中国の核実験
中ソ対立の深刻化を背景に1964年10月に中国は原爆実験を行い、五番目の核保有国となる。その後、文化大革命中も核兵器開発を続け、1967年には水爆実験に成功した。
中華人民共和国とソ連の間の中ソ対立のきっかけのひとつは核技術の提供問題があった。早くも1954年のソ連のフルシチョフの訪中の時、毛沢東はフルシチョフに対し非公式に核爆弾と潜水艦技術の提供を求めた。しかしフルシチョフはアメリカの西ドイツへの核の提供に口実を与えるとして断った。それでも50年代後半にはソ連は中国に対し、平和目的の核技術と技術者の提供を大規模に行った。
ソ連依存からの脱却
1956年のフルシチョフのスターリン批判から中ソ間の革命路線の違いが生じ始め、中ソ対立が始まったため、中国は次第に自力更生を目指すようになった。1958年に毛沢東は「大躍進」運動を開始、自前の重工業化を進めたが、同年、金門・馬祖をめぐる台湾海峡危機でアメリカ・台湾との関係が悪化すると毛沢東は原爆の使用をソ連に打診した。しかし、ソ連は平和共存路線に重心を移していたので、それを拒否した。1959年にはソ連は中ソ技術協定破棄を通告、核開発を含む技術者を帰国させた。米ソ英の部分的核実験停止条約に反発
そのような中で1960年に中国は核兵器の独自開発を決定し、以後莫大な人員を動員して核実験を急いだ。その直後、1962年にキューバ危機が起こると、米ソ両国の核戦争の危機が一気に高まり、国際世論も核実験禁止の声が強まった。危機回避後の1963年、米ソ両国はイギリスを加え最初の核実験制限の取り決めである部分的核実験停止条約に調印した。この米ソ主導の核実験制限に対して中国は反発して開発を進め、着手から予定の8年ではなく、わずか5年後の1964年10月16日、大気圏中での核実験に成功した。ちなみにこの日、ソ連ではフルシチョフが解任され、毛沢東は核実験成功はその祝砲だと喜んだ。ベトナム戦争の開始
また、中国が核兵器の開発を急いだ背景には、同1964年8月、アメリカ軍がトンキン湾事件を口実に北ベトナムを空爆したことがあげられる。中国のすぐ南に隣接するベトナムにアメリカ軍が侵攻したことにたことは中国にとって大きな脅威であるととらえられた。翌年、アメリカ軍はベトナム北爆を本格化し、ベトナム戦争が開始されたことで、中国の核武装のテンポを速めることになった。文化大革命中の核開発
中国は1966年からプロレタリア文化大革命を開始、大きな政治と社会の変動が始まったが、核開発の歩みを止めることはなかった。1966年10月に第4回の原爆実験を中距離ミサイルによって行い、翌1967年6月には水爆の実験に成功した。中国政府は1964年の最初の原爆実験から2年8ヶ月で水爆実験に成功したことはアメリカとソ連に比べても格段に早く、それは毛沢東思想の勝利であると自賛しながら、中国の核開発の目的は核兵器の消滅にあるとのべた。文化大革命は既存の文化の価値を徹底的に否定する運動だったが、その荒波は軍事開発部門には及ばず、自力で米ソに対抗する核戦力の開発を進め、その成功のニュースは不安定な政治情勢の中で、毛沢東=中国共産党の威信と国威を示す効果が意図されていた。<安藤正士・太田勝洪・辻康吾『文化大革命と現代中国』岩波新書 p.93-94>Episode 毛沢東の核戦争観
(引用)核戦争についても毛沢東は独自の認識を持っていた。ソ連側史料では、1957年11月、地球人口27億人の半分が滅び、帝国主義が一掃されたとき、社会主義だけが生き残る、と毛沢東はモスクワで発言し、平和共存論に立つソ連指導部との隔絶を示した。<下斗米伸夫『アジア冷戦史』2004 中公新書 p.110>
米ソ英、核拡散防止条約(NPT)を締結
中国の核実験成功に、アメリカ・イギリス・ソ連の核保有国は衝撃を受けた。特に米ソ二大国は核兵器が拡散すれば、二国の主導権が脅かされることになるので、核拡散の防止の枠組みを造る必要を認識し、冷戦中にもかかわらず、国連を舞台に交渉し、1968年7月1日に核拡散防止条約(NPT)を締結し、国連総会でも採択した。中国はそれを既存の核保有国が核の独占を図るものとして反発した。当時は中華人民共和国としては国連に議席を持っていなかったので、条約にも参加しなかった。フランスのド=ゴール政権も米ソ主導の条約に反発し参加しなかった。しかし、1971年に国連の中国代表権が認められ、中ソ対立の解消が進み、冷戦の終結が宣言されたことによって、1992年に核拡散防止条約に加盟することになった。