国家総動員法
1938年4月に日中戦争下の日本で成立した、戦争遂行のための人的・物的資源の動員を政府が議会の審議を経ずに実行することを可能にした法律。これ以後、電力などの資源の国家管理、労働力の徴用、賃金・価格の統制、言論・出版の統制など、国民生活のあらゆる面を国家が軍事目的で統制することが可能となり、ナチス・ドイツの全権委任法と同質の全体主義国家となった。
日本の政治情勢は、1931年の満州事変以来、軍を主体とする戦争遂行が目的化し、さらに1937年7月の盧溝橋事件によって日中戦争へと突入したことで、明確な戦時体制をとることとなった。軍部は総力戦としての戦争を遂行するための国家統制を可能とする立法を独自に検討し、時の第1次近衛文麿内閣に働きかけるようになった。その意を受ける形で国民精神総動員運動が起こされ、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」を国民に呼びかけた。さらに軍部は戦時体制の全面的な展開を可能にする「国家総動員法案」を立案、1938年1月、第37国会に提案した。戦争遂行のために内閣が議会に諮ることなく国民を動員することができる法律に対して、議会でも反論があったが、結局は可決・成立し、同1938年4月1日に公布された。この法律によって戦争のために国民の人的・物的資源を政府が徴用することが可能になり、日本は一気に軍国主義的な統制経済体制へと突入した。
近衛内閣は平行して1938年1月に「国民政府を相手とせず」と表明したが、日中戦争を収束させることに失敗、新たに戦争目的を明確にする必要に迫られ、同年1938年11月3日に「東亜新秩序の建設」を掲げた。それによって戦争はアジア全域に拡大されると共に長期化し、国民総動員態勢はその後敗戦の1945年8月まで7年以上にわたって続くこととなった。
POINT 国家総動員法は、戦争のための人的資源・物資の動員と統制を、政府(軍部)が議会の審議を経ることなく実行できることである。その点ではドイツの全権委任法に近いものであった。
Question 国家総動員法で、政府が総動員の権限を行使するのは「戦争」である場合と想定されていた。しかし、それでは不都合なことがあった。それはどのようなことだったか。
余談だが、このときヤジを飛ばした一人が宮脇長吉という議員(政友会)で、実は彼も軍人出身でしかも砲兵学校で佐藤の先輩にあたっていた。しかし自由主義思想の持ち主で軍を辞め、国会議員になっていたのだ。彼は傲慢に演説を続ける佐藤をたしなめるつもりだったのだろうが、軍人あがりの議員に非難されたことでカッとしたのか、佐藤は「黙れ!」と怒鳴りつけた。もっともの後の回想によるとこのとき佐藤は「黙れ!長吉!」と言おうとしたのだが、さすがに名前はグッと飲み込んだという。<林茂『太平洋戦争』日本の歴史25 1967 中央公論社 p.86>
国家総動員法は、日本の敗戦により、1945年12月20日に廃止となった。
近衛内閣は平行して1938年1月に「国民政府を相手とせず」と表明したが、日中戦争を収束させることに失敗、新たに戦争目的を明確にする必要に迫られ、同年1938年11月3日に「東亜新秩序の建設」を掲げた。それによって戦争はアジア全域に拡大されると共に長期化し、国民総動員態勢はその後敗戦の1945年8月まで7年以上にわたって続くこととなった。
POINT 国家総動員法は、戦争のための人的資源・物資の動員と統制を、政府(軍部)が議会の審議を経ることなく実行できることである。その点ではドイツの全権委任法に近いものであった。
国家総動員法
国家総動員法が統制の対象とした内容は次のようにまとめられる。<中村隆英『昭和史Ⅰ』1993 東洋経済新報社 p.232>- 労働力の統制 戦争遂行目的で国民を徴用すること、雇用・解雇、賃金などの労働条件の統制、労働争議の予防と解決など。
- 物資の統制 物資の生産・修理・配給その他の処分、輸出入の制限もしくは禁止。
- 企業活動、金融の統制 会社の設立・合併、増資、社債、金融機関の資金運用、企業設備の新設や拡張、改良などの統制。
- カルテルの結成 企業に統制協定を結ばせ、あるいは統制を目的とした組合設立を命令することができる。
- 価格の統制 商品価格のみならず運賃、保険料、賃貸料、加工料などを国が統制する。
- 言論の統制 集会、新聞、出版の制限、禁止。
議会での成立
国会では多数派の政友会・民政党の両派が近衛内閣を支持していたが、この法案が大日本帝国憲法に定められた立法府としての議会の権能とその義務を否定するとして一部から反対の声が起こった。また産業界からも経済の国家統制の強化は社会主義的で行き過ぎだという声も起こった。元老の西園寺公望も憲法の原則に反しているとして懸念した。同法が国民の自由な政治活動をも制限していることにも反対の声があったが、当時は労働者代表の政党の多くは弾圧によって活動を停止しており、活動を続けていた社会大衆党などは同法の内容を社会主義的統制経済の実現と見て賛成した。また陸軍の横暴な態度に不満を持つ議員もいたが、反対意見は、非常時の「挙国一致」を掲げ、「お国にために戦う兵士を支援するためだ」という国民の声を背にした政府・軍部の圧力によってかき消され、衆議院では全会一致、貴族院でも賛成多数で可決・成立し、1938年4月1日に公布、5月5日に施行された。ナチスの全権委任法
この法律は、ドイツでナチスのヒトラーが政権をとった1933年に制定した全権委任法(授権法)とひとしいものであった。全権委任法は正式には「民族および帝国の困難を除去するための法律」といい、内閣に対し無制限の立法権を賦与し、議会の立法権を事実上奪い取ったもので、それによってワイマール憲法は形骸化し、ワイマール共和国も事実上消滅した。近衛内閣はナチスの全権委任法とは違い、国家総動員法は戦争に際してだけ適用されることを強調し、平時の発動はしないと約束し議会の承認を得ようとした。この間、3月にはヒトラーがオーストリア併合に成功、親ドイツ派はそれを歓迎した。Question 国家総動員法で、政府が総動員の権限を行使するのは「戦争」である場合と想定されていた。しかし、それでは不都合なことがあった。それはどのようなことだったか。
答え
満州事変は盧溝橋事件で全面的な日中間の戦争となっていたが、日本はまだそれは「戦争」ではない、として「支那事変」または「日華事変」と称していた。つまり中国に対して宣戦布告していなかったので、国際法上は「戦争」になっていなかった。にもかかわらず実態は戦争で、軍も総力戦体制をつくる必要を認識した。さすがに事変では総動員できないので第1条に「国家総動員法とは戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む)に際し国防目的達成の為…………」という苦しい補足を加えたのだった。また近衛首相は法案を通すため、現在進行中の支那事変では適用しないと表明したが、その約束は守られなかった。
Episode 軍人が議員を「黙れ!」と恫喝
議会審議の際、政府側委員として法案の説明を行った陸軍省軍務局佐藤賢了中佐は、長々と説明しただけでなく私見をのべ法案を賛美した。それに対して一部の議員からヤジが飛ばされると、佐藤は議員に向かって「黙れ!」と一括した。議員でもない政府側説明員の立場で軍人が議場で議員を恫喝したことは大問題となったが、杉山元陸軍大臣の遺憾表明にとどまり、佐藤中佐に対する懲罰はなかった。彼はその後も軍中枢で昇格を続けている。結局軍部提案の法案は可決され、エピソードとするには深刻な、日本の議会制民主主義の死滅した際の一コマとなった。余談だが、このときヤジを飛ばした一人が宮脇長吉という議員(政友会)で、実は彼も軍人出身でしかも砲兵学校で佐藤の先輩にあたっていた。しかし自由主義思想の持ち主で軍を辞め、国会議員になっていたのだ。彼は傲慢に演説を続ける佐藤をたしなめるつもりだったのだろうが、軍人あがりの議員に非難されたことでカッとしたのか、佐藤は「黙れ!」と怒鳴りつけた。もっともの後の回想によるとこのとき佐藤は「黙れ!長吉!」と言おうとしたのだが、さすがに名前はグッと飲み込んだという。<林茂『太平洋戦争』日本の歴史25 1967 中央公論社 p.86>
Episode ムッソリーニ、ヒトラー、スターリンのごとく政治をせよ!
国家総動員法の審議の際に議会で飛び出し、大問題になったもう一つのセリフが、社会大衆党西尾末広の賛成演説の一節だった。当時、麻生久の率いる社会大衆党は、国家総動員法は彼らが考える社会主義に近いと考え、賛成に回っていた。マルクスのいう共産主義とは一線を画していた彼らは、国家社会主義的な方法での革新をめざすことを掲げていた。その一人西尾末広(戦後の社会党右派、さらに民社党を指導した人物)は、国家総動員法による統制を社会主義への一歩前進と評価し、むしろ歓迎の立場を立って「近衛首相はムッソリーニのごとく、ヒトラーのごとく、スターリンのごとく勇敢に政治をせよ」と演説した。それに対して政友会、民政党の両党はムッソリーニ、ヒトラーはいいとしても「スターリンのごとく」とはけしからぬ、と西尾の議員除名決議を提出、可決された。このとき、保守派ではあったが憲政の神様と言われた尾崎行雄は決然と反対に票を投じた。政友会・民政党の西尾除名決議は、陸軍に抵抗できなかった腹いせだ、とも言われている。電力国家管理法
この国会では国家総動員法と共に、「電力国家管理法」も審議されていた。これは以前から内閣調査局で革新官僚といわれる中堅官僚によって構想されていたもので、それまで私企業によって行われていた電力事業を国家統制下におくことをめざしものであった。このときは水力発電を除外し、火力発電所の全設備と送電設備が新設の日本発送電株式会社によって一元運営されることになった。これも総力戦体制の一環であった。1941年に改正強化され、水力発電も統合され、全国を九地域に分けて地域別に配電事業も統合された。国家総動員法、電力国家管理法によって、日本経済は戦争遂行のための計画経済(当時は統制経済と言われた)体制をとることとなり、自由主義的な資本主義から国家が管理する資本主義(帝国主義)へと体質を転換させた。動員法以前の総動員態勢づくり
日中戦争が長期化していく中で、戦費・軍備の不足を恐れた政府・軍部は、国家総動員法制定の以前から手を打ち始めていた。それには次のような例がある。- 企画院の設置 第1次近衛内閣で1937年10月に設置された、戦争遂行のための物資動員(当時は物動といわれた)を計画する部局で、統制経済の要となる機関だった。「経済の参謀本部」とも言われた。
- 臨時資金調整法 第1次近衛内閣で1937年9月に公布された、軍需産業・生産拡充産業に優先的に融資する統制法。
- 輸出入品等臨時措置法 同じく1937年9月公布。輸出入品の制限・禁止を可能にする。製品だけでなく、原料の輸出入の統制にも及んだ。国家総動員法で強化された。
国家総動員法に基づく勅令
政府は国家総動員法の発動に際しては慎重を期すとの約束をしていたが、それは守られることはなかった。これ以降、次々と議会の審議を経ず、天皇の命令である勅令という形式で総動員が具体化していく。主な勅令にに次のようなものがある。- 国民徴用法 国家総動員法に基づく勅令として1939年7月公布された。国民を強制的に徴用し、重要産業の生産に従事させる。当初は特定業種での経験者を登録する形だったが、次第に業種も拡大され未経験者も徴用されるようになった。国民徴用令による召集は、徴兵の赤紙に対して、白紙で行われ白紙召集といわれた。
- 賃金統制令 国家総動員法に基づく勅令として1939年3月に公布、業種別に初任給を公定した。以後、地域別、男女別、年齢別、経験別に賃金が公定とされた。
- 価格統制令 国家総動員法に基づく勅令として1939年10月公布された。9月18日を以て価格の値上げを禁止し、公定価格制とした。この公定価格以外での売買は闇取引とされ、不正売買として取り締まられたが、闇ルートの取引は横行し、闇価格が変動した。
国家総動員法は、日本の敗戦により、1945年12月20日に廃止となった。