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リープクネヒト

カール=リープクネヒトはドイツ社会民主党左派の理論家で第一次世界大戦に反対し、1916年、スパルタクス団を結成。1919年、ドイツ革命に失敗し、殺害された。

 カール=リープクネヒト Karl Liebknecht 1871-1919 はドイツ社会民主党左派の理論家であったが、ローザ=ルクセンブルクと同じく第一次世界大戦に反対して社会民主党から分離して1916年、スパルタクス団を結成した。1918年11月のドイツ革命の蜂起を指導したが、政権をとった社会民主党政府によって捕らえられ、1919年1月、殺害された。このとき、スパルタクス団はドイツ共産党と改称された。

父 ヴィルヘルム=リープクネヒト

 カールの父ヴィルヘルム 1826-1900 もドイツの初期の社会主義者として重要で、ドイツの三月革命に参加して投獄され、出獄後の1850年にロンドンに亡命、そこでマルクスエンゲルスに会って社会主義運動に加わることとなった。ドイツに戻ってからはプロイセン政府からは追放され、ライプツィヒに移り、ベーベルらとともに1869年にドイツ社会民主労働者党(アイゼナハ派)を創設した。翌年勃発した普仏戦争に対して反対を主張したがビスマルク政権の下で大逆罪に問われ、1872年に投獄された(1874年まで)。
 1875年にラサール派と合同してドイツ社会主義労働者党を結成したが、ビスマルク政権が社会主義者鎮圧法を出したため非合法活動となった。それでも労働者の支持を受け、1867年にはプロイセン下院議員、74年からはドイツ帝国議会議員を務めた。1890年にビスマルクが退陣して鎮圧法が期限切れになると、ドイツ社会主義労働者党は公然化し、ドイツ社会民主党を名のった。ラサール派との合同に際して発表したゴータ綱領はマルクスから厳しく批判されたが、その後は現実的な社会民主主義路線を歩み、一方ではベルンシュタインらの修正主義には反対した。その子のカールも社会主義者として活動、親子二代でドイツ社会主義運動を推進した。

子 カール=リープクネヒト

 ヴィルヘルム=リープクネヒトの子。ライプツィヒに生まれ、ライプツィヒ、ベルリンの両大学で法律を学び弁護士となる。早くから社会主義者として活動し社会民主党に属し、1908年にプロイセン下院議員、1912年にドイツ帝国議会議員となる。1914年12月、ドイツの第一次世界大戦をウィルヘルム2世が決定し戦費調達のために戦時公債発行を議会に諮ると、社会民主党は党議として戦争支持を決定していたが、リープクネヒトは第1回目の時は棄権し、第2回ではただ一人反対票を投じた。1915年の戦時公債募集の議決では、20名の社会民主党員が反対票を投じ、戦争反対派が一定の勢力となったことを示した。
 こうして社会民主党は戦争支持派(城内平和維持派といわれた)と戦争反対派に分裂、リープクネヒトはローザ=ルクセンブルクとともに1916年に組織したグループ、スパルタクス団を中心に、1917年新たにゴータで独立社会民主党を結成した。独立社会民主党は反戦を掲げて党勢を伸ばしたのに対し、1918年11月3日、キール軍港の水兵反乱からドイツ革命が始まると、シャイデマンやエーベルトらの社会民主党穏健派はドイツ共和国を宣言、それに対してリープクネヒトらはドイツ自由社会主義共和国を宣言した。さらに12月30日、リープクネヒトとルクセンブルクらはドイツ共産党を結成、1919年1月5日、武装蜂起に起ちあがったが、権力を維持しようとした社会民主党政権は軍部とも手を結んで共産党を弾圧、社会民主党員のノスケが指揮する反革命義勇軍によって二人は捕らえられ、1919年1月15日に殺害された。
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