国民政府の中国統一
1928年6月、蔣介石の国民革命軍が北伐を完了させ、中華民国は南京国民政府によって統一された。それによって不平等条約の一部改正などがなされ、近代国民国家の形態が出来た。さらに満州軍閥張学良が中国政府に従うことを表明し、軍閥は一掃されたが、地方政権との内戦、共産党との国共内戦はなおも続き、1931年からは日本の侵略が本格化して苦難は続いた。
1928年6月9日、蔣介石の率いる国民革命軍が北京に入城し、北伐が終わり、国民政府は北京を制圧した。6月15日に、南京国民政府は正式に全国統一を宣言した。
それに伴い、中華民国の国旗は従来の五色旗から、孫文が制定したという青天白日旗が掲げられた。後に国民党の象徴である青天白日を漢民族を象徴する紅旗に配置した「青天白日満地紅旗」が中華民国の国旗と定められた。また南京が唯一の首都であることを示すために、北京を改めて、北平と称し、直隷省は河北省に改められた。
張作霖爆殺事件と張学良の易幟 これによって北京の北洋軍閥以来の軍閥勢力は排除されたが、なお東北地方の実権は同年6月4日に旧奉天軍閥の張作霖が日本軍によって謀殺された張作霖爆殺事件が起き、満州軍閥は息子の張学良が継承していた。張学良は日本の働きかけを断り、同1928年12月29日に国民政府への帰属を声明し、東三省(満州)で一斉に国民党の青天白日旗を掲げた。この「易幟(えきし。旗を変えること)」によって、国民政府の全国統一は最終的に達成された。
日本のみは済南事件の解決が長引いたため、ようやく1930年5月に日華関税協定を締結し、中国の関税自主権を認めた。なお、治外法権の撤廃は1943年の不平等条約の撤廃によって実現する。
日本に抵抗しない国民政府への不満も強まる中、1936年12月に張学良が蔣介石を監禁して内戦の停止と統一した抗日をせまるという西安事件が起こり、事態は大きく転換した。蔣介石国民党も抗日民族統一戦線への傾く中、1937年7月に日中戦争が始まると第2次国共合作が成立して、日本軍の侵略と共に戦うこととなった。
日中戦争では当初は日本軍は激しい抵抗に遭いながら1937年12月、首都南京を占領した。その時日本軍による南京虐殺事件が起こった。国民政府は武漢、さらに重慶へと移り、抵抗を続けた。日本政府は戦争の長期化に焦燥をつのらせ、1938年1月、近衛文麿内閣が「国民政府を相手にせず」という声明を出すと、1940年3月には国民党の中で以前から蔣介石と対立していた汪兆銘(汪精衛)が重慶を脱出、日本軍と結んで南京に独自の国民政府を樹立した。しかし、汪兆銘政権は国民の支持を受けることはない、日本軍の傀儡政権に終わった。重慶国民政府はその後、1945年までアメリカ、イギリスなど連合軍の支援を受けて日本軍と戦った。また中国共産党も独自の軍隊八路軍が日本軍との戦いの先頭に立った。
それに伴い、中華民国の国旗は従来の五色旗から、孫文が制定したという青天白日旗が掲げられた。後に国民党の象徴である青天白日を漢民族を象徴する紅旗に配置した「青天白日満地紅旗」が中華民国の国旗と定められた。また南京が唯一の首都であることを示すために、北京を改めて、北平と称し、直隷省は河北省に改められた。
張作霖爆殺事件と張学良の易幟 これによって北京の北洋軍閥以来の軍閥勢力は排除されたが、なお東北地方の実権は同年6月4日に旧奉天軍閥の張作霖が日本軍によって謀殺された張作霖爆殺事件が起き、満州軍閥は息子の張学良が継承していた。張学良は日本の働きかけを断り、同1928年12月29日に国民政府への帰属を声明し、東三省(満州)で一斉に国民党の青天白日旗を掲げた。この「易幟(えきし。旗を変えること)」によって、国民政府の全国統一は最終的に達成された。
関税自主権の回復
蔣介石の南京国民政府が北伐を完成させ、中国統一を実現し、軍閥支配をなくし、共産党を排除したことを受け、アメリカ・イギリスなど国際社会に南京国民政府を承認する動きが早まった。その結果、中国がアヘン戦争での南京条約その他による不平等条約の締結以来苦しめられていた半植民地状態から脱却することが可能となった。まずアメリカは1928年7月25日に、中国に対する関税自主権を回復の承認に踏み切り、次いでドイツ・フランス・イギリスなどヨーロッパの11ヵ国が国民政府との間で関税自主権を認める条約に調印した。その上で、アメリカは同年11月、南京国民政府を承認、12月にイギリス・フランスがそれに続いた。日本のみは済南事件の解決が長引いたため、ようやく1930年5月に日華関税協定を締結し、中国の関税自主権を認めた。なお、治外法権の撤廃は1943年の不平等条約の撤廃によって実現する。
国共内戦
以後は南京を首都とする「中華民国」国民政府が中国を統治することとなるが、今度は蔣介石に対して馮玉祥、閻錫山や李宋仁などの旧軍閥勢力が反発し、なおも激しい内乱(1930年の中原大戦など)が継続し、ようやく1930年末に蔣介石の独裁権力が確定した。蔣介石は続いて30年12月から、囲剿戦(いそうせん)といわれる中国共産党勢力への攻勢を開始した。国民党政府軍と共産党軍の激しい内戦が続くなか、1931年9月、満州事変が起こり、関東軍が軍事行動を開始、日本の侵略が始まるが、蔣介石は「安内攘外」と称し、共産党との内戦を優先して抗日戦を回避する戦略をとった。第2次国共合作
一方、中国共産党はコミンテルンの人民戦線戦術に呼応して、1935年、八・一宣言を発表して国民党に対し、統一した抗日を呼びかけた。日本に抵抗しない国民政府への不満も強まる中、1936年12月に張学良が蔣介石を監禁して内戦の停止と統一した抗日をせまるという西安事件が起こり、事態は大きく転換した。蔣介石国民党も抗日民族統一戦線への傾く中、1937年7月に日中戦争が始まると第2次国共合作が成立して、日本軍の侵略と共に戦うこととなった。
日中戦争
日本政府および日本軍、そして日本国民は、このような中国統一と第2次国共合作の動きを完全に見誤っていた。一般国民は知らなかった、と言うのが正しいであろう。専ら、中国は内紛ばかりでバラバラ、国民政府には中国を統治する力がなく、共産党は私有財産を無くそうという暴力集団で民衆の支持を受けるはずはない、あるいは中国人は劣悪な民族だから、その暴戻(ぼうれい、勝手なふるまい)をただすべく日本皇軍が進撃すれば、数ヶ月で屈服させることが出来るだろう、という見方が圧倒的だった。中国の新しい情勢に対して無知か、あるいは軽視か、あえて無視することによって日本は戦争に突入していったと言わざるを得ない。日中戦争では当初は日本軍は激しい抵抗に遭いながら1937年12月、首都南京を占領した。その時日本軍による南京虐殺事件が起こった。国民政府は武漢、さらに重慶へと移り、抵抗を続けた。日本政府は戦争の長期化に焦燥をつのらせ、1938年1月、近衛文麿内閣が「国民政府を相手にせず」という声明を出すと、1940年3月には国民党の中で以前から蔣介石と対立していた汪兆銘(汪精衛)が重慶を脱出、日本軍と結んで南京に独自の国民政府を樹立した。しかし、汪兆銘政権は国民の支持を受けることはない、日本軍の傀儡政権に終わった。重慶国民政府はその後、1945年までアメリカ、イギリスなど連合軍の支援を受けて日本軍と戦った。また中国共産党も独自の軍隊八路軍が日本軍との戦いの先頭に立った。
国共内戦と中華人民共和国の成立
日本は日中戦争の泥沼化により、戦局の打開をはかり、南方に進出、太平洋戦争へと戦線を拡張させたが、それは大きな犠牲を払いながら敗北し、1945年8月にポツダム宣言を受諾し、中国政府にも降伏、日中戦争が終わった。その後、中国国民党と中国共産党はしばらく協力したが、まもなく決裂、翌年再び国共内戦(第2次)が始まった。内戦は共産党の勝利となり1949年10月に、中華人民共和国が北京に成立、敗れた蔣介石国民政府は台湾に移ることになった。中国大陸は中華人民共和国が支配し、その領土はほぼ清朝政府の統治権と同じ範囲となったが、台湾を軍事的に征服することは出来なかった。中国は中華人民共和国と中華民国政府(台湾政府)に分裂したまま続いているが、北京の共産党政権は「中国はひとつ」という建前を崩さず、台湾独立に関しては異常なほど神経を尖らせている。