありません。それは兵卒においては、アルコール中毒と泥酔による蛮行、道徳の低下と乱脈な生活であり、士官においては、ねたみあいと卑劣な陰謀、無関心と利己的な行動、これらこそが戦争の真のおそろしさなのです。<長島伸一『ナイチンゲール』p.114 孫引>

帰国

 1856年3月、パリ講和会議で講和が成立し、戦地の病院は閉鎖となり、ナイティンゲールも帰国した。36歳の彼女はすでに有名人になっていて、各地で歓迎されたけれど、彼女自身は、看護婦たちを統率できなかったこと、軍医務局を敵に回したこと、そして多くの兵士が戦場の傷で死んだのではなく、病院でかかった病気で死んでいくのを防げなかったことに強い悔恨の情を抱いていた。激しい涙とともに、自分の今後の生命を、軍隊の医療体制を変更させ、戦場での病院の改善と従軍看護婦を認めさせるという軍制の改革と、看護婦の養成のための学校を作ることに捧げようと決意した。しかし、2年間のトルコでの生活はすっかり彼女の体をむしばんでいた。その後の約50年間は、彼女はほとんどベッドの中で暮らすこととなったが、ひたすらペンを取り、あるときは陸軍を批判するパンフレットを発表したり、ヴィクトリア女王の権威を利用して役人に圧力をかけるなどの手を使いながら、改革を進めようとした。政治家の中にもそれに賛同するものも現れ、軍の医療体制は徐々に改善されていった。彼女は自説を根拠づけるために統計を取り、レポートにグラフを入れて説明した。彼女は統計学の先駆者としての仕事もしているのだ。

看護婦学校を創設

 彼女は父の遺産をつぎ込んで1859年に聖トマス病院付属のナイティンゲール看護婦学校を開設した。1860年6月、15人の生徒から始まった看護婦学校では、なおも「看護婦」という名称にまつわる評判と戦わなければならなかった。そのため、入学者は厳しく選考し、能力も道徳的にも非の打ち所がないことが求められた。ふまじめな恋愛事件は、どんなものであっても即座に退学、医学生とのデイトも厳禁、外出は制服着用し二人一組でなければならなかった。ナイティンゲールはソファーの上から鏡台の引き出しの使い方まで娘たちを監督した。日記を持ってこさせ、誤字の訂正までしてやった。1年のコースが終わると、イギリス中からこの若い看護師たちにきてもらいたいという申し込みが殺到した。ナイティンゲールは他の看護師を教えることができる看護師にしたいと考えていたのだ。

インドの戦争と貧窮院改革

 そのころ、インドではいわゆるシパーヒーの乱(インド大反乱)が起こっており、インドにおける兵士の状況の悪さが問題になっていた。ナイティンゲールは全インド陸軍駐屯地にアンケート調査を行い、その「現地報告書」で現地のイギリス兵の劣悪な状態とともにインド人の悲惨な有様を知ることとなった。ナイティンゲールはレポートを印刷してインド駐留の全将校に送り付け、タイムズ紙で広報活動を行った。政府もようやくインド公衆衛生局を設置することを認めた。また国内の救貧院の付属病院の衛生状態の悪さ、チフスの温床になっていることを告発し、1867年には救貧法の改正を実現させた。これは不十分なものであったが、救貧院からすべての子どもたちと病人を分離することができた。

晩年

 ナイティンゲールは、看護婦の権利のためには戦ったが、女は医者になるべきではないと考えていた。またそのころ高まってきた女性の権利としての女性参政権運動にも参加しなかった。自分自身が実例であり、女性でも十分な準備をすれば自分の望んでいる仕事は与えられると言っていたが、ナイティンゲールの成功は彼女の社会的地位と富のしからしむるところだったのであり、それなくしては彼女といえども何事も成し遂げることはできなかっただろう。1896年からは寝室から出ることはなくなり、1901年には全盲になった。1907年、女性としては初めてメリット勲位を授けられ、1910年にはロンドン自由市民権を与えられた。その年8月13日、90歳の生涯を閉じた。<バーバラ=ハーメリンク/西田晃訳『ナイチンゲール伝』1979 メヂガルフレンド社刊>

国際赤十字の発足

 クリミア戦争を体験したナイティンゲールが、戦病死者の悲惨な状況を告発し始めたころ、1859年6月のイタリア統一戦争でのソルフェリーノの戦いの戦場にいたスイス生まれのアンリ=デュナンは、同じような体験をして、ナイティンゲールの訴えに共感した。デュナンはその体験から戦場の負傷兵を敵味方なく救援する団体の設立を訴え、1864年国際赤十字が発足した。
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書籍案内

バーバラ=ハーメリンク
/西田晃訳
『ナイチンゲール伝』
1979メヂガルフレンド社刊

ナイティンゲールが何と戦ったか、を教えてくれる。ロマンチックな伝記ではなく、歴史書として読める。

長島伸一
『ナイチンゲール』
1993 岩波ジュニア新書

近代イギリス社会史を専門とする歴史家による評伝。ジュニア向けにとどまらず、ナイチンゲールが闘った当時のイギリス社会にも詳しく触れ、まともな伝記となっている。