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フエ条約(ユエ条約)

1883年と84年にフランス(第三共和政)がベトナムの阮朝と締結した、ベトナム(アンナンとトンキン)を保護国とする条約。

 フエは当時の北部と中部のベトナムを統治していた阮朝の都。ベトナムがフランスの植民地だった時代にはフランス語の発音でユエと表記されていたが、ベトナム語の発音ではフエが正しい。従ってユエ条約と表記すべきである。
 この地でベトナムとフランスの間で締結されたフエ条約には第1次と第2次の二段階があるが、ともにベトナム(厳密に言えばアンナン=中部ベトナムとトンキン=北部ベトナム)がフランス保護国とされた条約である。ただし、トンキンには形式的に阮朝の統治権が残ったので、半保護国といえる。
 フランスのナポレオン3世(第二帝政)は1858年のインドシナ出兵でインドシナ侵略を開始し、サイゴン条約カンボジア保護国化をへて、第三共和政の時期に、この二次にわたるフエ条約でベトナム保護国化に行い、1884年の清仏戦争で清の抗議を退け、1887年に「フランス領インドシナ連邦」を成立させることとなる。

第1次フエ条約

 1883年8月25日条約、あるいはアルマン条約(アルマンとはフランスからフエに派遣された討伐軍司令官の名前)とも言われる条約で、フランス(第三共和制)とベトナム(フエの阮朝政府)との間で締結された。北ベトナム進出をめざしたフランスと、黒旗軍の参加で抵抗を続けるベトナムとの間で締結された和平条約であり、また本条約ではない仮条約であるとされたが、ベトナムに著しく不利な内容で、「アンナン(安南)はフランスの保護国である」とされた。アンナンとはベトナム政府が称していた国号である。また一部をフランス領となっているコーチシナに編入し、首都フエにはフランスの理事官を置く、関税と土木はフランスが管理するというものであった。

第2次フエ条約

 1884年6月、第1次フエ条約では明確ではなかった保護の内容について規定した。この条約でベトナム(阮朝)は、「安南国はフランスの保護国であることを承認」し、「フランスは一切の対外関係において安南国を代表する」「フランス国政府を代表する総督は安南国の外交関係を統括し、保護権を行使する」ことなどを認めた。これによって、ベトナム保護国化は確定した。

清仏戦争

 フエ条約でフランスが阮朝のベトナムを保護国としたことを宗主国である清朝は認めず、1884年6月に清仏戦争となった。清国軍は黒旗軍の活躍もあってねばり強く戦い、一時は有利に進めたが、清朝政府の西太后李鴻章は朝鮮情勢の悪化もあって、翌85年6月、天津条約を締結した。これによって、フエ条約で阮朝が認めたベトナム保護国化を清朝も認めることになり、清朝はベトナムに対する宗主権を喪失した。
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