日露協約
日露戦争後の1907~16年、4次にわたる日本とロシアの東アジアでの帝国主義的勢力分割協定。主としてアメリカの満州進出に対抗する秘密軍事同盟であった。当初は満州を分割する協定であったが、第3次で内モンゴル分割などに対象を広げた。
日露戦争は1905年9月、ポーツマス条約の締結によって講和となり、ロシアは満州北部は確保したものの、大方針であった満州南部から朝鮮半島方面への進出の道は閉ざされた。アジア方面での南下をあきらめたロシアは、その目標をバルカン方面に集中する。そのため、中国での権益を維持しつつ、日本との衝突をさけることを得策と考え、フランスの斡旋を得て1907年7月、日露協約(第1次)を締結した。一方、日本は日露戦争後に批判を強めるアメリカに対抗する必要上、ロシアと結ぶことを良しとして協商関係が成立した。従ってこの協約の基本的な性格は、満州・朝鮮・モンゴル方面における日本とロシアの基本権益をアメリカ(及びイギリス)から守るための帝国主義的勢力圏分割協定と言うことが出来、その内容は秘密協定とされた。その後、辛亥革命の勃発、第一次世界大戦という情勢に応じて4次にわたって改定され、最終的には1916年の第4次においては日露同盟とも言われる軍事同盟にまで深化したが、1917年のロシア革命の勃発によって消滅した。
第1次日露協約の成立の背景 反露感情の残る日本には日露協約(日露協商とも言う)締結には消極的であったが、それを背後から推したのがフランスだった。フランスは当時ドイツとの対立が深刻になっていたので、英仏協商に続いて英露協商が成立することを強く望んでいた。日英同盟を結んでいる日本がロシアと協調しなければイギリスは動けない。そこでフランスは盛んに日本にロシアとの協約締結を勧めた。その時切り札になったのは、日露戦争後で財政が厳しい日本に対し、フランスとイギリスがその国債を引き受けるという条件であった。フランスは半ば脅迫的に財政支援を餌に日本にロシアとの提携を迫り、日本も実利を取って日露協約に踏み切り、英露協商と共に1907年に成立した。このように世界情勢が日本外交にも密接に結びついていた。<岡義武『国際関係史』1955 再版 2009 岩波現代文庫 p.130 などによる> → 日仏協約
アメリカの反発 1905年にセオドア=ローズヴェルト大統領の調停で戦争を終わらせ、さらに同年、桂=タフト協定を締結し、日本の韓国とアメリカのフィリピンをそれぞれ権益と認めたので、関係は良好であった。日本が南満州鉄道敷設権を獲得すると、アメリカの鉄道王と言われたハリマンは共同計画を持ちかけ、桂・ハリマン協定が締結されたが、小村寿太郎外相の強硬な反対でその協定は取り消された。アメリカは門戸開放を主張して満州方面への進出を強めたので、日本はロシアと結んで日露協約を成立させた。これによって日露の満州分割がなされることを警戒したアメリカは強く反発し、おりからカリフォルニアで強まっていた日本人移民排斥運動と結びついて反日感情が強まった。1908年、駐米公使高平小五郎と国務大臣ルートとの間の高平・ルート協定で日本は太平洋地域の現状維持・中国での門戸開放、機会均等を認め鎮静化を図った。同協定では、満州に関してはアメリカは日本の特殊権益を暗黙の了解を与えたと捉えられたが、その後も1909年の満鉄中立化計画など利害の対立が続いた。
第1次日露協約
1907(明治40)年7月、日露両国が清国から得た権益を相互に尊重することを定め、秘密条項で満州のハルビンと長春の中間点を境界として北満州をロシアの、南満州を日本の勢力圏とし、外蒙古のロシアの特殊権益を日本が認め、日本と韓国との共通利害関係にあることをロシアが認めることを定めた。日本はこの協定によってロシアから承認されたとして、韓国併合を進め、1910年8月に実現した。第1次日露協約の成立の背景 反露感情の残る日本には日露協約(日露協商とも言う)締結には消極的であったが、それを背後から推したのがフランスだった。フランスは当時ドイツとの対立が深刻になっていたので、英仏協商に続いて英露協商が成立することを強く望んでいた。日英同盟を結んでいる日本がロシアと協調しなければイギリスは動けない。そこでフランスは盛んに日本にロシアとの協約締結を勧めた。その時切り札になったのは、日露戦争後で財政が厳しい日本に対し、フランスとイギリスがその国債を引き受けるという条件であった。フランスは半ば脅迫的に財政支援を餌に日本にロシアとの提携を迫り、日本も実利を取って日露協約に踏み切り、英露協商と共に1907年に成立した。このように世界情勢が日本外交にも密接に結びついていた。<岡義武『国際関係史』1955 再版 2009 岩波現代文庫 p.130 などによる> → 日仏協約
アメリカの反発 1905年にセオドア=ローズヴェルト大統領の調停で戦争を終わらせ、さらに同年、桂=タフト協定を締結し、日本の韓国とアメリカのフィリピンをそれぞれ権益と認めたので、関係は良好であった。日本が南満州鉄道敷設権を獲得すると、アメリカの鉄道王と言われたハリマンは共同計画を持ちかけ、桂・ハリマン協定が締結されたが、小村寿太郎外相の強硬な反対でその協定は取り消された。アメリカは門戸開放を主張して満州方面への進出を強めたので、日本はロシアと結んで日露協約を成立させた。これによって日露の満州分割がなされることを警戒したアメリカは強く反発し、おりからカリフォルニアで強まっていた日本人移民排斥運動と結びついて反日感情が強まった。1908年、駐米公使高平小五郎と国務大臣ルートとの間の高平・ルート協定で日本は太平洋地域の現状維持・中国での門戸開放、機会均等を認め鎮静化を図った。同協定では、満州に関してはアメリカは日本の特殊権益を暗黙の了解を与えたと捉えられたが、その後も1909年の満鉄中立化計画など利害の対立が続いた。
第2次日露協約
1910年に更新。秘密協定で相互の勢力圏における特殊権益の確保のために両国が協調することを定めた。背景にはその前年、アメリカの国務長官ノックスが満州鉄道中立化計画を打ち出し、米・日・英・仏・独・露・清の7ヵ国による満鉄経営の提案したことに対し、日露両国が満州での権益を脅かされると反発したことであった。なおアメリカの満鉄中立化提案は日露の他、英仏も反対したため実現しなかった。第3次日露協約
1912年に更新。中国で辛亥革命が起こり、清朝が倒れるという新情勢に対応し、対象範囲を満州から広げ、モンゴルと中国西部に及ぼし、内モンゴルは権益を東西に分割した。その背景には1911年のアメリカなどの四国借款団が幣制改革、産業開発のために清朝に対して借款を申し入れたことにある。アメリカの狙いは借款を通して満州に浸透しようとするものであったので、それに対する中国民衆の反対運動から辛亥革命にまで突きすすみ清朝が倒れたことに対応したものであった。日露両国にとって、アメリカの侵出を阻止するとともに、帝政を倒した革命運動が両国に及ぶことにともに警戒するという一致点があった。(引用)日露の交渉は、明治45(1912)年1月から開始され、7月8日に妥結し、第三回日露協商として調印された。これにより南・北満州での日露両国の勢力範囲の分界線が全面的に確定され、同時に内蒙古を東経116度27分で東西に二分し、それぞれ東部を日本、西部をロシアの勢力範囲とすることを申し合わせた。こうして日露両国は、第三国の領土内で三度目の秘密協定を結び、それを通じて両者の提携を深めたのである。<島田俊彦『関東軍』中公新書 p.20>
第4次日露協約
1916年、第一次世界大戦中に更新。それまで相互に承認した中国での権益を守るため、相互に軍事援助を行うという秘密相互援助条約とした。軍事同盟にまで深化したのでこの段階で日露同盟と言う場合もある。しかし翌1917年、ロシア革命が勃発し、十月革命で権力をにぎったレーニンが平和についての布告で秘密条約を暴露、旧ロシア帝国の締結した条約を廃棄したので消滅した。補足
日露戦争後に、日本とロシアが何事もなかったように手を結んだことは忘れられがちであるが、この戦争が帝国主義国の冷酷な計算の上でなされた戦争であったことを示しているのであり、考えておく必要がある。ロシアとの間で満州分割を行った日本は、ロシア革命で帝政ロシアが崩壊したことを、その満州支配を排除し、あわよくばシベリアまで支配権を拡大できると考えて実行したのが、1918年のシベリア出兵であった。