トマス=クック
1851年、ロンドン万博に際して団体旅行を企画実施し、近代旅行業を開拓した。その後ヨーロッパ向け海外旅行を手広く実施し、イギリスの海外進出とも結びついて大きな旅行社に成長させた。
1851年に、世界最初の万国博覧会であるロンドン万国博覧会が開催されると、クックは安価な鉄道・馬車の交通費とロンドンでの宿泊代を組み合わせた旅行商品を売り出し、大成功した。その後も、ヨーロッパ向けの海外旅行などの企画を次々と成功させ、旅行業という業務を一般化させた。51年は他に、海底電信ケーブルの英仏海峡での敷設や、ロイターによるロイター通信社の創業など、現代につながる通信・交通産業が登場した記念すべき年となった。
その後、トマス=クックは前述の1851年のロンドン万博で大成功を収め、さらに55年のパリ万博から海外旅行を手がけ、アメリカ大陸横断鉄道の旅やスエズ運河利用の船旅などを次々と成功させてた。こうしてトマス=クック社は世界最古の、そして最大の旅行社に成長した。<本城靖久『トーマス・クックの旅』1997 講談社現代新書 p.8-12>
トマス=クックは1808年、イギリス中部のダービーシャーで生まれたが、3歳で父が亡くなり、貧しい中で育った。園芸家や家具師、印刷業の徒弟として働くうちに、多くの労働者が飲酒で身を持ち崩していくのを見て禁酒運動に投じた。彼の団体旅行も禁酒運動でのボランティア活動として始まったものだった。同時に、普及し始めた鉄道を使った旅行が一部の富裕層のものであったものを、誰でもが利用できるようにしたいという願いもあった。このようにクックの団体旅行は禁酒運動と貧しい人たちの為に始まったと言えるが、次第に事業を拡張して海外旅行が主力になると、次第にその顧客は富裕層に偏るようになり、フランス旅行の際にはワインを提供することも黙認しなければならなくなった。
クック社はそのころから創業者のトマスに代わり、長男のジョン=メイスンが仕切るようになるが、まさに19世紀末にイギリス帝国主義が確立すると、クック社はエジプト、インドと言ったイギリス植民地への団体旅行を実施し、大英帝国の国策会社といった感を強めていった。<本城靖久『同上書』 p.185->
1872年、フランスの作家ジュール=ヴェルヌが『八十日間世界一周』の連載を開始したのとほぼ同時、その年の5月にトーマス=クック社も世界一周ツアーを企画、クック自身が添乗して9月26日にリバプールを出発している。13日間で大西洋を横断、大陸横断鉄道で途中ホテル泊と7泊の車中泊(寝台車、食堂車)でロサンゼルスに到着。24日の船旅で太平洋を横断して横浜に上陸。クックは日本が清潔なこと、瀬戸内海が快適だったこと、牛肉が美味しかったことなどを書き残している。その後、上海、香港、シンガポール、セイロンと回り、カルカッタに上陸。インドを3週間、専用車両の鉄道旅行を行い、ボンベイから船でアデンを経てスエズ運河を通り、カイロで解散する、というコースだった。クックは地中海各地を経てロンドンに222日で戻っている。その後も世界一周旅行はクック社の専売のような企画として何度も行われるようになる。<本城靖久『同上書』 p.160,189-199>
近代イギリスの発展と共に生まれ、大英帝国の繁栄を支え、また支えられて拡大してきたクック社は、第二次世界大戦後、90年代まで国営だった時期もある。しかし、2000年代に入り、旅行形態が大きく変化し、団体旅行より個人がネットでチケットやホテルを自由に取って海外旅行に行くようになったことが、恐らく要因であろう、栄光のクック社も時代の趨勢に勝てなかったと言うことか。一企業の栄枯盛衰も世界史の一コマと言える。
世界史教育でも「東西交流」や「ネットワーク」、人々の移民・移動などが好んで取り上げられた1900年代にはトマス=クックの名も教科書でみることがあった。そのころは山川世界史用語集でも取り上げられていたが、最新版からは見られない。世界史教科書ではクックの名はいち早く消えていた。
トマス=クック、最初の団体旅行
1841年7月5日朝、イギリスの地方都市レスターの鉄道駅に485人のメンバーが集まり、ブラスバンドに見送られて臨時列車に乗り組み、18キロ離れたラフバラーまで旅行した。一行は禁酒大会に出席する団体で、会場の公園に着くとハム・サンドウィッチで昼食をとり、町中を行進、公園に戻ってティータイムを楽しみ、夕方からは禁酒を讃えるスピーチが続いた。夏の遅い日没で充分に楽しんだ一行はその日のうちにレスターに帰った。これが32歳のトマス=クックが組織した世界最初の団体旅行だった。料金は1シリングだった。その後、トマス=クックは前述の1851年のロンドン万博で大成功を収め、さらに55年のパリ万博から海外旅行を手がけ、アメリカ大陸横断鉄道の旅やスエズ運河利用の船旅などを次々と成功させてた。こうしてトマス=クック社は世界最古の、そして最大の旅行社に成長した。<本城靖久『トーマス・クックの旅』1997 講談社現代新書 p.8-12>
トマス=クックは1808年、イギリス中部のダービーシャーで生まれたが、3歳で父が亡くなり、貧しい中で育った。園芸家や家具師、印刷業の徒弟として働くうちに、多くの労働者が飲酒で身を持ち崩していくのを見て禁酒運動に投じた。彼の団体旅行も禁酒運動でのボランティア活動として始まったものだった。同時に、普及し始めた鉄道を使った旅行が一部の富裕層のものであったものを、誰でもが利用できるようにしたいという願いもあった。このようにクックの団体旅行は禁酒運動と貧しい人たちの為に始まったと言えるが、次第に事業を拡張して海外旅行が主力になると、次第にその顧客は富裕層に偏るようになり、フランス旅行の際にはワインを提供することも黙認しなければならなくなった。
普仏戦争とパリ戦災見物ツアー
1870年7月、普仏戦争が始まると、イギリス人のヨーロッパツアーもストップになった。プロイセン軍がパリを包囲、パリで食糧難が深刻になると、ロンドンでもパリを救え、という声が起こった。トマス=クックの息子で会社の経営に参加していたジョン=メイスン=クックは、パリへの食糧輸送を請け負い、自社の船舶を提供し、自らもパリに赴いた。71年1月25日に停戦になると苦労してパリに入り、食糧を届けけると、すぐにロンドンに引き返し、パリの戦災見物ツアーを計画した。四ヶ月以上の包囲戦で苦しめられたパリを見物したいという野次馬が多いだろうという目論見は的中し、150人の団体を引率して再びパリに向かっている。<本城靖久『同上書』 p.182->大英帝国とトーマス・クック社
1884年、エジプト領スーダンでマフディーの反乱が起こり、ハルトゥームが包囲された。ハルトゥームで籠城するゴードン将軍を救援するためイギリス政府は大部隊を派遣することにしたが、その運搬を引き受けたのが、ナイル川観光を一手に引き受け多数の船舶を所有していたトーマス・クック社だった。クック社のナイル船隊はフルに動員され、1万8千のイギリス兵や軍需物資を3000kmのナイルを遡って運んだ。この援軍は3日遅れたため、ゴードンを救出することはできなかったが、クック社とイギリス軍の関係はこれを機に密接になった。クック社はそのころから創業者のトマスに代わり、長男のジョン=メイスンが仕切るようになるが、まさに19世紀末にイギリス帝国主義が確立すると、クック社はエジプト、インドと言ったイギリス植民地への団体旅行を実施し、大英帝国の国策会社といった感を強めていった。<本城靖久『同上書』 p.185->
トマス=クックの世界一周旅行
1869年にスエズ運河が開通するとレセップスの知人であったトマス=クックは開通式に招待され、さっそくツァーを計画した。さらに同じ年、大陸横断鉄道が開通すると、クックは「同じ名前の人(1768年以来、何度か世界周航を成功させたクックのこと)が昔やったように」世界周航を企画した。1872年、フランスの作家ジュール=ヴェルヌが『八十日間世界一周』の連載を開始したのとほぼ同時、その年の5月にトーマス=クック社も世界一周ツアーを企画、クック自身が添乗して9月26日にリバプールを出発している。13日間で大西洋を横断、大陸横断鉄道で途中ホテル泊と7泊の車中泊(寝台車、食堂車)でロサンゼルスに到着。24日の船旅で太平洋を横断して横浜に上陸。クックは日本が清潔なこと、瀬戸内海が快適だったこと、牛肉が美味しかったことなどを書き残している。その後、上海、香港、シンガポール、セイロンと回り、カルカッタに上陸。インドを3週間、専用車両の鉄道旅行を行い、ボンベイから船でアデンを経てスエズ運河を通り、カイロで解散する、というコースだった。クックは地中海各地を経てロンドンに222日で戻っている。その後も世界一周旅行はクック社の専売のような企画として何度も行われるようになる。<本城靖久『同上書』 p.160,189-199>
NewS トーマス・クック社の倒産
2019年9月23日、トーマス・クック社が倒産した、というニュースが飛び込んできた。世界最古の旅行会社であり、全世界に支店を持って多くの旅行者に利用されていたので、突然の破産は世界を驚かせた。2億4900万円の資金確保に失敗し、60万人と言われる旅行客が足止めを食らったという。イギリスだけでなく、世界で最も有名な旅行代理店が、178年目にしていきなり幕引きとなり、多くの従業員が仕事を失い、利用者が旅先でとまどっている。ロイター通信は、「平和な時代にイギリスで起きた最大の本国帰還作戦」と伝えている。 → ビジネスインサイダー ホームページ 世界最古の旅行代理店が倒産 にクック社の栄枯盛衰がまとめられている。近代イギリスの発展と共に生まれ、大英帝国の繁栄を支え、また支えられて拡大してきたクック社は、第二次世界大戦後、90年代まで国営だった時期もある。しかし、2000年代に入り、旅行形態が大きく変化し、団体旅行より個人がネットでチケットやホテルを自由に取って海外旅行に行くようになったことが、恐らく要因であろう、栄光のクック社も時代の趨勢に勝てなかったと言うことか。一企業の栄枯盛衰も世界史の一コマと言える。
世界史教育でも「東西交流」や「ネットワーク」、人々の移民・移動などが好んで取り上げられた1900年代にはトマス=クックの名も教科書でみることがあった。そのころは山川世界史用語集でも取り上げられていたが、最新版からは見られない。世界史教科書ではクックの名はいち早く消えていた。