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国共分裂

1927年の蔣介石の上海クーデタを契機に、武漢政府も共産党を排除し、第1次国共合作が崩壊した。

 第1次国共合作の下で、北伐を開始した中国国民党右派の蔣介石は、1927年4月の上海クーデタ中国共産党の排除に踏みきり、上海の労働組合活動家とともに共産党員を多数逮捕し、殺害した。
 国共合作方針を維持していた武漢政府は、蔣介石を非難し、国民党の党籍を剥奪すると、蒋介石は対抗して左派を排除した南京国民政府を樹立した。

武漢政府の分裂と消滅

 武漢政府汪兆銘(汪精衛)ら国民党左派と共産党勢力はなおも国共合作の理念と方針を維持しようとしたた。それはコミンテルン(実質的にはソ連のスターリン)の支持であった。しかし、政府内にも反共勢力が台頭し、武力衝突が始まると追いこまれた汪兆銘政権はついに共産党排除を決意、共産党は武漢政府を離脱、1927年7月15日、政府も国共合作の放棄を声明して第1次国共合作は破綻した。
 武漢政府はなおも存続したが、蔣介石の南京国民政府がクーデタ後の態勢を整えるに従って力の差は明確になり、武漢政府は南京政府に吸収される形で消滅した。

中ソ関係の悪化

 国共合作が破綻したことは、それまで中国共産党に対するだけでなく、中国国民党に対しても巨額の経済的、あるいは人的な支援をしていたソ連との関係が断たれることを意味していた。1927年の暮れに広州で起こった共産党の蜂起にソ連の領事館が関与していたということを理由に、国民政府はソ連との国交断絶を通告した。さらに満州の張学良が国民政府にしたがうことを表明(易幟)したので、東三省は国民政府の支配下に入ったので、その地のソ連の権益の回収に動き出した。
 1929年7月、張学良は蔣介石ら国民政府首脳の了解を取った上で、中東鉄道(シベリア鉄道の中国領土通過部分)の回収に踏み切り東北軍(張学良軍)が行動を起こした。しかしソ連は武力で抵抗し、8月に国境で武力衝突が始まり、9月にはソ連軍が侵攻してきた。これは「奉ソ戦争(奉天=ソ連戦争)」と呼ばれ、ソ連軍は張作霖軍を圧倒した。12月にハバロフスクで休戦協定が結ばれ、中東鉄道は再びソ連の支配下に入った。この東北軍(中国軍)とソ連軍の衝突を見た日本の関東軍は、「東北軍は弱い、ソ連軍は手強い」との認識を持つようになった。又此の時の国境線上のアムール川・ウスリー川の中洲の幾つかはそのままソ連軍が占拠し、国境帰属問題として未解決だった。実に2008年にこれらの国境問題が解決した。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 p.56-58>

国共内戦から第二次国共合作へ

 共産党を排除した中国国民党では蔣介石の主導権が確立し、そのもとで北伐を再開、北京を制圧して北伐を終わらせ、国民政府によるの中国統一を達成する。共産党は次第にコミンテルンの統制から離れて農村に革命拠点を置く方針に転換し、瑞金に 中華ソヴィエト共和国を建設、そこを追われて長征に移るなかで毛沢東が主導権をにぎるようになる。この間、激化した国共内戦を経て、両者が再び歩み寄って第2次国共合作を復活させ抗日民族統一戦線を形成するのは、1937年に日中戦争が勃発するという事態を迎えてからとなる。