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戦略兵器制限交渉(第1次)/SALT・Ⅰ

1969~72年のアメリカとソ連による核ミサイルなど戦略兵器の制限交渉。SALT・Ⅰ。緊張緩和の流れの中で合意に達した。

 東西冷戦のさなかにあったアメリカとソ連の間で1969年に始まり、72年に合意に達した、戦略兵器の制限に関する交渉。SALT(ソルト)は Strategic Arms Limitation Talks の略。
戦略兵器とは 戦略兵器 Strategic Arms とは敵国の政治中枢を直接攻撃することのできる核弾頭を装備するミサイルを意味している。実際に使用する局面よりも、それを所持することで敵国からの攻撃を抑止するという戦略上の意味の強い兵器のこと。戦略兵器には陸上から発射する大陸間弾道ミサイル(ICBM)だけでなく、潜水艦から発射できるミサイル(SLBM)もあり、米ソそれぞれ相手に先に発射させないためと称して開発を進め、増強に努めた。60年代初めまでにアメリカは3万個以上、ソ連は5000個以上を所有していたという。
制限交渉とは 実際に使用すれば、敵国の中枢を破壊することは出来るが、同時に反撃の恐れも高まり、自国の相当な被害も想定されることから、現実での使用が同時に双方の国家の終わりにもつながりかねない。そのような実際に使用されることのない戦略兵器を開発、維持する軍備拡張はそれぞれの経済を大きく圧迫することとなった。そこではじまったのが、両者が戦略兵器の数量について、制限 Limitation する(上限を設ける)ことを話し合う Talks ことで、共同歩調を取ろうというのが制限交渉であった。削減や廃絶でないことに注意。

戦略兵器制限交渉の意味

 戦略兵器の制限や禁止ではなく「削減」であること、条約締結の前に話し合いであることがこのポイントである。1962年にキューバ危機を回避し、68年に核拡散防止条約を締結して、核の独占をはかった米ソ両国は、69年にヘルシンキで交渉を開始、70年代、米ソ冷戦の緊張緩和(デタント)が進む中で、核兵器と同じように戦略兵器に関しても同様な両者のバランスをとることで、その独占を維持しようとした。つまり、SALT・Ⅰは核廃絶のためではなく、米ソの軍事バランスをとるための交渉であった。

Talks から Treaty に

ニクソンとブレジネフ
1972年5月26日 モスクワでSALT・Ⅰに調印した、ニクソンとブレジネフ
 アメリカのニクソン大統領がモスクワを訪問し、ブレジネフと会談し、1972年5月26日にSALT・Ⅰに最終的に合意し、署名した。これによって、TはTalks から Treaty にかわった。主な内容はICBM発射基の上限を米1045基、ソ連1618基としたこと、潜水艦の発射基についても上限を設けたことなどである。この条約の有効期限は5年とされ、これによって米ソが戦略兵器の上限を設定する事で合意した。次いで「制限」をさらに細目化するために、翌73年から直ちに戦略兵器制限交渉(第2次)(SALT・Ⅱ)が開始された。

戦略兵器制限交渉(第2次)/SALT・Ⅱ

1973~79年の米ソ間の核軍縮交渉。SALT・Ⅱ。戦略兵器の制限で合意に達したが、79年のソ連のアフガニスタン侵攻で実行されなかった。

 緊張緩和(デタント)の進展に伴い、1973年にアメリカとソ連は戦略兵器の制限に関する交渉を開始した。前年の1972年のSALT・Ⅰの成功を受けて交渉が始まったが、技術的には双方で新型兵器の開発が進んだため、交渉は難航した。1974年にはニクソンに代わったアメリカのフォード大統領とソ連のブレジネフ書記長が会談したが、進捗はなかった。
 ようやく、1979年6月にアメリカのカーター大統領、ソ連のブレジネフ書記長の間で合意が成立し、調印され条約となったが、同1979年12月にソ連のアフガニスタン侵攻が始まったことで米ソ間は急激に冷え込み、議会もSALT・Ⅱの条約批准を否決したため、結局この交渉は実らなかった。

制限交渉から削減交渉へ

 70年代の緊張緩和の時代は終わり、1980年代にはアメリカのレーガン大統領による対ソ連強硬姿勢への転換とともに新冷戦と言われる新しい段階に入ることとなった。そのなかでも並行して、「制限交渉」の次の段階である「削減交渉」 Reduction Talks が1982年に戦略兵器削減交渉(第1次)(START・Ⅰ)が行われた。合意は容易ではなかったが、ようやく冷戦終結後の1991年に合意に達した。続いて91年から戦略兵器削減交渉(第2次)(START・Ⅱ)が開始される(~93年)。
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