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武漢国民政府

国共合作のもと、1927年に広東国民政府が本拠を武漢に移した。蔣介石が上海クーデタ後に共産党を排除して南京国民政府を樹立すると国共合作を継続して対立したが、武漢政府でも左右両派の対立が生じ、同年7月15日、共産党の排除を決定し、第一次国共合作が終わった。

 中国国民党国民政府として最初に樹立された広東国民政府(広州国民政府)は、北伐が進んで長江流域を制圧したので、1927年1月に武漢に移転することとなり、武漢国民政府が活動を開始した。
 北伐を開始した国民革命軍の湖南方面に向かった西路軍は、1926年10月10日に軍閥の呉佩孚軍を破り、武漢(武昌)を占領した。広州国民政府は、順次拠点を北方に進出させようとして、政府の武漢移転を決定した。しかし、北伐軍の中路軍を率いて南昌を占領した蔣介石は、政府を南昌に移すことを主張し、国民政府内に対立が生じた。武漢移転を主張したのは国民党左派と共産党であり、蔣介石と右派が強大になるのを警戒したのだった。結局、このときは蔣介石が折れ、1927年1月1日、国民政府は武漢に移り、武漢を首都とすることとなった。
武漢の租界、自力回収  北伐軍が迫ると長江流域に多くの権益をもつイギリスは警戒を強め、1926年9月には上流の万県で北伐軍に砲撃を加えたため、中国民衆の反英感情が強まった。武漢政府が成立した1927年1月初め、イギリス租界で反英宣伝をしていた中国人が銃撃されたことから激しい反英闘争が起こった。デモ隊がイギリス租界に突入したことを受け、1927年1月5日、武漢国民政府とイギリス軍の交渉が行われ、イギリスは租界の返還に同意した。同様に九江の租界も返還され、民衆の行動と国民政府の交渉ではじめてイギリスの租界を中国が自力で回収したことは反帝国主義の戦いの成果として内外に大きな衝撃を与えた。 → 不平等条約の撤廃
 武漢国民政府は1927年2月21日に正式に移転を完了、この武漢政府は第1次国共合作のもとで、国民党左派の汪兆銘(汪精衛)を中心とし、共産党員も加わり、北伐軍を基盤とする蔣介石らの右派と次第に対立するようになっていった。

上海クーデタ

 しかし、国民革命軍を率いて北伐を進めていた蔣介石は、1927年4月12日上海クーデタを決行し共産党に大弾圧を加え、1927年4月18日に南京に武漢政府とは別に独自の南京国民政府を樹立した。これによって国民政府は武漢と南京に分裂した。武漢政府の汪兆銘らは蔣介石の党籍を剥奪し、激しく非難したが、その内部でも蔣介石に同調する右派も多く、内部対立が深刻になった。特に中国共産党の立場は、国民党と決別して労働者・農民の立場に立ち大衆闘争を進めるか、国民党との合作を維持して地主・ブルジョワジーと妥協するか、の選択を迫られた。党指導部の陳独秀は従来のコミンテルンの指導に従い、後者の道を選んだ。
コミンテルン(スターリン)の指令 武漢政府右派は共産党排除に動き、5月21日には長沙で共産党機関を襲撃、多数の党員を殺害した(馬日事変)。そのような中、6月1日にスターリンから在中国コミンテルン代表(インド人ロイ)に訓令が届いた。それは土地革命の実行、共産党員の武装、武漢政府内の反動分子の処罰などを、共産党員が国民党にとどまりながら遂行せよ(つまり国共合作は維持したまま武漢政府の主導権を握れ)、というものであった。コミンテルンは汪兆銘にこの方針に従うことを迫ったが、汪兆銘は拒否し、一挙に共産党排除に傾いた。 → ソ連(コミンテルン)の中国政策

第一次国共合作の分裂

 武漢政府の主席汪兆銘は共産党勢力の排除を決意し、1927年7月15日に国共合作の破棄を宣言、武漢の共産党員の殺害を命じた。共産党員は13日に武漢政府から退去していた。これによって、3年7ヶ月続いた第1次国共合作は崩壊した。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.118-119>
 この武漢政府の分裂は「武漢分共」といわれた。武漢政府は実質的に自壊する形で消滅し、南京政府に吸収されていく。このとき武漢政府に加わり左派に属していた孫文未亡人の宋慶齢は、汪兆銘が国共合作を解消し共産党を排除したことを厳しく非難した。彼女は「孫中山(孫文)の革命原則と政策への違反に対する抗議のための声明」を出し、いまや孫文の革命精神を忘れた国民党には二度と戻らない意志を表明して武漢を去った。
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書籍案内

小島晋治・丸山松幸
『中国近現代史』
1986 岩波新書