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戦略兵器制限交渉(第1次)/SALT・Ⅰ

1969~72年のアメリカとソ連による大陸間弾道ミサイル(ICBM)などの戦略兵器の開発を制限する交渉。SALT・Ⅰ。60年代の冷戦の深刻化の中で米ソ両国の核開発競争が両国経済を圧迫したことを背景に、70年代に緊張緩和が進んだ結果、1972年にニクソン・ブレジネフ間で合意に達した。翌年からの第2次交渉に引き継がれた。

 1945年に核兵器が開発され、広島・長崎で現実に使用されてから、米ソの東西冷戦が深刻になり、米ソの核保有核弾頭は急速に増大した。アメリカは1945年の2個から64年までに3万1600個、ソ連は1949年の1個から64年には5100個に達していた。また核弾頭の移動手段である大陸間弾道ミサイル(ICBM)と潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)が次々と開発されていた。特に、核弾頭をもつICBMなどの発達は、米ソが大陸間で直接相手を核攻撃することを可能にする戦略兵器であり、その出現は戦争の形態を一変させる可能性を持っていた。
 米ソ冷戦は1962年キューバ危機で核戦争の一歩手前という、危機感を世界中に抱かせた。米ソ両首脳も、このまま無制限に核開発競争を続ければ、お互いが消滅しかねない、最終段階を迎えるという危機感をもつようになった。核開発に歯止めをかける必要を意識した米ソとイギリスは、翌年、部分的核実験停止条約(PTBT)に調印し、1968年には国連総会で核拡散防止条約の成立に賛成した。
 しかし、アメリカはまもなくベトナム戦争に本格的に突入、一方のソ連は中ソ対立が深刻化し、中国、原爆実験という情勢となった。
 こうした切迫した情勢の変化を受け、米ソは核保有二国間で直接交渉する必要を認め、戦略兵器の制限に関する交渉、SALT(ソルト) Strategic Arms Limitation Talks の予備交渉を1969年11月からヘルシンキにおいて開始し、70年4月からはウィーンで本交渉を行った。議題の中心は戦略兵器としてのICBMなどの核弾頭移動手段の数量規制であり、新型核戦力の開発制限、偶発的核戦争の防止などについても話し合われた。

戦略兵器制限交渉の意味

 1962年にキューバ危機を回避し、1968年に核拡散防止条約を締結して、核の独占をはかった米ソ両国は、戦略兵器制限交渉を69年にヘルシンキで交渉を開始した。70年代、米ソ冷戦の緊張緩和(デタント)が進む中で、米ソ両国の戦略兵器に関するバランスをとることで、その独占を維持しようとした。つまり、SALT・Ⅰは核廃絶のためではなく、米ソの軍事バランスをとるための交渉であった。実際に使用する可能性の低い戦略兵器を、無制限に増強しても抑止力にならず、かえって自国経済を困窮させることになって国益に合わないことに、ようやく米ソが気づいた、といえる。ねらいは現状固定と開発制限であり、削減や廃絶をめざす軍縮ではないことに注意。

Talks から Treaty に

ニクソンとブレジネフ
1972年5月26日 モスクワでSALT・Ⅰに調印した、ニクソンとブレジネフ
 アメリカのニクソン大統領がモスクワを訪問し、ブレジネフと会談し、1972年5月26日にSALT・Ⅰに最終的に合意し、署名した。これによって、TはTalks から Treaty にかわった。主な内容はICBM発射基の上限を米1045基、ソ連1618基としたこと、潜水艦の発射基は米710、ソ連950の枠を相互に認めた。しかし、いずれの数も双方にとって現状凍結の域を出るものではなく、新型ミサイルの開発の制限は徹底されなかった。<前田哲男編『岩波小辞典 現代の戦争』2002 岩波書店 p.241>
 これによって一応、米ソの戦略兵器の上限が設定されたが、この条約の有効期限は5年とされ、その間の質的進化も含めてあらたな細目化された「制限」を行うため、翌1973年から戦略兵器制限交渉(第2次)(SALT・Ⅱ)が開始された。

戦略兵器制限交渉(第2次)/SALT・Ⅱ

1973~79年のアメリカとソ連の二国間で行われた戦略核兵器の制限(現状固定)をはかる交渉。SALT・Ⅱ。戦略兵器の制限で合意に達したが、79年のソ連のアフガニスタン侵攻で実行されなかった。

 緊張緩和(デタント)の進展に伴い、1973年にアメリカとソ連は戦略兵器の制限に関する交渉を開始した。前年の1972年のSALT・Ⅰの成功を受けて交渉が始まったが、技術的には双方で新型兵器の開発が進んだため、交渉は難航した。1974年にはニクソンに代わったアメリカのフォード大統領とソ連のブレジネフ書記長が会談したが、進捗はなかった。
 ようやく、1979年6月にアメリカのカーター大統領、ソ連のブレジネフ書記長の間で合意が成立し、調印され条約となったが、同1979年12月にソ連のアフガニスタン侵攻が始まったことで米ソ間は急激に冷え込み、議会もSALT・Ⅱの条約批准を否決したため、結局この交渉は実らなかった。

戦略兵器制限交渉の意義と評価

 第一次戦略兵器制限交渉では、1972年に話し合いが進展して合意に達し条約として調印された。引き続いて行われた第2次交渉も、いったん合意に達し調印されたものの、結果的に批准されず、条約とならなかった。そのため、歴史用語的にも「交渉」にとどめている。つまり、戦略兵器制限交渉は、一次・二次をあわせて、二大国の手打ち式には至らなかったかったということであろう。それでも東西冷戦下の1970年代に、米ソ間に戦略兵器開発競争に歯止めをかけようというチャンネルがあったことは重要であり、限界はあるものの評価すべきであろう。当然次に問題となるのは、核ミサイルの「削減」Reduction であり、それを確固とした「条約」Treaty とすることになる。

制限交渉から削減条約へ

 70年代の緊張緩和の時代は終わり、1980年代にはアメリカのレーガン大統領による対ソ連強硬姿勢への転換とともに新冷戦と言われる新しい段階に入ることとなった。そのなかでも並行して、「制限交渉」の次の段階である「削減交渉」 Reduction Talks が1982年にはじまった。こんどはSALT(ソルト)ではなく、START(スタート)といわれた。
 START・Ⅰは、レーガンのアメリカとブレジネフのソ連が硬直した姿勢を取ったため合意は容易ではなかったが、1989年の冷戦終結後をうけて、1991年に合意に達し、戦略兵器削減条約(第1次)が成立した。続いてソ連崩壊後の1991年からは当事国がアメリカとロシアに変わった上で(START・Ⅱが行われ、1993年に戦略兵器削減条約(第2次)が締結された。そこでこちらは世界史用語的にはいずれも交渉ではなく「条約」として扱われている。

まとめ 米ソ二国間の核軍縮交渉のポイント

 1970年代の戦略兵器制限交渉から90年代の戦略兵器削減条約に至る経過は、用語の理解に慎重をようする。複雑な家庭があるが、まずポイントをまとめておこう。
POINT1 戦略兵器とは  戦略兵器 Strategic Arms とは敵国の政治中枢を直接攻撃することのできる核弾頭を装備する大陸間弾道ミサイル(ICBM)などを意味している。実際に使用する局面よりも、それを所持することで敵国からの攻撃を抑止するという戦略上の意味の強い兵器のこと。戦略兵器には陸上から発射する大陸間弾道ミサイル(ICBM)だけでなく、潜水艦から発射できるミサイル(SLBM)もあり、米ソそれぞれ相手に先に発射させないためと称して開発を進め、増強に努めた。60年代初めまでにアメリカは3万個以上、ソ連は5000個以上を所有していたという。
POINT2 制限交渉とは  実際に使用すれば、敵国の中枢を破壊することは出来るが、同時に反撃の恐れも高まり、自国の相当な被害も想定されることから、現実での使用が同時に双方の国家の終わりにもつながりかねない。そのような実際に使用されることのない戦略兵器を開発、維持する軍備拡張はそれぞれの経済を大きく圧迫することとなった。そこではじまったのが、両者が戦略兵器の数量について、制限 Limitation する(上限を設ける)ことを話し合う Talks ことで、共同歩調を取ろうというのが制限交渉であった。なお制限の対象となったのは核ミサイルそのものではなく、それを発射するための移動手段を制限するという形を取った。
POINT3 交渉か条約か  これはアメリカとソ連の二国間による交渉であり、国際連合などの国際機関は関わっていない。現実的な核大国である米ソが、抗争に火がつく前に、お互いの戦力のバランスを取っておこうという、話し合いだった。SALTⅠでは条約が締結されたが、SALTⅡはアメリカが批准しなかったので条約とはならなかった。そのため一般に、SALTのTは Talks のままにされている。
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前田哲男編
『現代の戦争』
2002 岩波小辞典