プーチン
2000~2008年のロシア連邦大統領。08年より首相を務めたが、2012年に大統領に復帰。2014年にはクリミア併合を強行、国際的な批判を受けたが国内では高支持率のもと長期政権を続けている。その間、国内では反対派を抑圧、権力を強め、2022年2月に隣国ウクライナに侵攻した。
Vladimir Putin
2度目の大統領
2008年、ロシア連邦憲法の規定により、大統領を2期で退陣し、大統領にはメドヴェージェフが就任したが、プーチンは首相に横滑りし、権力を維持した。2008年から12年まで首相を務めた後、憲法にはいったんやめた大統領が間を置いて再任されることは禁止されていないことから、再び大統領選に出馬し、2012年に大統領に返り咲いた。
クリミア併合
2度目の大統領となったプーチンは、その強権的な手法で国民の支持は多くはなかった。そのプーチンに対する支持が一気に高まったのが、2014年3月、にウクライナ領のクリミア半島を併合してしまったことだった。その年、ウクライナに親西欧政権が成立し、NATO加盟が現実的になったのに対し、クリミア半島のロシア系住民がロシアへの編入を掲げていることを理由に、一方的にロシア軍を侵攻させ、クリミア半島を制圧した。 → クリミア危機この軍事行動は国際的な非難を浴び、1997年から正式メンバーとしてサミット(先進国首脳会議)に参加し、G8の一員とされていたが、このクリミア併合により参加を拒否された。それ以後、ロシアはサミットに復帰していない。プーチンは国際社会では非難されたが、国内での支持率は急速に高まり、それまで60~70%にとどまっていたのがほぼ90%に跳ね上がった。
シリア内戦への軍事介入
2011年、一斉に起こったアラブの春といわれた民主化運動がシリアに及び、同年3月18日、アサド政権打倒を掲げる反体制派が蜂起し、シリア内戦が勃発した。2014年にはその中で特に過激なイスラーム教スンナ派集団が、「イスラム国」(IS)と称して台頭した。ロシアのプーチン大統領は、2015年9月30日、シリア内戦介入を開始し、アサド政権擁護のためにISの拠点に対する空爆を行った。これは中央アジア地域など旧ソ連圏のイスラム系住民の中にISなどの原理主義者の勢力が浸透することを恐れ、またテロとの戦いという国際的な連携に加わるためであるとされたが、アサド政権不支持を明確にしていたアメリカと対立すこととなり、アラブ世界の混迷をさらに深めることとなった。ロシアの国内向けにはプーチンの正義の戦いとして宣伝された。続く大国主義と長期政権
プーチンに対する国民の高支持率はロシアの大国としての威信を高めたという評価に基づいているので、強気の対外政策をとり続けなければならず、クリミア危機後もウクライナ東部紛争で親ロシア派に対して事実上、軍事支援を続けるなど、その大国主義的な膨張政策を維持し続けた。そのようなプーチンの大国主義、膨張主義は、日ソ間の北方領土問題にも影響を及ぼし、日本政府は安部首相がプーチンとの個人的信頼関係を築き、歯舞・色丹の返還に糸口をつけようとしたが、解決は遠のいている。プーチンは国際的な批判を受けながらも、高い支持率を背景に長期政権を続け、2018年3月には大統領選挙で4度目の当選を果たした。しかし、国内には反プーチンの声も起こりつつある。2018年6月、プーチン政権が年金支給開始年齢の引き上げを発表したことがきっかけとなり、支持率が60%台に急落した。さらに野党指導者や反プーチンの発言をするジャーナリストをひそかに襲撃させるなど、その強権的体質への批判が強まっている。しかし、政権の交代に応えるような野党の組織的な活動も抑えられており、プーチンの任期の切れる2024年に対抗馬が現れるのか、不透明となっている。
ウクライナ侵攻
2022年2月24日、プーチンはついにウクライナ侵攻を実行した。これは北京の冬季オリンピック閉幕直後であり、かつてプーチンが2014年にクリミアに侵攻したのもロシアで開催されたソチ冬季オリンピック閉幕直後を狙ったものであったので、世界は冷静かつ狡猾なプーチンの手法と感じたが、当初は限定的かという希望的観測もあった。しかし、ロシア軍は首都キエフの制圧も目指してウクライナ北方のベラルーシからも侵攻、宣戦布告なき全面的な侵略戦争の様相を呈している。国際社会からはプーチンの暴挙として激しい非難が巻き起こっているが、1週間以上経過して、ウクライナを屈服に追い込めないでいる。にもかかわらず、停戦にも応じようとしないプーチンの思いは一体何だろうか。ここでは一方的にプーチンの暴挙と断定せず、聞こえてくる彼の言い分を検討し、それが正しいことなのか、考えてみよう。<2022/3/5記 途中稿>- プーチンはウクライナに軍を展開したことを、戦争とは言わず、ましてや侵攻したとはいっていない。何と言っているかというと「特別軍事行動」だという。そして何のための行動かというと、東部ウクライナにおけるロシア系住民がウクライナ政府によって迫害されている事に対し、彼らが建てたルガンスク人民共和国とドネツク人民共和国と軍事同盟を結んで、救出にあたっているものだ、と主張している。さらに、現在のウクライナのゼレンスキー政権は過激民族主義者とネオナチ(新たなナチズム)に動かされており、ロシア系住民は2014年から8年にわたってジェノサイド(大量虐殺)の対象となって苦しんでいる、日本もふくめて西側諸国はその事実を無視してロシアを非難するが、悪いのはウクライナの現政権である、と言っている。
- このプーチンの主張は弁解としてもいかにも苦しい。情報としてもジェノサイドの事実は伝えられていない。東部ウクライナにおけるロシア系住民に対するジェノサイドがあったのであれば、国際連合や司法裁判所への提訴など国際世論に訴えるべきであって、いきなり報復的軍事行動にはあたらない。ロシア側の一方的、暴力的な国境線の変更であり、国際法・国連憲章違反であることは明白だ。特に安全保障理事会の常任理事国という責任ある立場にあるロシアがとるべき手段ではない。
- また、ウクライナの現政権が民族主義者、ネオナチであるという指摘にも無理がある。2014年に親ロシア派ヤヌコーヴィチ政権を倒したマイダン革命の時、反ロシア勢力の中に民族主義グループがあり、彼らが暴動を煽った面もあったことは確かであるが、革命を成し遂げたのは汚職などの腐敗に対する怒りと、民主主義実現の要求であった。また現政権がネオナチであるという指摘は、ゼレンスキー大統領自身が自分はユダヤ人であり、祖父はロシア軍としてナチス=ドイツと戦ったのであるからナチスあるいは親ナチスであるはずがないと否定している。
- ロシアがなぜここでナチスを引き合いに出すのか、唐突な感を否めないが、ソ連が第二次世界大戦で多大な犠牲を払ってナチスと戦い、敗北に追いこんだということを誇りとしている、という歴史的背景がある。戦う相手はネオナチなのだ、という言い方はロシア国民に向けてのものとも言える。同時に民族主義やネオナチの台頭というロシアの懸念は、あながち妄想ではない。事実、2000年代になって、東欧諸国に右派政権が誕生し、ハンガリーのオルバン政権、ポーランドのドゥダ政権など、EU主流(独仏)に対する反発、移民排斥などを主張しており、国内では民族主義的、あるいはナチスを否定しない勢力が台頭している。NATO加盟国のこのような動きを、ロシアが警戒するのも理由がないわけではない。しかし、これらの右派政権も今回のロシアのウクライナ侵攻に対しては一致して非難している。
- ウクライナ侵攻はロシア系住民の保護の為であるというプーチンの強弁は、まず、1938年のヒトラーのチェコスロヴァキアのズデーテン地方をドイツ人が多いからとして併合を強行したのと同じであり、過去にもくりかえされてきた。日本も中国での日本人居留民の保護を口実に山東出兵したり、上海事変を起こしたことも人ごとでなく思い出そう。そして日本は中国に対する武力行使を戦争ではなく「事変」だと称した。事実上、宣戦布告なしに始めた戦争を「特別軍事行動」と言い換えているのは、侵略であることを隠す常套手段であり、プーチンは悪例に学んでいることになる。
- 3月3日夜のBSフジの報道番組で、小野寺五典元防衛大臣からプーチンのやり方はかつてのヒトラーと同じだと指摘されたことに対し、ガルージン大使が色をなして反論、ロシアはヒトラーと戦ったことを誇りとしており、プーチンをヒトラーと同じだとするのは甚だ遺憾だと言っていた。もちろんプーチンがヒトラーに学んでいるとはいえないだろうが、例えばヒトラーがラインラント進駐を実行したことに対し英仏が黙認したことを成功体験としてポーランド侵攻に踏み切ったのにたいし、プーチンは2014年のクリミア併合を成功体験として、今度のウクライナ侵攻に踏み切ったとみれば、似ていると言わざるを得ない。
- 侵攻開始直後は、ロシア軍の攻撃対象は軍事施設だけであり、ウクライナ民衆には銃は向けていない、と明言していた。しかし、次第に情報が増えるに従い、クルスク市役所や幼稚園、テレビ塔などが攻撃されたことが知られるようになり、民衆に被害が及ばないはずがない。それに対してもプーチンとロシア軍当局は、ロシア軍の攻撃によるのではなく、ウクライナ側の自作自演だ、と反論している。戦争の最中なので真相はわからない面はあるが、そこに爆破や銃撃という事態を持ち込んだのはウクライナ側ではなくロシア側だ、ということは明らかだ。いずれにしろプーチン・ロシアにとって戦闘が長引き双方に犠牲者が増えることは、侵攻の正当性をますます疑わしくすることなので、早期決着をつけたいのは事実であろう。
- 2度にわたって停戦協議が行われたが不調だった。プーチン・ロシアはウクライナの非武装と中立化、クリミア半島のロシア併合の承認を譲らず、ロシア軍の即時撤退を停戦交渉の前提とするゼレンスキーを「相手にしない」といった強気の姿勢を変えていない。戦争における停戦協議によく見られるように、弱気を見せた方が負け、といったところか。「ゼレンスキーを相手にせず」という態度を取り、仮に傀儡政権を樹立する方向に向こうとしているなら、かつての日中戦争での日本軍の誤りをくりかえすことになろう。
- ロシア側の軍事的優位は変わっていないが、ウクライナ軍、民衆の抗戦も続き、ウクライナに対する国際的な支援(ただし非軍事的)の声は益々高まっている。国際連合総会でもロシア非難決議が、圧倒的多数で可決された。このように常識的に見ればプーチン・ロシアは孤立状態にあると見えるが、意に介していないといったところだ。まさか、かつての日本やドイツのように国際連盟からの脱退という道は選ばないだろうから、「勝てば官軍」的な状況をじっと我慢しているのだろうか。懸念されるのはプーチンよりもアメリカ(NATO)が参戦することだ。とすれば核戦争へ一気に高まっていく恐れが多い。かつてのようなドイツに対する宥和政策を取ることなく、ただし軍事力ではない国際的圧力でロシアを屈服させるという新たな秩序を探るのがアメリカを初めとする“西側”の務めであろう。間違えてもロシアに核戦争のカードを切らせないようにしなければならない。
- プーチンとロシアが、ウクライナをどう見ているかも明らかになった。それこそ世界史を勉強していないと判らないところであるが、ロシア人にとってキエフはそのルーツとされるところであり、ロシア国家の源流はモスクワやレニングラードではなく、キエフにある、とプーチンと多くのロシア人は意識している。しかし、実際には、9世紀に成立したキエフ公国(キエフ=ルーシ)はモンゴルの侵攻で滅んでおり、その後、それとは別なモスクワ大公国が発展してロシア国家となり、18世紀末のエカチェリーナ2世の時代には現在のウクライナ西部、クリミア半島もロシアに併合されたのであり、それ以降、ウクライナのロシア化が進み、ウクライナ語の使用は禁止され、ロシア語が国語化した。その結果、ロシア人の中にウクライナを一体のものと認識――これは日本人の中にもある――するようになったが、1991年のソ連邦解体によってウクライナが自立し、30年が経過する中で、ウクライナ歴史の見直しが始まり、ウクライナはロシアとは別な国家であるという認識が生まれている。 → キエフ公国の項 キエフ=ルーシは誰のものか を参照。
一方のプーチン・ロシアの中には、依然としてキエフ=ウクライナはロシアと一体だという意識が根強く、そのようなウクライナが、ロシアに反旗をひるがえしてNATOに加わる、あるいはヨーロッパ連合EUの一員になるのは許せない、という感情があるのだろう。しかしそれは、あまりにも前近代的な感覚だと言われても仕方があるまい。
参考 プーチンは世界史テストで合格点を取れるか。
プーチンの世界史認識は、そもそも「ロシアの栄光」という観点だけなのでは、という論評がテレビに出てくる評論家諸氏から聞こえてくる。たしかにプーチンが「ロシア・ファースト」ではなく、自虐史観ならぬ自尊史観でもなく、客観的に世界史を学び、それをロシア国家の国益に生かそうとしているか、というと非常に危ういものがある。今回のプーチンの判断がロシアにとって正しいかどうか、ロシアとソ連の歴史からすぐに指摘できるのは次のような事実である。ロシアは防衛戦争では無類の強さを発揮している。それはナポレオンのロシア遠征を撃退したこと、第二次世界大戦の独ソ戦でドイツ軍を撃退したことに典型的に現れている。いずれも撃退した後、後退する敵を追撃して勝利を得ている。
しかし、自分から仕掛けて侵略的に行った戦争には失敗していることが多いのではないだろうか。1853年のクリミア戦争がそうだった。露土戦争では戦争では勝ったが、国際的な駆け引きでは敗れベルリン会議(1878)ではバルカンで後退した。日露戦争も満州、中国北部への進出が日本との衝突をもたらし、ほぼ敗戦という結果になっている。これらはロマノフ朝ロシア帝国の衰退をもたらした。
そしてなによりも、ロシア・ソ連時代を通して、対外的な派兵を強引に行って失敗した後に、時の政権の崩壊過程が始まっている、という事実がある。ツァーリズムのロシア帝国は、日露戦争を強行したことからロシア革命(第1次)が起こり、第一次世界大戦に参戦したことからロシア革命(第2次)となり、帝国が崩壊した。第二次世界大戦中のポーランド侵攻やフィンランドとの戦争、末期の対日参戦後の満州への侵攻など、スターリン時代に強行された戦争は後に強く非難され、スターリン批判の背景にもなっている。戦後のソ連で言えば、1950~60年のハンガリー動乱やプラハの春に介入したチェコ事件でのワルシャワ条約機構軍の派遣は、東欧諸国の反ソ感情の遠因となり、ソ連の停滞に繋がった。
そして1979年のブレジネフ政権によるアフガニスタン侵攻はソ連崩壊への引き金になっただけでなく、アラブ過激派のテロを呼び起こすこととなった。プーチン時代にもチェチェン紛争やグルジア(ジョージア)紛争など、反ロシア的動きに対する強硬姿勢がその体制を支えてきたといえるが、ロシア・ソ連の歴史を振り返るとき、侵略的軍事行動がかえって権力の動揺をもたらしている、という事実を学ぶべきではないだろうか。
歴史の前例に照らしあわせれば、今回のプーチンの判断は、その権力の崩壊に繋がるということになる。前例と同じようになった時、プーチンは世界史に学ばなかったことになり、彼の世界史の答案は0点で返却されることになるだろう。<2022/3/5 未定稿>