威海衛
中国、山東半島の港で、清の北洋艦隊の根拠地。日清戦争の威海衛の戦いで敗れ北洋艦隊は壊滅。列強による中国分割が進み、1898年、イギリスが清に25年間の租借を認めさせ東洋艦隊の拠点とした。
威海衛の位置
日清戦争 北洋艦隊の壊滅
日清戦争における日本海軍との海戦、1894年9月17日の黄海海戦で敗れた北洋艦隊は、司令官(北洋水師)丁汝昌の判断で、拠点港としていた威海衛に待避した。日本の陸軍は同年10月に鴨緑江を越えて清の領土に侵攻、次いで遼東半島に進撃をつづけ、その一環として11月に旅順を占領した。その際の虐殺行為にたいする国際的非難が起こるとともに、イギリスによる和平仲介も始まると言う状況となった。伊藤博文首相は講和を有利に進めるために山東半島に進出し、北洋艦隊の拠点の威海衛を攻略することと、領土獲得の前提として台湾・澎湖島を占領を目指すことに戦略を転換した。山東作戦・威海衛作戦は12月14日に決定された。翌1895年1月、大連・旅順から陸上部隊が山東半島先端の栄城湾に上陸し、威海衛に向かった。
威海衛の要塞は日清開戦後に強化され、北岸に11個、南岸に7個、港外の島々に5個の砲台に24センチ・カノン砲をはじめ161門の大砲と機関砲が設置されていた。北洋艦隊の艦船は湾内に停泊し、防材を設置して日本艦艇、特に水雷艇の侵入を防いでいた。1月30日、日本軍は攻撃を開始、南岸の砲台を占領したが旅団長を含む209名が死傷する苦戦となった。翌日、北岸の砲台も占領したが、北洋艦隊の漢城からの砲撃で被害も多かった。2月3日から日本の連合艦隊が砲撃を開始、水雷艇が侵入して、定遠・威遠・来遠などを撃沈した。主力艦を失った北洋艦隊の司令官丁汝昌は北京の李鴻章に降伏する旨を打電し、服毒自殺、これによって北洋艦隊は壊滅した。3月には遼河会戦での勝利、澎湖島への上陸と日本軍の優勢が決定的となって、1895年年4月、下関講和会議の開催となり、下関条約が締結されて終戦となった。<大谷正『日清戦争』2014 中公新書 p.150-152 などにより構成>
参考 戦場ジャーナリスト国木田独歩
この日清戦争の決定的な転換点となった威海衛の戦闘に、国民新聞の従軍記者として日本海軍の軍艦千代田に乗船した国木田独歩は、詳しく威海衛の戦いを報告した。これは『愛弟通信』(同じく国民新聞記者で日本に残っていた弟収二への手紙という体裁を採った)として紙面を飾り、国木田独歩(まだ哲夫を名のっていた)をジャーナリストとして有名にし、後に『武蔵野』など自然主義の作家として知られるようになって、本として出版された。独歩は、いわば戦場ジャーナリストとして世に出たのだった。<国木田独歩『愛弟通信』1990 岩波文庫> → 北洋艦隊の項参照1898年、イギリスが租借
1898年、列強による中国分割の進む中で、イギリスは威海衛を25年間の租借地として清朝政府に認めさせ、イギリス東洋艦隊の基地とし、さらに山東半島を勢力圏とする際の拠点とした。イギリスが威海衛を押さえたのは、対岸の遼東半島の旅順・大連をロシアが獲得したことに対する対抗上必要と考えたことがあげられる。なお、威海衛は1930年に中国に返還された。イギリスはこの時、香港に隣接する九竜半島北部地域(新界)も99年間の租借に成功している。この1898年はアメリカ合衆国が米西戦争でフィリピンその他を植民地化、イギリスとフランスはアフリカのファショダ事件でにらみ合い、さらに翌1899年にはイギリスが南アフリカのブール人の国家に対する侵略攻勢を開始し南アフリカ戦争が始まるという、帝国主義による世界分割が進行した年であった。
日本にとっては台湾・澎湖島を割譲させたものの、日清戦争で清と戦って勝利したところである旅順・大連はロシアに、威海衛はイギリスに押さえられたことで「獲物を奪われた」感をもち、敵愾心を燃やすことになり、自らも帝国主義競争に割り込んでいくという方向となった。